下町~ジリアン~
ローザが金の奴隷になりかけて、社畜化しつつある頃、ジリアンは上機嫌でいつもの酒場のカウンター飲んでいた。
ちょうど夕暮れ時である。
「あたし、もうすぐこの町から、おさらばするんだ」
ジリアンがうっすらと笑みを浮かべカウンターの向こう側にいるバーテンに告げる。
「何夢物語みたいなことをいっているんだ? ここで育った奴はよほどの運がない限り、ここから出られないんだよ。馬鹿なこと言っていないで、この店のつけ払えよ」
バーテンが呆れたように笑う。
彼はジリアンに気があるようで、いつもただ飲みさせてくれている。
ジリアンは貧民街の育ちだ。
すごい美人ではないが、魅力があり男性に不自由したことはない。
ローザよりもよほど時間に余裕のある生活を送り、自由気ままに過ごしていた。
つまり、たいして働かずして、それなりに豊かに生活を送れているのだ。
いつも付き合っている男は複数いるから、食べる物にも住むところにも困らない。
新しいドレスが欲しければ、買ってくれる男もいるし、家賃に事欠けば転がりこめる家もいくつか確保してある。
たいてい男たちはジリアンに尽くしてくれた。
ただし、地域は限定されていて、彼女はこの下町地区から抜け出せなかった。
それこそ王都の一等地に住むなど夢のまた夢。
だが、それももうすぐ終わる。
ジリアンは下町の住人を脱して、王都の一等地の住人になるのだ。
「いいよ。払ってあげる」
彼女はバーテンダーに銀貨を幾枚か渡す。
「どうしたんだ、ジリアン。またおかしなバイトでもしているのか? 随分と羽振りがいいな」
バーテンが驚いたような顔をする。
「そりゃあね。女優じゃ食べられないからさ」
「あまり、危ない仕事に手を出すなよ。特にマーピンの旦那のとこの件とか」
「ああ、大丈夫。別に違法なことは頼まれたりしないよ。業務内容は細かく教えられないけれど、演技力が必要な仕事を紹介される」
心配そうに忠告するバーテンに、彼女はころころと笑いかける。
「そうだ。今日はこれから客があるんだ。あの奥のテーブル席借りるよ」
ジリアンが、店の隅の薄暗い場所にあるボックス席を指さす。
「おいおい、怪しい話じゃないだろうな? あのテーブルに着く奴はろくなことにならないんだ。そこのどぶ川に浮かばないように気を付けろよ」
そういって、バーテンは下町を流れるどぶ川の方向を顎で指す。
「客になんてこと言うんだよ。まったく」
ジリアンは呆れた顔をする。
(もう、こんなうらぶれた店とはおさらばだ。あんたとも今夜会うのが最後かもね)
心の中で舌を出す。
「ねえ、知っている? 貴族の娘って案外ねらい目なんだよ?」
「はあ? 何言ってんだよ。俺たち、お貴族様と話す機会もないじゃないか」
バーテンが肩をすくめる。
「それがね。あたしみたいに女優をやっていると、そういう機会があるんだよ」
「へえ、いい旦那でもできたのか?」
バーテンはジリアンの言葉を酔っ払いのたわごとと、話半分に聞いているようだ。
「まさか、違うよ。貴族の娘、ご令嬢ってやつ。結構いいカモになるんだ。あいつら世間を知らないからね。法外な金をぽんと払っちまう。ちょろいもんだよ。ちくしょう、あの顔のいい男さえいなければもっと搾り取れたのにさ」
ジリアンは、ローザの前では、疑うふりをしていたが、本当は彼女がこの下町に場違いな貴族の娘だとわかっていた。
おそらくローザ・クロイツァー本人か、その友人か何かなのだろう。
匂いも顔も肌の色も雰囲気もすべてが下町の女とはまったく違うのだ。
色素が薄く、爪の先まで綺麗に手入れされている。
本当に同じ人間かと思ってしまうほどに美しい。
ジリアンはほどなくして、店の暗がりにある隅のテーブルに移動する。
薄暗い店内で安い果実酒を酔わない程度にちびちびと飲んでいると、ぼろのショールをかぶり顔も髪も隠した女が店に入って来た。
ジリアンはにんまりと笑い、手をあげて彼女を隅のテーブル席に招く。
「あたしにもやっと運が回って来たね」
彼女はこの下町で、あまり働かずに人の金で飲み食いできる自分の運の良さに、気づいていなかった。




