情報軍《インフォメーションズ》の紋章
イタリア国境付近の、スフェール半島で唯一機能している民間空港。
そこのロビーがユニットAの集合場所だった。
意外にも、一番乗りはスーツケースを片手に仁王立ちしていたキャロライナで、わたしは二番手に甘んじていた。そして、エリンとクレアが現れるのを今か今かと待っている。
観光客が訪れることのない、一部の軍人たちしか利用しないこの空港のなかで、私服姿のわたしたちは率直に言ってかなり浮いていた。
「土産物屋どころか、カフェすらやってねえのかよ」
これから野球でも見に行くような恰好のキャロライナはそう言いながら、自動販売機で買ってきたコーラを飲む。これで二本目だ。何をどれくらい飲むのも、全てはキャロライナの勝手だけれど、相棒としては健康には気を遣ってもらいたい。
透明なオブジェが並ぶロビーどころか、空港全体が近年建てられたようでまだ真新しく、スタイリッシュではある。
けれど、そこに広がっているのは人のいない空間だ。離着陸の時に賑わうといっても、疎らな感は否めない。誰もいない待合室は、どことなく寂しげだ。
わたしたちはいったんドイツまで飛び、そこからアメリカ行きの飛行機に乗り換える。そう、スフェール半島での請負業務は一時中断され、その間わたしたちは本国へ一時帰国することになった。
「でも、帰りは飛行機で良かったな」
「そうだね」
わたしたちはソファに隣り合って座り、前方に広がるアドリア海を眺めていた。スフェール半島に来てからというもの、常にこの青い海を見続けてきたからか、アメリカに帰ってしまう今となってはなんだか別れ惜しい気分だ。
「そう言えばキャロル、随分と早かったね」
「ああ。ここに来る前にエーファと会ってきた」
エーファ。
わたしはその言葉を脳裏で反芻していた。
最初の任務の時に捕えられた少女。
「エーファの奴、すっかり元気になったぞ。あと二カ月したら、アメリカに来るって約束した」
「へぇ、良かったね」
そう言うと、キャロライナは肩を竦め、それから頭を抱えた。
「良くねえよ。ノリで手助けする形になっちまったんだ。一体、これからどうすりゃいいのか……」
「まずは、あの汚い部屋から片付けなよ」
わたしはマンハッタンにあるキャロライナの汚いアパートメントの一室を思い出す。
「汚くねえよ。ただ、ちょっと……物が多いだけだ」
そこで、キャロライナが明後日の方向を向くと、クレアが現れた。
彼女の優しく柔和な性格を反映してか、身に包むファッションもフェミニンで可愛らしい。髪留めや腕輪といった小物に至るまで、センスが行き届いている。
ただ、明らかに脇を過ぎる軍人たちから好奇の目を向けられていた。キャロライナやわたしのように超然と構えていればいいのに、クレアはそれを照れ臭そうにして耐えていた。
「ふたりとも、早いね」
「そういうクレアはどこ行ってたんだよ? 後はエリーだけだぞ」
「エスミのところ。お別れを言いに」
そう言えば、クレアと恵澄美は初めて会った時から意気投合していたことを思い出す。
そうとも、クレアは誰とでも分け隔てなく接してきた。それを、距離を取っていたのはいつだってわたしだったと痛感させられる。
「エスミも大変らしいけど、あんまり心配しなくても大丈夫だって言ってた。あと、キャロルやエリー、ツクモにもよろしくって」
「FHに襲われて無傷で帰って来るような連中なら、大抵のことはどうにかなるだろ」
キャロライナはそう言って笑い、飲み干した空き缶を潰す。
「まぁ、でもあんだけ根性のある奴だったら、また警護してやってもいいってこっちも思えるよ」
キャロライナはそこで思い出したかのように、周囲へ視線を振る。
「で、残りのエリーは、誰かにでも会ってんのか?」
「うーん、どうだろうね」
「まぁ、誰かって言っても、残りはジョッシュにヘイデンくらいだろうけどさ」
キャロライナはわたしの肩を擦る。
「で、ツクモはヘイデンとはどうなんだよ?」
「どうもしないよ」
「マジかよ。抱かれて満更でもなさそうだったのに」
「もしかして、お別れの挨拶、してないの?」
クレアに問われて、我ながら薄情なことをしてしまったのではないかと急に後悔の念が湧き上がる。でも、それは退院や帰国が近付けば近付くほど、ヒギンズが多忙を極めたせいでもある。
わたしは何故か、最後の最後で臆病風に吹かれて、お別れの言葉を告げることができずに今日を迎えてしまったのだった。
「なんだよ、ここまで送ってもらえば良かったのに。まぁ、しゃかりきになったところで既婚者だけどさ」
キャロライナのあんまりな言い方に、珍しくクレアが頬を膨らませてキャロライナの腕に触れる。
そこで、クレアが手を上げた。
キャロライナと共に視線を出入り口へ向けると、エリンがスーツケースを引き摺ってこちらへ向ってやって来た。マクファーソン・スクエアでも着ていた、大学生に見えるお洒落で大人びた装いだ。
エリンのロングヘアは今、ショートヘアの長さまで短くなっていた。事情を知らないキャロライナとクレアは、かなり驚いている。逆に、仕掛け人だったわたしはきっと満足げな表情を浮かべていたことだろう。
「みんな揃ってるのね。……長旅だけど、行きの輸送機を思えば可愛いものよね」
そう言って、エリンはクレアの隣に座る。
「エリー。その髪、どうしたの?」クレアが訊ねる。
「見ての通り、切ったのよ」
そう言って、エリンはわたしに目配せをする。
「ツクモに今度の髪型は短くって、うるさかったから」
「でも、凄く似合ってる。ロングも良かったけど、やっぱりエリーはショートの方が似合うよ」
わたしは胸を張って言う。
「で、代わりにツクモが今髪伸ばしてるのか?」
キャロライナがわたしの髪に手を伸ばす。
「うん」
「なんか、変わったよな」
「そう?」
「よく笑うようになった」
キャロライナらしからぬ真面目くさった表情に、わたしは目を丸くした。
「ここまで来る時にね、ジョッシュに送ってもらったんだけど、その時話したの。どうやら、わたしたちの任務も手打ちになるみたい」
自然と、沈黙が降りる。
形式的にはギーツェン捕獲プログラムは中断という形で、その間は一時帰国となっている。だけど、ジョシュアが言ったのだから、きっとそうなってしまうのだろう。
「マジかよ。結局、ギーツェンとは会えずに終わりってか」
グレゴール・ゲオルグ・ギーツェン。
写真や経歴、心理プロフィールを沢山読み込んできたけれど、結局彼とは出会うことなく、スフェール半島を今まさに離れようとしていた。
でも、恵澄美やジョシュア、国防次官が守ろうと画策した男に、会ってみたかったとも思う。会った時は、彼らの計画が狂ってしまった時なのだから、そんなことは口には出せなかったけれど。
だけど、ギーツェンの存在は遅かれ早かれ、衆目に触れることになるだろう。彼は合衆国の犯した罪を暴露することにはなるけれど、それはアメリカが償わなければならない原罪で、平和を享受する全ての米国人が知り、判断しなければならないことなのだから。
「まぁ、そういうものよ。ソマリアに行っても、アイディードを捕らえられなかったようなもので」
「まだ紛争だって終わってないのに……」
クレアは言う。その一言でみんなも思わず黙り込む。誰も聞いていない館内放送が辛うじて沈黙を破り続けるが、雑音以外の何物でもない。
「なんつーか、後味が悪いよな。ギャラが弾んでるのはいいけど、煮え切らねえし」
「そうね。でも……」
エリンは皆に聞こえるよう、はっきりとした口調で断言した。
「わたし達はコンサル傭兵であって、依頼なき任務なんてできない。全ては依頼人の意向次第。それ以外の何かに沿って働くだなんて、ありえない。それが、わたしたちの仕事でしょう?」
「そりゃ、そうだけどなぁ」
キャロライナは言う。
「ツクモはどうよ?」
わたしは目を閉じて、しばしの間考えてから言葉を発する。
「エリーの言う通り、わたしたちの仕事はここまで。後は、本職の人たちに任せる」
そう言うと、みんなの視線が急に優しくなる。
「まぁ、ツクモは十分働いたわね」
「てか、まだ傷残ってんだろ? 大丈夫か?」
てっきり、何を冷たいことをと突っ込みが入るかと思いきや、いきなりの気遣いに面食らってしまう。わたしが思っている以上に、みんなが気を遣っていることに、なんだか申し訳ない気がした。
「あっ、ツクモ。ヒギンズ中佐だよ」
クレアが声を上げた。
彼女の言葉をにわかに信じられなかった。
クレアが指差す先、そして出入り口のゲートから姿を現したのはまさしく、紫色の軍服に身を包んだヒギンズの姿だった。普段の陸軍のものではない。ジョシュアたち情報軍の人間が着る制服だった。
わたしはつい幽霊でも見ているかのような視線を、ヒギンズに向けてしまう。まさか、ここにヒギンズが駆けつけてくれるだなんて、夢にも思ってなかった。
だからなのだろうか、今わたしの胸にはなんとも言えない感情が渦巻いていた。
「よう、ユニット・アイリーンの諸君」
「ヒューゴ、来てくれたんだね」
「ああ、どうしてもトゥクモに会っておきたくてな」
みんながいるのに、わざわざそんなことを言って笑うヒギンズ。
それを、わたしは照れながらも愛おしく思えた。
「そして、一応お別れの言葉も」
「うん。わざわざありがと。とても嬉しいよ」
「おれもだ。……ところで、今日はスカートなのか?」
ヒギンズに指摘されると、さすがに恥ずかしさを抑えきれない。
「どう、かな?」
違和感しかなくて、結局最後は下にタイツを穿いてきてしまった。
「とてもよく似合ってる。きみのためにあつらえたようじゃないか」
ヒギンズはあくまでも真剣な表情でそう言うのが、おかしくて、そしてとても気恥ずかしい。
顔から火が出てしまいそうだ。
なんでわたしがこんな気持ちにならなくちゃいけないのかと思うと理不尽で不条理だった。
「その服、陸軍じゃないよね?」
「ああ、陸軍犯罪捜査局とも、お別れだ」
「それって……」
「情報軍に移って、デルタの真似事をすることになった。もっとも、当分の間はコムニオゲートの真相究明で手一杯になるだろうな。一応、大佐だぞ?」
新たに加えられた情報軍の紋章が紫なのは、青の空軍、緑の陸軍、白の海軍、その三色を合成した色だからに他ならない。
コリン・パウエル曰く、アメリカの軍人はもはや、自軍のカラーでものを見てはならない。米軍の軍人は紫色だ、ということだ。各軍の紋章の色のレンズを通してしか、ものを見ることができない過去からの脱却。その精神は、ヒギンズに相応しいとわたしは心の底から思う。
「そっか、ヒギンズ大佐か」
「背中がむず痒くなるような言い方しないでくれ」
ヒギンズは何故かはにかむ。
軍人なのだから、階級で呼ばれるのが普通なのに。やはり、階級に対して比較的寛容だったデルタでの活動期間が長いのかもしれない。
「安心してくれ。次の休暇には、トゥクモをうちに招こう。そこで、うちの娘にタメ口を叩き込んでくれ」
そう言って笑うヒギンズに。
わたしも、とびっきりの笑顔で応えたつもりだ。
感謝を捧げます――私の小説を読んで下さった全ての方々に。
※この作品は以下の文献を参照しました。
伊藤計劃『虐殺器官』早川書房(2010年)
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』講談社(2002年)
高倉基也『母親は兵士になった アメリカ社会の闇』日本放送出版協会(2010年)
福田充『テロとインテリジェンス 覇権国家アメリカのジレンマ』慶應義塾大学出版会(2010年)
ジェームズ・キャロル『戦争の家 ペンタゴン』<上・下巻>緑風出版(2009年)
ジョビー・ウォリック『三重スパイ CIAを震撼させたアルカイダの「モグラ」』太田出版(2012年)
ティム・ワイナー『CIA秘録 その誕生から今日まで』<上・下巻>文藝春秋(2011年)
デイナ・プリースト、ウィリアム・アーキン『トップ・シークレット・アメリカ 最高機密に覆われる国家』草思社(2013年)
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』筑摩書房(2004年)
パトリック・ラーデン・キーフ『チャター 全世界盗聴網が監視するテロと日常』日本放送出版協会(2005年)
ピーター・ウォレン・シンガー『戦争請負会社』日本放送出版協会(2004年)
ピーター・ウォレン・シンガー『子ども兵の戦争』日本放送出版協会(2006年)
ピーター・ウォレン・シンガー『ロボット兵士の戦争』日本放送出版協会(2010年)
マーク・ボウデン『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』<上・下巻>早川書房(2002年)
マーク・リーブリング『FBI対CIA アメリカ情報機関 暗闘の50年史』早川書房(1996年)
ロルフ・ユッセラー『戦争サービス業 民間軍事会社が民主主義を蝕む』日本経済評論社(2008年)




