部屋の玄関
【玄関】
右隣の部屋から黄色い声を交わしつつ出てきた三つの足音は、グラデエションを彩るように、濃から淡へと変わっていった。
全く、我輩の背後で騒がないで欲しいものだ。なんと不愉快な事か。若い女人の発する声は耳に劈くようで何とも鬱陶しい。
近頃の女人には謙虚が著しく不足しているのだ。少しは、古き良き大和撫子を見習って頂きたいものだ。
其れに比べて、我輩の背にもたれかかるこの感触は、なんとお淑やかな事か。
やっと静けさを取り戻した廊下で我輩は独りごちる。否、声は出ない。我輩は玄関、より正確にはドアである。故に思考の範疇を逸脱する事は無かった。
然し、其れは其れとして、我輩に依り掛かるこの女人は、一体何時まで我輩の前にいるつもりなのだろうか。
若しや、我輩に異性としての感情を抱いているのではなかろうな。だとしたら、なんと虚しい事だろうか。
元来、種は同じ種としか繁殖は難しい。況してや我輩は人ではない。玄関である。繁殖は困難を究める。
とどのつまり、叶わぬ恋なのだ。如何に情愛を募らせようとも、月に手が届かぬように、海で呼吸が出来ぬように、其れは不可能である。
顔も見えぬお互いの、其の悲恋に心が痛まないという事は無い。
だが、顔が見えぬのがせめてもの救いか。何故なら、我輩の目は部屋側に付いている。
どうやっても、この目でこの女人を伺い知る事は出来ない。
突如、新しい部屋の主が唸り声を上げた。隣室の騒々しさに眠りが浅くなった、といったところだろう。
やがて主人は目を擦り、我輩の前に現れた。そして其のまま洗面所へと向かう。寝惚けているのか、千鳥足だ。なんとも、情けのない事か。
インタアフォンが鳴る。然し主人は反応がない。よもや洗面所で寝ているのではなかろうな。
再度、電子音が部屋を反響する。主人はやっとの事で気付き、我輩と対峙する。
すぅっと、背から女人の温もりが消えた。
ーーそう、それで良い。我輩とでは釣り合いが合わぬのだ。目の前の彼と青春を謳歌する方が、よっぽど自然な事なのだ。
なに、嫉妬などはしない。我輩はもう満足している。
「んぁ、誰だよこんな朝っぱらから」
「境孝司、昨日夜ノ森執行部長から、私が迎えに来ると言われていたはずでは?」
「……ああ、そういや言われてたな。今何時だ?」
主人、もとい境孝司が寝間着のポケットから学生用携帯端末とやらを取り出す。以前の主人も全く同じ物を持っていた。
「んだよ、まだ八時にもなってねぇじゃねぇか。もう少し寝させてくれてもいいだろうが。もう学校にも行かなくていいんだろ?」
「確かにあなたは執行部の一員になった。教調課所属の公務員よ。だけど同時に、学生でもある。これも夜ノ森執行部長が言ったはず。」
背後の女人は少し苛立つような声色に変わった。
ああ、どうか、怒らないでやって頂けないか。見逃してやって欲しい。大和撫子らしく、艶やかに佇んで居て欲しい。其れが、お前の恋路のためなのだ。
「あー…。そういえば、それも言ってたな。分かった、着替えてくる。少し待ってろ。」
主人は踵を返し、居間へと戻っていく。背後からは、溜息が聞こえた。
そうだ、其れでいい。我慢は女人を美しく見せるのだ。成就のためには、幾ばくかの我慢も時として必要なのだ。
すぐに主人が我輩の元へと戻って来る。以前の主人と同じような色合いの服を纏っていた。
「んで?俺はこれからどこで何をするんだ?」
主人が靴を履きながら質問する。
「中等部の校舎。あなたには私と同じように授業に出てもらう。」
小さな呻き声と共に、主人の手が鍵を開けた所で止まる。
然し、刹那の後我輩はノブを回され引き出される。
「行きましょう。あまり時間がない。行きがてら説明したい事もある。」
我輩を引き出した女人は、我輩の想像を絶する美貌を持っていた。艶やか黒髪に整った顔立ち。しっかり通った鼻筋。二重で意思の強そうな黒の瞳は、我輩の視線を捉えて離さない。ーー主人には勿体無い。一瞬にして、そんな負の感情に苛まれた。
対して横目に映る主人は、なんともあっけらかんとしたものである。なんと愚かな事か。口惜しい。
だがーー。
我輩は応援せねばならない。うら若き乙女の恋を成就せねばならない。
我輩は、笑う。表情はないのだがーー。
…果たして、我輩は上手く笑えているのだろうか。表情は一切、ないのだがーー。
お前はもう、我輩を見ていなかった。主人だけをただ見つめる。
ーーこれでいい。
我輩は閉まり、外の光景も又閉ざされた。
内部に鍵が刺さる。
ーー音を立てて、恋が終わった。




