第五章 32:慈愛
「ユウトはもう寝たのかしら?」
ワモの道場に戻った三人は、逃げている間、泣きじゃくっていたユウトがフラフラになりながら部屋に戻っていったのを心配していたローシアがレイナに尋ねた。
部屋まで肩を抱えてベットに寝かしつけたのはレイナで
「すぐに寝ましたわ。あれだけ泣けば疲れてしまうのも無理はありません」
ユウトは逃げている間、姉妹の代わりのよう「大声で叫び、泣いていた。そこまでにワモを思いやる気持ちがあったのかとローシアはすこし不思議に思っていた。まだ会って数日のワモにそこまで心配して感情を露わにするユウトの心情はわからなかった。
ワモは三人を守るためにリオスの前に残った。あのワモでさえ厳しい戦いになると言っていたのだから、きっとリオスが追いかけられなくなるほど距離を離れればワモも逃げるはずだ。そしてこの道場に帰ってくるに違いない。そう信じていた。
「……お姉様?」
突然の呼びかけに体がピクリと反応した。
「なに?」
「師匠は……ワモ様はご無事でしょうか」
「……きっと無事だワ。だってアタシ達の師匠だもん」
希望的観測しか出てこない姉の答えは、レイナも姉ならこんな時にはそう答えるだろうなと予想していたもので、自分たちがワモに身を挺して戦わせてしまったと悔しい思いで唇を噛む。
ユウトが現れてから姉妹の身の回りの世界は様変わりしていた。
幼い頃からギムレットの村で過ごしていた時と環境の緩やかな流れは、自らを鍛え続けた日々が粉々に砕ける程の激流と化したように完全に変わってしまっていた。
世界は広いと言ってしまえばそれまでなのだが、それでも姉妹二人は乗り越えていかなければならない。それが悲願なのだからと二人は自らに言い続けてきた。
魔女なき世界を生み出すために、アルトゥロが狙っている大災の魔女の復活をなんとしても阻止しなければならない。
だが、姉妹の先祖から辛酸を舐め続けて虐げられてきた魔女の血筋の闇が、ここにきて二人を覆い被さってきていた。
黙示録は破壊されたはずだ。
だが破壊後の世界は二人にとって、思っていた世界と全く違っていた。
それどころか、大災の魔女カリューダがこの世界にまた甦るかもしれない可能性が明らかになって、魔女なき世界を目指す姉妹にとって事態はさらに悪化していた。
希望を持って前に進んでいたはずが、いつのまにか絶望の淵さえ見え始めていた。
鍵になるのはユウトの存在で、もしカリューダが蘇るとしたら、ユウトが持つカリューダの聖杯が必要であり、もしまたユウトが誘拐されようものなら、今度は本当にカリューダが蘇るかもしれない。
そう思うと、ローシアは手が震えた。全てが無駄になるかもしれないという恐怖だった。
魔女狩りは姉妹にとって他人事ではない。魔女の末裔である姉妹はすでに経験していた。
レイナはその時の記憶は幼かったせいでないが、ローシアには脳裏にこびりつくように残っていて、ふとした時にフラッシュバックする。
最後に握った母の優しく柔らかい手がするりとローシアの手から離れて遠くなっていく母。
泣き叫んで母の名前を何度も何度も声が枯れるほどに呼び叫んだあの日を忘れたことなど一度もなかった。
今もまたあの日のことをフラッシュバックしそうになり、何度か深呼吸をして冷静さを取り戻す。
と、ドアの前に誰かがいる気配がした。
レイナも気がついたようで同じくドアに視線を向けた。
「誰かしら?こんな夜更けに」
ローシアがドアに向かって声をかけると
『私だよ。私、シロだよ』
カリューダの知識の権化であるシロと聞いてローシアはすぐにドアに駆け寄って開けると、ドアの外でお座りしているシロがローシアを見上げていた。
『やあ。彼が寝静まったあとふと思ったんだけ。きっと君たちは私と話をしたいのではないかとね。こんな時になんだが少し話をしないか?』
二人は少し驚いていたが、シロは返事を待つことなく軽やかに二人の部屋に入った。
甘いものが欲しいと尻尾を振っておねだりするシロに、レイナは小さな皿に匙一杯分の蜜を垂らしたものをシロの前に置くと、さらに激しく尻尾を振って丁寧に舐めた。ローシアはその様子を椅子の背もたれに寄りかかりながらじっと見ていたが、どこからどう見ても犬にしか見えない。ましてや世界を混沌に陥れたカリューダの気配なんて全く感じない。
ひとしきり堪能したシロは舌なめずりをなん度もして、「ありがとう。堪能させてもらったよ。上品な蜜だ」と感想を述べた。
ローシアはシロが蜜を舐め始めた時から緊張していて、シロの一言目に唾を飲み込んだ。
カリューダと話せる機会を得た。シロはカリューダの知識そのもので、いわばカリューダと話せる唯一の手段だ。
魔女マーシィの末裔として、マーシイの生前の大魔女と話せる事があるとはこれまで全く考えもしなかった。
黙示録の中からシロという犬として顕現したカリューダの知識は、姉妹の宿命に大きく関わる存在だ。そしてそさんの魔女マーシィを知っている二人目の人物だったのでまずは丁寧に話すべきと思い
「……アタシ達に話す機会を与えてくれて感謝します」
と丁寧に感謝から述べたが
『フフフフフ……らしくないね。彼と話す時はもっと粗雑に話すので、いきなりそんな風だとこちらも構えてしまうね』
と逆に警戒されたように少し引かれてしまった。
「……失礼したワ」
『いや、いいんだよ。彼のマナを共有して私もすこぶる調子がいいんだ。ようやく彼以外にも話ができるくらいにはなれた。とはいえあまり彼と離れては私の存在もただの子犬になってしまうけども……そのリスクを許容しても君たちと話しておきたかったのだ』
「……なるほど。それはどう言ったお話なのかしら?」
シロは口の周りについた蜜を舌舐めずりしてから
『君たちは魔女の末裔だね?』
突然誰にも言い当てられたことのなかった祖先を見事に言い当てられた。
ローシアとレイナは目を見開いて顔を見合わせたが、目の前にいるのはカリューダの知識なのだ。驚く方が失礼かもしれないと思い至ったローシアは「ええ。ご推察の通りよ」と答えるとシロは、舌を口に収めた。
『なるほど。私以外の魔女となるとマーシィかクライヌリッシュかになるが……その瞳の強さはマーシィかな? 君たちを見ていると不思議とマーシィを思い出すんだけども……合っているかい?』
シロの口角は少し上がって、予想の的中を確信したような笑顔で見上げていた。相手は大災の魔女と呼ばれたカリューダなのだ。魔女の末裔達が迫害される現在とはいえ、出生に嘘をつく理由などなかった。
「ええ。それもご推察の通りね」
『なるほど。二人ともよく似ておるな……』
魔女マーシィに会った事があるエミグランにも同じことを言われたことを思い出した。
姉妹は魔女狩りが蔓延る現代で、マーシィの事を恨んだことはなかった。マーシィに似ていると言われて、二人とも素直に嬉しく思った。
『私はこの姿で人々の話を盗み聞きしながら今の世界の情報を集めているが、大災の魔女が私の別名であったり、魔女狩りという言葉が存在する道程を考えると……君たちもきっとこれまで魔女狩りの対象になったのだろうね』
コレまでの苦労を労うようなシロの言葉にローシアは、過去の悲惨な記憶がフラッシュバックしそうになると、目を一度ギュッと閉じてすぐに開き
「そうね、確かにそうだワ。でも謝ってもらおうなんてこれっぽっちも考えてないんだワ」
と強がって返したがシロはにべもなく
『当たり前だろう? 私が君たちに謝ることなど何一つとしてないからね』
と返してローシアは癪に触る。何を言うのか、あなたのせいで世界は一危機を迎えたと言うのに。そして大災の魔女出現以降、魔女は排除される世界を生み出してしまったと言うのに、そのせいで自分たちが追い詰められ苦しんでいると言うのに……と心の中で蔑む。レイナも同じような事をおもっていたが二人の様子を見てシロは、聞こえないように鼻の奥で笑う。
『君たちは魔女に対してなんらかの負の感情を持っているに違いないと思う。それは当然この私に向けられたものだとすぐにわかるさ』
ローシアの先祖が苦しめられた大災の魔女の一言があまりにも無慈悲な言葉でローシアは怒りを噛み殺すために奥歯を噛み締めてから、怒りが漏れないように注意してから話し始めた。
「怨まれているとわかっているなら……そう逆撫でして欲しくないワね、あなたの言うように怨みが時代を越えるとわかっているのなら、あなたがこの世界の人たちに怨まれるような事をした事は知っているはず」
シロは小首を傾げて『知らないね』とまたにべもなく返すと、ローシアは怒りに任せてテーブルを拳で叩いた。
すぐにレイナがそばに寄って怒りを鎮めるようローシアの肩に手を置いたが振り払った。一触即発な空気の中、シロはローシアに問う
『……君は話にしか聞いた事がないはずだろう? 私の過去の行動を』
「ええ、あなたが世界に悪名を轟かせた大災の事をね」
『おかしなものだが、私の記憶にはそのようなものはないのだよ。残念ながらね』
「なんですって……?」
シロの告白はありえないものだった。世界を混沌に陥れたカリューダが、五百年前に起こった大災害の記憶がないと言い出すことは存外だった。
ローシアは聞き直すだけで、続ける言葉は出なかった。その反応を楽しむかのように、シロは二人の反応がよほどおかしかったのか口角が上がる。
『歴史は生き残ったものが綴るストーリーでしかないのだよ。それが真実か否かはさして重要なことではないのだ。そう言うものだよ』
ローシア達はシロが暗に大災の魔女はでっち上げられたものだといいたいらしいが、信じることなんてできるはずがなかった。
しかしシロはカリューダの知識と記憶そのものであり、エミグランもそう認めている。
『この国にヴァイガル国の命運が握られているとか情けない話さ。どうせ堕落した人間が形骸化したものだと決めつけたのだろう……情けない話だ……王家の儀式すら簡素になり、本物は今を生きる人間には扱えないのだろうな。聖書記がいない事が良い例だよ』
シロが吐き捨てるように言うが
「何を言っているのかさっぱりわからないんだワ」
二人は同じように眉を顰めていたが、シロは昔話をして思い出される事が多かったのか我に返って
『まあそんなことは今はどうでもよいよ。話したところで意味はない。それよりもだ! 君たちは彼のことを守るつもりはあるのかい?』
呆気に取られている間にシロの話は続く。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、過去の大災の事……」
『今、私が言う事を心から信じることなんてできないだろう? なら話すだけ無駄だ。それよりも明日につながる話をしたいのだよ。私の聖杯を持つ彼を守るのかい?」
ローシアははぐらかされたようで気分は良くなかった。
「フン……当たり前じゃないの。何を言うのかしら? ユウトがアルトゥロの手に渡ったら……」
と鼻を鳴らしてくだらない話を切り上げようとしたが
『そうなる前に殺すのかい?』
――!!
シロが言った言葉はエミグランにも尋ねられた、アルトゥロにユウトが奪われてしまう前に殺す覚悟はあるのか、と聞かれた事を思い出させる問いに言葉が詰まった。
レイナは代わりに「そんなことは……」と否定しようとしたがシロは饒舌に畳み掛ける。
『そのような考えがあるのかないのかを私はきいているのだ。もし仮に、今アルトゥロがすぐそばに来ていて太刀打ちできない強さだとしよう。彼を奪われてしまう事が明白であり、彼は今、別室で寝ている……さあ、どうするのだ?』
「それは……」
今度はレイナが言葉に詰まった。ユウトを殺すなんてことはレイナにはありえない事だが、もしカリューダが甦るとなると、ローシアがユウトを亡き者にするために動くかもしれないし、姉を止められる自信がなかった。
そして、妹の言いたい事も理解できていたローシアは
「その状況になってみないとわからないんだワ! リオスに襲われたワモ様がまだどうなっているかもわからない状況でそんな事が予測でも考えられないんだワ!」
くだらない予測をやめるようシロを何度も指差しながら、憤りが声にも表れた。
『……残酷だね。彼は何も言わないが、生きたいと願っているよ? 君たちの力になりたいと願っているのだよ? 君たちの都合をわかっていながら今を生きているのだよ?』
レイナは心臓が高鳴った。
――私は……今シロ様に何を言ったのだろう……ユウト様をお守りすると決めたはずなのに……――
命の恩人であるユウトを守る。レイナがエオガーデに追い詰められた後のあの夜の誓いが薄れていた事を思い知り、俯くと、胸元に輝く双子花の宝石がレイナの目に輝きを写す。
ユウトが二人に黙って命懸けで取ってきた双子花はずっと胸元で輝き続けてきたのに、今その光のことを思い出した。
忘れたわけではなかった。ユウトが姉妹のために贈りたいと一人で思い至って贈ってくれた大切な宝物だ。
『やれやれ……君たちは彼のことを何も考えていないのだね』
「そんなことはないです! 私はユウト様のお側にいると決めたのです!」
『黙れ』
――!
『答えるべき時に答える事ができなかった事実だけで充分だよ。全て物語っている』
「わ、私はユウト様を守りま……!」
『黙れと言っているのだよ。言葉が理解できないのかね? 最もわかりやすく理解しやすいように感情を少し込めて端的に述べたのだが』
「黙るのはあんたの方なんだワ!」
シロは歩み寄ろうとするローシアを睨みつけた。すると足の裏が床に張り付いたようになり、驚きながら前に倒れた。
『残念だね。私はカリューダの知識、この体は小さくてもマナは扱えるんだ。最小限の効果だけど君の自由を奪うには効果的だろう?』
「くっ……そぉ……」
『とはいえ今はそのくらいしか出来ないんだ……まあこうなるだろうなとは予測がついていた。一縷の望みを持って挑んでみたが、予想通りで残念だよ。私は彼のもとに戻るとしよう。話すだけ無駄だとわかったからね』
ローシアは床に張り付いた足を無理やり剥がそうとするが、床と一つになったように動かず、部屋から出ようとするシロに
「なにを……偉そうに!」
と悪態をついた、しかしシロは振り返らずに
『違う。君たちが愚鈍ゆえにそう見えるだけだよ。勘違いしない事だね』
と少し暗い声で言った。
『残念だが君たちは少なくともこの世界において彼のことを考えてくれると人間たちだと思っていたけど……勘違いだったようだ。至極、至極残念だ。』
「なにが言いたいのよ! はっきり言いなさいよ!」
シロはもう何も言う事はなくなり、ローシアの大きな声に何も答えず、部屋のドアを見ると自然に開き、部屋を後にした。
ドアは自然に開いた時とまったく反対の動きで閉じられると、シロはドアを見上げた。
『何百年経っても変わらぬものがあるのだな……残念と言うよりも情けないものだな……アルが憤るのも無理はない……』
思いを一人ごちるとユウトが眠る部屋に戻っていった。
ユウトの部屋に戻ったシロは、眠っているベッドに飛び乗り、フカフカのふとんに足を取られないように気をつけながらゆっくりとユウトの顔に近づいて覗き込む。
少し寝顔を注意深く眺めた後、ユウトのほおを二度舐めた。
『……また泣いていたのだね。まったく、君は初めて会って少しの人間にもそう感情を寄せれるのかね』
スン、と鼻を鳴らしてユウトの顔を全体的に嗅ぐ。
『……素っ頓狂に見えるほどに優しい君。もし私の体がこの犬でなければ、抱きしめて添い寝してあげたいが、それは叶わないのでね……せめて側で寝るくらいしか出来ない事を許してほしい』
少し寂しそうに眠るユウトにそういうと、ふとんを鼻を使って潜り込み、暗い胸元で丸くなって目を閉じた。




