第五章 1:他人事
ヴァイガル国は、イクス教を国教と定めた宗教国家である。
産学官の活動にはイクス教が漏れなく関与しており、宗教活動の本懐としてヴァイガル国の繁栄を祈り行動する。
しかし、金や権力に取り込まれるイクス教の人物が後を経たない状態で、大神官でさえも王に密かに金を無心する事もあった。
詰まるところ、人間は欲に抗えない生き物だと歴代のヴァイガル国王達は確信していた。
現在の国王であるアグニス王は、イクス教を利用するつもりでいた。
これまで国民は王族に清く正しいものだと小さい頃から教え込まれていた。
歴代の王族は、教育とは便利な道具だと考えていた。無垢な子供の頭脳に知識と称して王族が選りすぐったものだけを型に流し込むようにじっくりと丁寧に施せば、国内の知識は王族の都合の良いものに仕立て上げられる。
建国千年の積み重ねで培ったヴァイガル国の知は、王族とイクス教の都合が良いものに育てることができた。
大災の魔女もその一つだ。
歴史は勝者が創り上げるもの。
五百年前に起こった大災と呼ばれる出来事は、ヴァイガル国が全て書き記した歴史だ。
その当時を知るものは、もう二人しか居ない。
エミグランとアルトゥロ。
二人は一日千秋の思いで待っていた。
全てを知る者が顕現するその時を……
そして顕現した今、運命は動き始めた。
**************
ヴァイガル国はとドァンクの軍事衝突から一日過ぎた昼前に、ユウトと姉妹はエミグランに呼び出されて、主のいない執務室にいた。
ユウトは執務室に入ると自分の呼吸が荒くなるのを実感した。
前日の夜に、エミグランと姉妹はこの部屋で、今後の自分自身のことを話していたのを聞いてしまっていた。
数日前にイクス教神殿地下に置かれていた黙示録と呼ばれていた石碑をユウトの力で壊す事ができた。
中からは、白い小さな犬が出てきた。それはカリューダの知恵を持つ犬でシロと名づけられた。
今はユウト以外に懐かないのでユウトのそばにいる。しかし今のこの状況は、カリューダの肉体と聖杯が存在している上に、プラトリカの海で再現できない『知恵と経験』がシロとして存在している事になる。
結論として、魔女の残したものを全てこの世から無くす事を悲願としている姉妹としては黙示録の破壊は達成したが、悲願の本質である『魔女の全て無くす』ことはまだ未達となる。
エミグランと姉妹が、ユウトを抜きにして話した内容は
『もし、いざという時に、ユウトを殺す事が出来るのか?』
というユウトからすれば殺人予告にも聞こえる質問だった。
ユウトはカリューダの聖杯を受け継いだたった一人の人間だからこそ、アルトゥロはその聖杯を奪いに来る。
奪われたら、プラトリカの海の秘術によりカリューダの肉体を持つアルトゥロが自由に操れる『大災の魔女 カリューダ』が甦る事になる。
それだけは避けなければならない理由がエミグランにも姉妹にもある。
エミグランはカリューダの愛弟子として、亡き師匠の力を甦らせ、アルトゥロの思いのままにさせてはならないし、ヴァイガル国が世界を牛耳るほどの力を手に入れることは、この世界に住むすべての者にとって脅威にしかならない。世界はヴァイガル国のものになるとさえ考えていた。
姉妹は、魔女マーシィの末裔で魔女と呼ばれるほどの力は持っていない。魔女と呼ばれるほどの力を持つ者は、カリューダ亡き後は現れていない。
すでにこの世界には魔女など存在しないはずだが、いまだに魔女狩りと称して、行き過ぎた力を持つ者をあぶり出して殺されてしまう今の世界を変えたいと願ってここまでやってきた。
エミグランと姉妹は共通してカリューダを甦らせる事は絶対にあってはならないと考えていた。
昨日の夜、姉妹がエミグランにユウトの命を失う覚悟があるのかと問われた時、ローシアが口にした言葉を思い出した。
『あるワ。覚悟は。』
ユウトがエミグランの手によって殺される事を尋ねられた時のローシアの言葉だ。
ユウトはその後に嗚咽した。
なぜ自分のいない所で命のやり取りの合意をするのかと。
殺されたくなんてないが、もし、自分が世界にとっての癌だと言うのなら、せめて自分も同席していたかった。その方がまだ例え殺されるとしても仕方ないと思えるかもしれなかった。
今は、いつ殺されるのかと二人を見てそのことばかりが脳裏をよぎる。
いつかその日が本当に来るのだろうだと思うだけで、心が締め付けられるように苦しかった。
隣でいつも通りに振る舞う二人の心の奥底には、自分を殺す決意がある。
そう考えるだけで孤独に思えたし、今すぐに部屋から出て行きたかった。
一人になって、もしアルトゥロが現れたらどうなるかと考えると、この場から逃げ出す事もできず、拳を固くして耐えるしかなかった。
「ユウト様? 体調が良くないのでしょうか?」
神妙な面持ちのユウトに体を寄せて顔を心配そうにのぞいてくるレイナの顔が見えて驚いた。
「……! ご!ごめん!……だ、大丈夫だよ。」
目線を下すと視界いっぱいに映り込む豊満な胸の間にはまり込む白く輝く双子花のネックレスがポロリと首からぶら下がって落ちる。
ユウトの視線見ていたローシアが、ため息の後に軽蔑を込めて言う。
「アンタ、視界が随分といやらしいんだワ」
「そ、そんな、そんないやらしいところなんて見てないよ!」
見てないはずはなかった。悲しい男の性だ。
レイナはローシアの言葉に少し顔を赤らめて胸元を腕で隠すと「……もう……お姉様!」とローシアをせめた。
レイナはユウトが何を見ようとあまり気にしないがローシアの無粋な言葉にそう反応せざるを得なかった。
「ハン……ここはエミグラン様の執務室なんだワ。いかがわしいことは二人の時にしてくれるかしら?」
レイナの顔が更に赤くなる。
「い、い、い、いかがわしい事だなんて……!」
「あら、顔が真っ赤なんだワ」
ローシアの服装並みに赤くなったレイナは両手で顔を押さえて姉の肩を平手で叩き続ける。
ユウトは前までの自分なら同じように顔を赤くして照れていたのかもしれないが、二人の間に見えない壁で遮られているかのように何も感じなかった。
だが、何も反応しないのも気が引けるからと、から笑い気味に笑って場に馴染むようにつとめた。
執務室のドアが開かれた。
外にはリンを連れてエミグランが立っていた。
エミグランは三人いる事を確認し、「ご苦労じゃな」と簡単に挨拶をして部屋の中央に歩いて凛として立ち止まった。
ユウトの目には、エミグランは疲れているように見えたが、そう感じさせないように立ち振る舞っているのだろうかと少し心配になったが、次に発せられた声に張りがあった。
「ご苦労じゃ。早速で悪いが事は急を要するため単刀直入に要件だけを話す。」
ローシアはエミグランの物言いに突っかかっる
「昨日の今日で随分と急かすなんて、それなりのことなのかしら?」
エミグランは冷たい光を目に宿してローシアを見据えると、茶化すように言ってしまったローシアは息を呑んだ。
「リン。」
そばにいたリンを呼ぶと、エミグランの手に蝋で封された封書をローシアに差し出した。
「それをダイバ国王であるシューニッツ家のお館様に渡して来て欲しい。」
事を急ぐ割にはあまりにも簡単な依頼に拍子抜けしたローシアは怪訝な顔で言い返す。
「はぁ? またお使いさせる気なのかしら? だったらお断りなんだワ」
エミグランはローシアを更に冷たく見据えた。
「……お主達、そろそろ色々と考えを改めねばならない時期であろう? レイナの刀の事もそうじゃ。折れたままで何もできぬ」
レイナは刀のことを言われて悲しそうに視線を落とした。シャクナリとの戦いでレイナの刀は折れてしまっていた。今も装備しているが、刀身は折れたままだ。
「今後のことを考えて……お主達が役に立たないのならワシは全てを知る者を守るために、お主達を外す決断をせねばならない……それでも良いのか?」
「なっ……」
ローシアがいきりたつ前にエミグランが手のひらをローシアに向けた。
「ワシに示してみるか? 今のそなた達の力を。」
「……やる事が汚いワ……」
ローシアは歯噛みして恨み節を吐露する。だが
「汚いも綺麗もない。全てを知る者を守ると言うならそれ相応の力が必要……言わずともわかるじゃろう? それに、ダイバ国にはお主達の師匠も住んでいると聞く……今一度、自分たちの実力を見直して師匠の元に赴くには良い機会ではないのかの?」
姉妹はエミグランと同じことを考えていた。今の実力ではとてもユウトを守るなんて言えなかった。それどころかユウトに守られていると言われても仕方ないと思えるほどに。
ローシアの体術、レイナの剣術を見直すためにダイバ国の師匠の元に向かう必要があると考えていて、今その機会を得る話を持ちかけられたのだが、ローシアは素直にエミグランの言うことを受け入れられなかった。
――何を考えているのか、ずっとわからない女――
ローシアのエミグラン評は、出会った時から変わらなかった。
「わかりました。僕たちが行きます。」
わだかまりを打ち破ったのはユウトだった。
「ユウト様……」
「アンタ……勝手に口出ししないで」
「ローシアが汚いと思っても、きっと行ったほうがいいよ。二人の師匠に会う事が、ローシア達に必要だと思うなら受けたほうがいい。」
ローシアはユウトの言う事に反論できるはずがなかった。今、エミグランに抗う理由は個人的な思いから出る疑惑で、レイナの刀の事も考えると受けるほうが良いとわかりきっていた。
ユウトに水をさされた形になったが、助け舟のようにも思えたローシアは「わかったワ」と素直にユウトの思いを受け止めた。
ユウトは少しだけ笑んで「じゃあ準備してくるよ」と話の続きがあるのかも聞かずエミグランに軽く一礼して部屋を出た。
「ユウト様!」
扉を出るとレイナが追いかけてきた。
「どうしたの?」
「あの……ありがとうございます」
ユウトは少し考えた。何のお礼を言っているのかわからなかったからだ。
もしかしたらローシアの凝り固まった意地を和らげたことなのかと思ったが、よくわからなかった。
ユウトの思考の中には常にエミグランと姉妹が自分の命を『仕方なく』奪う決意が出来ていることで、少し遠くから俯瞰しているように全体を見ていた。
もし、エミグランの用事がダイバ国訪問についてではなくカリューダの聖杯の事だったら、執務室から生きて出れないかもしれないと考えていた。
不思議と恐怖はなかったが、何の感情も湧かず、レイナがなぜ感謝しているのかわからないほどに、他人事に聞こえていた。
「……あ、いや、うん……喜んでくれたのなら嬉しいよ。じゃあ準備するからさ、また後で」
ユウトはレイナに満面の笑みで返して駆け出した。
「……ユウト、様?」
レイナは少しユウトを遠く感じた。




