32.玉と依代(1)
ワダツミが刀を構える傍では、塵となった蟒蛇の左腕の中で、ナカメが蘇生をはじめていた。
「ほな、奇襲作戦は失敗っちゅうことで、第二ラウンド開始やな。子どもと老犬はお家で寝る時間やで」
ワダツミが、ナカメを狙って伸びる蟒蛇の触手を躱すように、ナカメの体を蹴り上げた。
「が、あっ……!? へ? あれ、ワダツミさん!?」
「ナカメ、無事でしたか」
蹴とばされ、宙へと舞い上がったナカメの体を、デジ子がキャッチする。
「デジ子、状況はどうなってるの? 私、ワダツミさんに負けて……」
「色々と大変なことになりました。あの蟒蛇は間違いなく最悪の敵です。そして、ワダツミさんは何かしらの事情があるようで、今は恐らく味方。引き続き油断はできません。あなたの体が蟒蛇に飲み込まれれば、私たちの負けが確定する」
デジ子の言葉に、ワダツミの方を見る。青白く輝く刀身を構える背中。
ワダツミが敵ではない。デジ子の言葉に、どうしてかナカメの心には焦燥が走っていた。
――ワダツミさん、まさか死ぬつもりじゃないですよね。
その背中、そしてワダツミの言葉はどれも、悲しい響きを持っていたように思えて、ならなかったのだ。
――全てが醜く、たまらなく憎かった。
人、もの、この目に映るもの、世界のすべてが。
なぜ自分は生まれてきたのか。どうして自分がつくられたのか。その答えを知ったのは、自分の肉親を食べたときだった。
神薙によって、海神と人間からつくられた玉は、母親の腹を食い破るように生まれ、そして三歳を迎える三日前に、自らに血を与えた父親。神薙へも協力的であった魔物――海神を殴殺し、自らの欠けた力を取り戻すように、その肉を食らった。
そして、ようやく悟った。自らは、蒼海を統べる神の化身であると。
そんな、完全なる魔物の力を得てしまったワダツミの監視役として任命されていたのが、当時の椋平家当主。麒麟の半魔である、椋平飛揚という小柄な男であった。
「ワダツミ様は、天の浮島を守られる玉となられるお方です。どうか、乱暴なことはお止めください」
椋平飛揚は物腰柔らかな男性であり、ワダツミが目の前で肉親を食らったときでさえ、声を荒げることはなかった。
「あなた様は、海のごとき寛大な御心を持つ御方。いずれその神威は、必ずや世のために振るわれるものと、信じております」
殺そうと思えば、いつでも殺せるほどの矮小な存在。なぜ帝とやらは、そんなものを自分の元へ寄越したのか。
――試しているのか。この男を殺すかどうかで、神薙への忠誠心を図っているのか。
ワダツミの読みは正しかった。現に、帝をはじめとする神薙の中では、突然変異のように生まれ、魔物である肉親でさえも食らってしまったワダツミの処分について、意見が割れていたのである。
「……ふん、くだらへん」
この世のすべてのものに、興味はない。
命を受けた領地。天の浮島と呼ばれる場所は、それはそれは美しい場所であった。だが、海が美しい分。そこで生きる魔物や人間は、すべてが浅ましく見え、村を襲う魔物や野盗を殺しては、その血を洗うように、ただ海を眺めて過ごした。
悠久のときを生きるワダツミとは反対に、椋平の家は不思議な家だった。玉は普通、不老である。数百年は生きるのが普通だが、椋平の歴代の当主は皆、百年と生きられなかった。それは椋平飛揚も同様で、三十年余りで魔物退治の最中に死んだと聞いた。
その後も、椋平家は薄命に散り。何代もの移り変わりを経た――そうして、出会った。
「ワダツミ様、初めてお目にかかります。ワダツミ様の監視の役を仰せつかりました、椋平綴と申します」
「随分と殺しやすそうな女を寄越したもんやな」
「申し訳ございません、ワダツミ様。椋平の血、麒麟の半魔は薄命の血筋。今の時代は、私しかお役目を受けられる者がおりません」
本当につまらない女や。
女の顔を覆う薄い藤色の布。風に揺れるその様子を眺めながら、いっそ今すぐ殺してしまおうか。そんなことを考えていた。
それからもただ、海を眺めながら魔物や、身の程を弁えない人間を殺す日々を繰り返していた。憎しみと退屈を紛らわせるだけの毎日。
心に響くものは何もない。波の音が静かに耳を撫でる。白波が崩れ、足元まで押し寄せては引いていく。それだけが、ワダツミにとって、唯一の変化だった。
――だが、その夜は違った。
いつものように海を眺めていたとき、不意に海風の流れが変わった。漂う微かな異様さに、ワダツミはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、白銀の魔物。
銀の髪が月を受けて輝き、血のように紅い瞳がワダツミを見下ろしている。口元には笑みの影すらなく、冷ややかに立っていた。
ワダツミは理解した。
――こいつは魔物やない、神薙や。
――そして、強い。
胸が震えた。こんな感覚は初めてだった。魔物を斬るたびに感じていた虚しさとはまるで違う。ワダツミの口元が微笑む。
――こいつを、殺したい。
試したい。この手で、どこまで届くのか。目の前の存在がどれほどのものなのかを。
ワダツミは、迷わず地を蹴った。目の前の銀の影に向かって、一直線に跳ぶ。久しぶりに抜いた刀身が、雷を帯びる。刹那、腕を振るうその瞬間。
「ワダツミ様っ!」
声の方を向く。綴が、視線の先に立っていた。藤色の布の下の透明な双眼が、ワダツミを見つめている。そう視認した瞬間に、体が弾かれるように止まった。
――なんや、この力は。
視界が揺れる。地面に再び足をつけたとき、銀髪の神薙の姿は、すでに消えていた。
だが、消えた神薙の姿などどうでもよかった。それ以上に、目の前のものに興味が湧いたのだ。
「なんやその目は。魔眼か?」
「……はい。麒麟より授かりし、椋平の煌麟眼です。目が合うことさえできれば、どんなものも操ることができます」
なぜそんな強力な魔眼を持っているにも関わらず、利用しないのか。なぜその力で、他の魔物――海神の力を持つ私を操ろうとすらしないのか。
「そない強い力、どうして隠しとるん」
「椋平にはいささか強すぎる力である故、必要に迫られたとき以外は用いることはできません。力に飲まれれば、人に仇なす存在にもなりかねませんから」
「ふん、くだらん理由やな」
再び、藤色の布の下へと隠される瞳。なぜ自分は、目の前のこやつを弱い存在と切り捨てていたのか――こんなにも、殺し甲斐がありそうなものなのに。
「せやったら、今からうちが自分を殺す言うたら、必要に迫られてくれるんやな?」
刀を抜く。だが、綴の口元は強張ることもなく、ただ困ったように微笑んだ。
「そうはいきません……私の命などのために、使ってよいものではございませんから」
つまらない。つくづく、つまらない女や。
「ただ、私を殺すのであれば、この世に蔓延る魔物を、ワダツミ様のお力で滅してからにしていただけないでしょうか。私には、与えられた命がございます。ワダツミ様を御守りし、神薙として、世の魔物を倒すという使命でございます」
だから、先ほどは止めたのいうのか。銀髪の神薙と戦えば、うちの方が殺されると読んで。
そう知った私の心は、どうしてか気分がよかった。自らの力と対等な力を持つものが、神薙にはこうもいるのだ。これほど面白いことはないだろう。
「あんた、おもろいこと言いはるなぁ……気に入ったわ。うちが魔物狩りつくしたら、その目ん玉抉らせてもらうで。そんときは本気で戦ってな」
「はい。約束いたしましょう」
落ち着き払った綴の声は、夜の海のようで。なぜかその声に、ワダツミは心地よさを感じたのだった。




