最終話.別れ
気がつくと、そこは、真っ暗な場所だった。
何も見えない。無限の闇が広がり、体は重く息がしづらい。 耳を澄ますと、遠くから何かの叫び声が聞こえる。
「苦しい」
「寒い」
「帰りたい」
「寂しい」
それは、人間ではない何かの悲痛な叫び。 同時に、闇の中から足音が近づく。静かで柔らかな足音だった。その温もりに導かれるように、振り返る。
そこには、ひとりの人が立っていた。それは、玄月様の記憶で見た人。
「お母、さん……?」
紫が、闇の中でひときわ強い光のように、優しく微笑んだ。
「待っていたわ、ナカメ。あなたに出会えるのを。大きくなったわね」
「私、蟒蛇を飲み込もうとして……」
「ここは蟒蛇の中よ」
隣に立つ紫以外に何も見えない。真っ暗で寂しい場所だった。
「中ってことは私、飲み込まれちゃったの……?」
「いいえ。蟒蛇に飲み込まれれば、自我はなくなる。あなたの中にある蟒蛇の欠片は、ちゃんと拮抗しているわ。だから私は、あなたとこうして出会えた」
すると再び、先ほど聞いたおぞましい嘆き声が響いた。
「この声は、蟒蛇の声……?」
「あれは神薙に殺されたり、捕らわれたりした魔物たちの叫び。蟒蛇は、彼らを飲み込むと同時に、彼らの嘆きや憎悪も同時に取り込んでしまったの。そしてあの姿になってしまった」
蟒蛇は言っていた。神薙を滅ぼして、魔物の世界をもう一度つくるのだと。
「さぁ、こっちよ」
紫について少し歩くと、そこには白いものが蹲っていた。
近づいて、それは小さな青白い蛇だと気づく。
「これは?」
「これがもとの蟒蛇。憎しみも欲望もない。人も魔物も愛する、神に近いものだった。飲み込んできたものたちの持つ憎しみが、蟒蛇を変えてしまったの」
「お母さん……神薙のしていることは、悪いことなの? だから、魔物は神薙を恨んでいるの?」
「良いか悪いかは、ナカメ自身が決めるものよ」
紫の言葉に、ナカメは俯く。判断できずにいたのだ。
蟒蛇のことは許せない。ワダツミさん、綴さん、そして萬さんのことも傷つけた。
だけど、蟒蛇は言っていた。神薙も、多くの魔物を傷つけていると。
「魔物も人間も、仲良く暮らすことができたらいいのに」
「残念ながら、魔物の中には、残虐なことを好むものもいる。人間と同じね。だけど魔物は、死ねばまた妖気となって、再び顕現する。そのときもまだ、残忍なままかは誰にもわからない」
紫はそう言って、ナカメの頬を手のひらで包んだ。
「途方もない話だからね。輪廻の巡りがいつになるかは、誰にもわからない。私たちが蟒蛇を通じてこうして出会えたように。巡ればまた、残虐な魔物もいつか、心優しい魔物に生まれ変わって、出会えるかもしれない」
そのときだった。ぴしりと何かの軋む音が世界に響く。
「蟒蛇が、あなたを追い出そうとしている。ここも終わりが近いわ……その前に、最後に一人だけ。あなたにお願いがある人がいるの」
紫の姿が変わる。ずっとその中に気配はあったので、ナカメに驚きはなかった。
「中六様、お久しぶりです」
「綴さん……」
「私の魂は蟒蛇に取り込まれました。ここで紫様、そして蟒蛇とともにありましたので、あなたのことは存じ上げております」
初めて見る、綴の素顔。湖面のように澄んだ瞳。その奥には、誰にも触れられぬ哀しみの影が宿っていた。
まるで、花が散る瞬間のような微笑みに、ナカメの胸にも切ないものが込み上げる。
「お母様との大切な時間をいただいてしまい、申し訳ございません」
「いえ、そんな……お母さんとは、玄月様の記憶の中で、十分なくらい会えましたから……それより綴様、お願いって」
綴の瞳が、苦しそうに細まった。
「私がここにいるということは、ワダツミはきっと大勢の人間を殺めたことでしょう。ナカメさんたちにも、刃を向けたことと思います」
綴の言葉に、ナカメは俯いた。
「それは、許されることではありません。ですがどうか、中六様だけは。彼女を、わかってあげてほしいのです。全てを憎むほどの孤独をもって生まれた、ワダツミという存在を」
ナカメは知っていた。ワダツミという神薙が、何を抱えていたのかを。どうして玉藻前と出会った自分を助け、玄月様の力を教えてくれたのかを。
「――そしてどうか、わたしを斬ってください。蟒蛇の中に囚われた数多の魔物たちとともに」
「ですが、ワダツミさんはあなたのことを守りたいと……」
「いいのです、中六様。私がここにいたら、いつまでもワダツミは、私以外を見ようとしないでしょう」
綴が、困ったように微笑む。
その声は、硝子でできた鈴の音のように儚く、まるで一言ごとに、心の奥が少しずつ欠けていくかのようだった。
「――ナカメ、あなたのやるべきことは決まった?」
紫の声に、ナカメが手元を確かめる。そこには、確かにまだ握られている。ワダツミさんから託されて。玄月様から授かった血刀が。
ナカメが頷くと、紫は優しく微笑んだ。
「あなたに会えてよかったわ、ナカメ。玄月に、無茶しちゃだめよって伝えてね」
刀を握る。
――私は、何のために生まれてきたのか。
この世界のどこかに、悲しんでいる人間がいる。苦しめられている魔物たちがいる。人に優しくすれば、いつかそれは自分のもとへ巡るように。私を助けてくれた人がいるから、私は誰かを助けたい。そのために、できることがあるのなら。
「さようなら、綴さん。お母さん」
言葉とともに、ナカメが刀を振るう。雷光が辺りを一閃した。暗く染まっていた世界は、埋め尽くすほどの魔物の影。それを一網打尽に、薙ぎ払う。
私は何度でも生き返って、悪い魔物を狩り尽くす。 いつか優しい魔物として、この世界に再び生まれ変われるように――だから。
「お前も一緒に行こう、蟒蛇」
白く染まっていく世界。憎悪の声が消えていく。
目の前に寂しく佇む存在――蟒蛇へと、ナカメは手を伸ばした――。
「…………終わったね」
巨大な肉の蕾と化した蟒蛇の肉体が、崩壊していく。黒い花弁のように散っていく体。その中心に、ナカメが仰向けになって倒れていた。
「ナカメっ……!」
心配そうに駆け寄るデジ子に、ナカメが微笑む。
「デジ子…………これ、飼ってもいいかな?」
そう言って笑うナカメの手のひらには、一匹の小さな蛇が巻き付いていた。
「まさかそれ、蟒蛇ですか……?」
デジ子が、怪訝そうに眉を寄せる。だがナカメの予想に反して、デジ子はため息をついた。
「仕方ないですね……」
「え、いいの!?」
「玄月様も、半魔ではない私をお供に連れていますし、なんとかなるでしょう……ちゃんとお世話するんですよ」
それだけ言って、怒ったようにどこかへ行ってしまうデジ子に、玄月が苦笑いを浮かべた。
「紫もきっとそうしただろうって、デジ子はそう言いたいんだよ。蟒蛇の中に飛び込んだことに相当怒っているだろうから、あとで謝ったほうがいい」
「……蟒蛇の中で、お母さんに会いました」
ナカメの言葉に、玄月は何も言わなかった。
「玄月様に、無茶しないでと伝えてほしいと、そう言っていました」
瓦礫の上を、静かに風が撫でていった。
「……相変わらず、世話好きな人だ」
蟒蛇の中にあった、お母さんはもういない。すべて斬ってしまったから。本当に消えてしまったんだ。
「朝がくる……帰ろう、ナカメ」
玄月の大きな手のひらが、ナカメを撫でた。胸を込み上げるものが、頬を伝う。
――終わったんだ、全部。そしてここから始まる。新しい朝が。 終わりと始まりの巡り合わせ。きっと世界は、その連続でできている。
苦痛も絶望も、朝日にさらけ出され、闇というものがこの世界なくなるまで。きっとこの戦いは、繰り返されるのだろう。
微かな白い光が、息を吐くように東の空を染めあげていた。
「いつの世も、朝は美しいものじゃな、ワダツミよ」
深い藍色に包まれた空が、黄金色へと変わる。それは朝の霧を煌めかせて。まるで、夜明けの海のように。
「……なんでまだ生きとんねん。うちも、お前も」
ワダツミが目を開く。傍らではデジ子と琥珀。そしてともに戦った家の者たちが忙しなく救護に動き回っていた。
「……死に際は選ばせては貰えんらしいぞ、ワダツミ。あの不死の子の前ではな」
「玄月も、厄介なもん拾ってきはって。いっそ殺しといたら良かったわ……痛っ!?」
「ナカメに手を出したら、ワダツミさんでもタダじゃおきませんからね!」
「玄月の木子か……半殺しにして以来やな」
言葉とは裏腹に、ワダツミの中に憤りはなかった。遠くに立つナカメが、蟒蛇の中で何と出会い、どうして自分を助けたのか。
「……ほんまにあの人は、面倒なことばっかりしはる方やわ」
応えるように微笑みながら。海のように広がる朝焼けに目を細め。ワダツミは瞼を下ろした。




