31.蟒蛇(5)
落ちていく。遥か先の地表へと。視界が頭の先から後方へ流れていく。長い銀の髪とともに、零れたナカメの涙が、夜空へと舞い上がった。
「…………私のお母さんは、優しい人だったんですね」
「ああ、そうだね」
玄月様の胸に、顔を埋める。
私は優しい人になんて、なれなかった。ただ誰かに必要とされたくて、子どものように居場所がほしいと、空想に逃げていた。死んでしまえば、誰かの記憶に残る。そんなことばかりを考えていた。でも、記憶なんていつかは消えてしまう。きっと、私が求めていたのは、そんなものじゃない。
人に優しくすれば、いつかそれは自分のもとへ巡るように。誰かが祈るように、自分の幸せを小さく、願ってくれていたら。たとえ言葉にしなくても、目には見えなくても。その祈りはずっと、最初からここにある。
ナカメの周囲に巻き上がる飛沫。血の一滴一滴、その全てが、指よりも容易く操れる。
これが玄月様の力。いや、きっとそれだけじゃない。私がお母さんから受け継いだ、玄月様の依代としての力。
「おいおい、吸血鬼二人なんてずるいやろ。ほんなら、こっちも二人になったろ」
着地するナカメと玄月を前に、ワダツミがため息をつく。激しい雷鳴とともに、ワダツミの影から青白い稲妻が立ち上がった。それはまるで、鏡に映したかのように。刀を持つもうひとりのワダツミの姿。
「空飛んで依代つくって帰ってくるとか、雑技団ちゃうんやで?」
「そっくりそのままお返しするよ。すぐに分身をつくってしまうお前の方が、冗談じゃない。ナカメ、気を付けて。あいつのことだ。ワダツミの分身は、きっとワダツミと同じだけの力を持っている」
玄月の言葉に、ナカメは刀を構えた。だが――。
「あんたの相手はうちやで」
玄月の目の前に迫るのは、たったいま現れた分身の方。青白く輝く刀身が、玄月に切りかかる。そうなると、必然的にナカメに襲いかかるのは。
「依代になって早々悪いんやけど、うちのために死んでもらうで」
ワダツミ本体であった。
――臆しちゃだめだ。例え相手が、玄月様や萬さんと並ぶ敵でも、守られてばかりじゃだめなんだ。
ワダツミの刀に紫電が走り、ナカメへと振り下ろされる。
――早いっ!
咄嗟に身を逸らさなければ、一瞬で体が両断されていた。死ぬ前提で戦うか? 私は不死の体を持っている。いや、だめだ。驚異的な回復力を持っていた私のお母さんも、ワダツミには敵わなかった。細胞を殺し続ける斬撃。あれはきっと、私にも効く。そんな気がする。
「避けたのはええ判断や。自分が思っとるとおり、うちの雷は無限に切り刻める。自分の母親がそうやったようにな」
だとしたら、私の体にも蟒蛇の力が流れている。なんでも取り込める力。
もっと繊細に思い出せ、あの後ろ姿を。もしも私が、どんな力も取り込むことができるのなら。玄月様の依代になったことに、なにか意味があるのなら。
ナカメの周囲。何もなかった場所に血の粒が現れる。それは、鎧のようにナカメの体を覆った。描くのは、巨大な二本の斧。担ぐように構えたその姿は、いつか見た、萬の姿。
「へぇ。見たものなんでもできちゃうんや。天才肌やね、うちと同じ」
「……どうしてワダツミさんは、神薙を裏切ったんですか」
「こう見えても忠誠心すごいねん。今のあの人の中におるのは、蟒蛇やけど」
ワダツミの刀身に纏った雷が、烈火のごとく膨れ上がり、閃光を散らす。ナカメの視界を埋め尽くす、強烈な突きが迫る。
《斧舞・獄蓮》
ナカメの振り下ろした血斧が、燃え盛る火車となって稲妻を両断した。
――萬さんには、遠く及ばない。だけど私は、返さなきゃいけないんだ。萬さん、玄月様、琥珀、デジ子。自分をここまで連れて来てくれたみんなに。巡るのは思い。その言葉の通り。
「ワダツミさん、私は絶対にあなたを倒して、蟒蛇を倒します。例えその体が、綴さんだとしても……!」
「長く生きとると、面白いものにも出会えるもんやなぁ。温泉で会うたときとは別人や」
出し惜しみなんてするな。すべてを出し切れ。殺らなきゃ死ぬ。
「……せやけど、訳ありなんは自分だけとちゃうんやで?」
《終ノ太刀——龍哭》
ワダツミの放つ、神速の一撃。刃が触れる寸前、全身の力を振り絞って身を翻す。雷光がすぐ脇をかすめ、肩が焼けるような感覚が走った。
《崩閃・逆龍》
ワダツミの刃が返る。ナカメの躱した先で、巨大な雷龍が口を開いた。
――だめだ、躱せない。なんでもいい。何か技を繰り出すんだ。なるべく大きく、ワダツミさんの攻撃を躱せる技を。
《木霊千手――神楽》
軋む音を立てて、地表から血に染まった木の観音像が姿を現す。それは、雷龍の頭をたたき割ると、ワダツミを引き裂かんと腕を振り上げた。
「はは、ほんまに化け物やな。木子のアレも真似できてまうんや。けど、」
だが、観音像の腕は一瞬にして木片に切り刻まれる。それは、玄月の記憶の中で転がっていた欠片。
「……堪忍なぁ、その技はもう見とるねん」
ナカメが振り返る。だが、ナカメが技を繰り出すよりも早く。
「終いやね。蟒蛇にはこんなパチモン、効かへんから気ぃつけや」
ナカメの目に映ったのは、ワダツミの瞳。それは布で隠されていた、いつか見た透明な魔眼だった。
* * *
蟒蛇によって侵食された綴の腕は、巨大な鰐の顎のように裂け、どこまでも続く深淵を覗かせていた。そこから溢れ出るのは、おぞましい数の触手。
「魔物を退治する側が退治されるとは、思わなかったのか?」
微笑みを浮かべながら、蟒蛇はゆっくりと手を広げた。
「人は弱い。壊れやすい。だから私が守るのだ。魔物が人間を守る。なにもおかしな話ではないだろう。お前たちが捕らえた魔物に施した行為こそが、罰するべき極悪だ」
「人間を守ろうとするやつが、あの妖狐の封印を解くわけないでしょ!」
琥珀が地を蹴った。炎を纏う一本の斧が宙を舞い、燃え盛る刃が軌跡を描く。
《流転紅蓮咲――!》
火炎が舞い、蟒蛇の腕の肉を抉り取る。しかし、その傷はみるみるうちに肉に埋もれていった。
「言葉を持つもの同士。それにも関わらず分かり合えぬとは、残念なものだ」
腕の顎がぱくりと開き、炎ごと斧を飲み込まんとする。
《観音掌撃――木蓮》
巨大な観音像が姿を現し、無数の腕が蟒蛇を叩き割る。だが、蟒蛇の笑みは崩れない。
「お前のことは紫の中からずっと見ていたが、そのような芸当までできるのか。面白い。稀少な純血は貰っておこう」
瞬間、何倍にも体積を増す蟒蛇の腕。その中から生えた無数の触手が、観音ごとデジ子をからめとった。
「キモ触手! デジ子さんを離しなさい!」
殴りかかる琥珀すらも、飲み込むように。蟒蛇の肉が際限なく膨れあがる。
――飲み込まれる。
圧倒的な質量の膨張を前に、避けられない——そう思った刹那。琥珀の視界を、雷光が切り開いた。
「ふんッ!」
轟音と共に、雷を帯びた巨大な斧が、蟒蛇の腕を薙ぎ払う。その隙に、デジ子が蟒蛇の腕から抜け出す。
「死に損ないか。滑稽な姿だな……萬よ」
琥珀が振り返る。立っていたのは、先ほどまで気絶していたはずの萬。
雷を纏った斧を杖のように地面に突き立て、荒い息をつく。
「萬様、まだ動いてはいけませんっ……!」
「こんなときに余が寝ていられると思うか、琥珀よ。蟒蛇、お前の名は聞いたことがある。玄月とは因縁の魔物じゃな」
萬が斧を背負うように掲げる。
「獣の半魔が四家になるとは、ずいぶんと神薙も落ちたものだ」
「なぜこのようなことをする、お前の目的はなんだ、蟒蛇」
「簡単なことだ……汚い血を持つお前たちを、全て消し去るのだ。非業を遂げた仲間たちの無念。私の手で晴らしてやらねばなるまい」
「戯言を……鏖殺を繰り返しておきながら、大義を語るつもりか」
「やはり相容れぬものだな。お前たちが魔物を狩るのなら、私たちが神薙を狩るのは、何もおかしなことではないだろう。まあいい。余興はこのくらいにして、そろそろ宴をはじめようか」
蟒蛇が、静かに両腕を広げた。蟒蛇を包んでいた溢れる妖気が、濃厚さを増す。
「何をする気じゃ」
「私があの忌まわしき牢を出てから、妖狐の封印を解くことしかしていないと思うのか?」
警戒するように、萬が目を細めた。
「神薙の戦力の大半は、他の玉とは比べものにならない力を持つ四家だ。そして予定通り、戦力の半分。二家がここで足止めされ、うち片方は満身創痍となった……絶好の機会だろう。残虐な混血の者たちから、あるべき私たち魔物のもとへと、この国を取り戻すのさ」
「……デジ子、すぐに伝達するのじゃ。妖狐討伐のために召集していた者たちを、今すぐもとの場所へ戻せ! 他の神薙たちの援護に回せ!」
「もう遅い。さぁ、新しい国のはじまりだ。北の大百足、西の縫姫、東の酒呑童子、南の蟒蛇。それと、私が千年の間に食らった魔物、三千による神薙狩りだ」
蟒蛇の言葉を裏付けるように、デジ子が叫んだ。
「萬様、帝様より伝令です! 全国の神薙四十九家のもとへ、無数の魔物が現れたと――!」
「綴の魔眼の力を使っておるのじゃな。数百の魔物すら統制しおるとは……」
「私たちもはじめよう。お前を狩るのは私と、私の中にある百の魔物だ」
蟒蛇の体を、巨大な肉の壁を纏う。それは花の蕾のように折り重なって、何重もの分厚い鱗の防壁となった。
そこから伸びる無数の腕。それぞれに異なる魔物の頭を持ち、萬へと喰らいつく。
「君たちは所詮、魔物の威を狩るなんとやら。本物の私たちに勝ちようがない」
「よく言いおる。これも飲み込んだ魔物の力じゃろ……!」
萬が、伸びる触手を斧で弾く。だがその数は多く、萬の体に無数の傷が走った。何よりも、それぞれに異なる力を持っていることが、あまりにも厄介だった。
「これは私の力だよ。火玉も鵺も鸑鷟も妖狐も。飲み込んだ力はすべて、私とともにある。この力で私は苦しむ魔物を救い、神薙を滅ぼすのだ」
「大義を謳うのは自由じゃが、我々にも守るべき者がおる。神薙の魔物への仕打ちが不服と申すのであれば、戦う以外の道もあるじゃろうに……!」
「ははは! お前は今まで出会った神薙の中でも、最も愚かだな、狼。お前たちは数多の魔物……神の怒りに触れたのだ。残された道はひとつ、黄泉路に至るまで後悔の泥にまみれ、己の業を噛みしめよ!」
「萬様……っ」
「下がっておれ、琥珀……!」
激しさを増す蟒蛇の攻撃。吹き上がる火炎、空を裂く風。無数の魔物の猛威が萬を襲う。
――これでは、蟒蛇へ近づけない。
視界を覆うほどの攻撃を紙一重で防ぎ続けていた、そのときだった。
「蟒蛇様」
蟒蛇のすぐそばに降り立つ影。
「お前、ワダツミ…………!」
腕に抱かれていたのは、意識を失ったナカメ。 萬でさえも言葉を詰まらせる。それは、想定しうる最悪のビジョン。
「蟒蛇様。不死の肉をお持ちしました」
――蟒蛇が、ナカメの肉を飲み込んでしまう。それはつまり、蟒蛇が不死の力を得てしまうということ。
「ワダツミ! やめろ、こやつが不死の肉を食らえば、勝ち目がなくなる! 人間も神薙も、すべてが滅ぶのじゃぞ……!」
「やかましいで、萬」
萬の体に、無数の傷が刻まれた。
「ワダツミっ……これは……お主は……!」
「……蟒蛇様。ついに宿願成就のとき。我らが同胞を救い、この世を掌中にお治めください」
「よかろう。不死の力さえ手に入れば、こんな争いなどもはや不要だ……この先続く、悠久の平安への第一歩となるだろう」
蕾のような防壁が花開き、中から蟒蛇が現れる。蟒蛇の両手が、ナカメを飲み込まんと口を開いた。
――終わってしまう、すべてが。何千年もの間、受け継いできた命が。ここですべて。
「萬様! まだ動いてはいけません!」
血を吐きながら立ち上がろうとする萬を、止血を施していた琥珀が、必死に引き留める。
蟒蛇の大きく開いた腕が、ナカメを飲み込んだ。その瞬間だった。
視界が真っ白に染まる。揺れる大地。それは、天をも貫く紫電の光。
「――――海神。どういうつもりだ?」
そう告げる蟒蛇の体は、ナカメを飲み込んだ左腕もろとも、大地に突き刺さった雷光によって、焼き尽くされていた。
「うそやろ、首狙ったつもりやったんやけど」
「裏切ったのか……私を」
「はは、面白いこと言いはるな。裏切ったもなにも、うちの主はいつの時代も、この世界でおひとりだけや」




