第五章 19:夢現
――ノースカトリア付近 街道
エミグランの親書を、ノースカトリアの首長に届けたギオンとアシュリーは、来た時と同様に貴族会の馬車に乗って帰路についていた。
ノースカトリアとドァンクの関係は元々良好で、貴族界の支援無くして発展はなかったノースカトリアは、悪く言えばドァンクには逆らえない立場だった。
しかしエミグランは、ダイバ国と同じような要求はせず、避難民の一時受け入れを要請しただけにとどまった。
もしドァンクがヴァイガル国に敗れる事があるとすれば、次はノースカトリアが狙われる立場にもなる。ダイバ国がヴァイガル国につけば、親ドァンクであるノースカトリアは孤立してしまうが、国民性として、ドァンクを裏切る判断はできなかった。
ギオン達が新書を届けた次の日の朝には、国民に対して一斉に御触れが発行され、ギオン達にも届けられた。その御触れはギオンは大切に持っていて、懐から取り出して開く
【我が国の発展のために、多大な尽力と支援を賜った貴族会エミグラン公と敬愛するドァンク国民が、隣国ヴァイガル国に平和を脅かされている現状を看過することはできない】
この一文を読んだギオンは目頭が熱くなった。
「さすが、エミグラン様だ……」
ノースカトリアを国として繁栄させた一助をエミグランが担っていたと知り、ドァンクだけ孤立しているわけではないと思えた。
獣人は二百年前の戦争で序列が決められた。
人間よりも下の扱いになる上に、ヴァイガル国の法律は世界から注目される法規であるが故に、どの国でも獣人は人間と同等の扱いを享受できない運命だった。
人間が国の要職を占領し、獣人は省かれてしまう。決して人間よりも能力が劣っているわけではないのに、法によって縛られた獣人はどんなに研鑽や努力を重ねても無駄な努力にしかならない。
人間と同格に並ぶことは、法のもとあり得ないからだ。
不当な扱いも全て獣人戦争で負けたからなのだ。
負けたなら代償を支払わなければならない。
獣人は人間のために能力を捧げる仕組みを創り、模倣され今に至っている。
過去から綿々と続くしがらみと抑制は、表立って表面化することはないが、全人類の思考の奥底にこびりついて剥がれることはない。
獣人は奴隷と同義である。と。
ギオンもアシュリーも、仲間や友人が受けた奴隷のような扱いは嫌でも耳に入る。
特にヴァイガル国の労働階級の一番下にいる獣人は、表立って見ることはないものの過酷な労働を強いられるケースが多い。
それがヴァイガル国に獣人が【いない】と言われる理由だ。
実質は見えないだけなのだ。
ヴァイガル国に、安い金で売られた獣人は、下手するとその命が尽きるまで過酷な労働を強いられる。ドァンクに逃げる手段もなくはないが、獣人売買契約が成立している事を記された契約書があれば、ヴァイガル国から指名手配され、見つかり次第送還される。
逃げ場のない獣人の悲鳴と涙をギオンもアシュリーも、黙って、歯を食いしばって見守ることしかできなかった。
負けたものの宿業は、未来永劫続く。
終わらせるには勝つしかないのだ。
ギオンはアシュリーにも打ち明けていなかったが、この戦いは、獣人達の未来をより良きものに、そして等しく生の祝福を得られるまたとない機会であると確信していた。
自身の命を賭してでも、なんとしても勝たなければならない。
命を捨ててもと言えばアシュリーは、ならば私も!とついてくるに違いないと横に座るアシュリーを見やると、同じようにノースカトリアの全国民に渡った御触れを見て、唇を噛んで決意の固まった顔をしていた。
――この争いに、アシュリーを巻き込むのは避けたい……――
ギオンが想うアシュリーが血の海になる姿など想像したくもないが、ついてくると言えば必ず修羅の道を歩まねばならない。殺すか、殺されるかなのだ。
いざ戦いにとなれば、相手を殺さなくてはならない局面が瞬きしている間にいくらでも現れる。数えるまもなく。
――それはヴァイガル兵ならまだいいが……
ギオンは、未来を憂うがゆえに自らの膝を強く握る手の上に、アシュリーがそっと手を重ねた。
ギオンは突然手を重ねてきたアシュリーを見下ろすと、まるで幼き日に見た母親のように穏やかに微笑んでいた。
「ギオン様……きっとこれから起こる争いの事で私の身を案じておられるのですね」
見透かされたように心を読まれたギオンは、一度咳払いをして声を整える。
「うむ……おそらくユウト殿達がダイバ国に持参した親書も、対ヴァイガル国の物に違いないはず……エミグラン様は覚悟を決められたのだ。某も覚悟を決めねばなるまい」
エミグランはドァンク共和国を建国し、長きにわたり獣人国家の確立と、対ヴァイガル国の役割と責任を背負ってきた。ギオンはエミグランに感謝しかなかった。もしドァンクが無ければ、多くの獣人の生活がどうなっていたかわからない。
獣人のために尽力してきたエミグランが、静寂を破って一気呵成に仕掛けている。不穏な空気が蔓延する前に。
おそらくこの馬車がドァンクに着く前には、近いうちに発生するであろう戦火を逃れるためにノースカトリアに向かうドァンク国民とすれ違うだろう。
ギオンはドァンクに守れば一人の戦士になる。
ドァンクに戻るまでの二人の時間は、お互いに大切な時間だった。
アシュリーはエミグランの護衛につく事になるし、ギオンは前線に配置されるだろう。
二人を別つ運命を受け入れて、また再会できることを信じて、アシュリーは二人のこの時間を大切に思っていた。
「私は、エミグラン様のもとで必ず守ります。何があっても……」
「……うむ。」
「ですが、絶対にあなたと再会できると信じています」
「……」
「わがままと言われても言います。あなたも信じてください」
確約できるかわからないギオンは目を閉じた。
この命で獣人達の運命が変えられることができるなら惜しくはなかった。
全ては、同胞達の未来のために……
途端、ギオンの唇に少し冷たく、柔らかい感触があった。
ハッとして目を開けると、アシュリーの閉じた瞼が目の前にあった。
アシュリーが何をしているのかすぐにわかったギオンは、目を閉じて、アシュリーの肩を抱き寄せて目を閉じた。
愛されているのはわかっていた。
自分が愛しているのは当然だった。
この命が尽きるかもしれないという密かにしていた恐怖はアシュリーに伝わっていた。
ギオンが目を閉じたのは、アシュリーの目尻から流れる一雫の涙が見えたからだ。
震える小さな体を落ち着かせるように撫でて、心が一つになればと少し強く抱きしめた。
どちらからともなく唇を離したアシュリーは、ギオンの肩に顎をかけるようにして
「……生きてください……死なないで……」
振り絞るように声も体を震わせるアシュリーの事を深く考えていない自分に腹が立ったギオンは、強く抱きしめた。
「うむ……生きる」
ギオンから最も聞きたかった答えを聞いたアシュリーは、嗚咽した。
「嘘ではないぞ、某は生きる。アシュリーを残して死ねるものか!」
「――!」
「お主は某が守らなければならない。」
アシュリーの腕にあるサンズにつけられた古傷を指で撫でた。
「お主の苦しみも悲しみも、某が引き受ける。だから泣くなアシュリーよ。某はこれから護る戦士になるのだ。国もお主も護ってみせる」
ギオンの言葉に嘘はなかった。これまで命をかけて戦う事はあったが、戦う理由は生きるためだった。
しかし今、守るべき人が目の前にいる。
愛おしく、心の底から死なないでほしいと願っている。
こんな健気なアシュリーを残して死ぬ事など考えられるはずがなかった。
ギオンは体の芯から熱く燃え上がる何かを感じていた。
死なないと、命を賭して戦うことに躊躇ったはずなのに、命を賭して戦う以外にこんなにも燃え上がるエネルギーが体の中から溢れそうになるとは存外だった。
エネルギーの源が腕の中で自分を思って泣いている。
泣き止むまで、せめて少しでも自分がアシュリーを想う心が伝わるように抱きしめて、優しく頭を撫でる事が、泣かせてしまった罪滅ぼしだと震える肩を大きく抱き寄せた。
馬車は、自然と引き寄せ合う二人をゆめうつつに揺らしながら、ドァンクに向かっていた。




