26.椋平綴
──琥珀は、思い出していた。 蝕まれていくナカメの姿に、足を震わせながら。
――琥珀、見よ! 余の古き友から、久しぶりの便りが届いたのじゃ。今度余の屋敷に、人の子を連れてくると申しておる! 琥珀の友人になれるかもしれぬぞ!
――なに? 余にも友人くらいおるわい!
――どんなやつかじゃと? そうじゃのう。腹黒くって食えない奴に、乱暴なわからず屋……ガッハッハ! たしかに碌でもない奴ばかりじゃな。じゃがなぁ、琥珀よ。それでも友はよいものぞ。
――いつかお主にも見つかる。険しき道を前に、立ちすくむ足を。無理矢理にでも押し出してくれる、憎くてたまらぬ友がな。
萬様。やっぱり私はだめです。 せっかくあなたが、命懸けで守ってくださったのに。
私も、萬様のお人好しが移ってしまったようです。
黒く沈む視界。ナカメは、金の光を見た。神様のように気高く美しい。金色の毛並み。
「萬、さん…………」
違う、萬さんじゃない。
「ありがとう、ナカメ」
宵闇の中で輝くそれは、満月のように。
「生きる意味なんて、本当はとっくに知っていた」
立っていた琥珀の姿は、人ならざるもの。それは、萬と瓜ふたつ。夜に煌めく、金毛の月狼。
「ここは八百万の神の加護を受けし地! 妖狐など、通しはしない!」
半狼の姿となった琥珀が、玉藻前に飛びかかる。
「あらあら、あの狼が戻ってきたと思ったら、随分おいしそうな子犬ねぇ。親犬の仇? 尻尾が震えているじゃない 」
「玉藻前っ! 萬様を! ナカメを傷つけたお前を、絶対に許さない!」
琥珀が爪を振るう。玉藻前の肩が微かに裂けた。だがその傷は、妖狐を討ち取るには浅い。
「選ばせてあげる。人の姿になったら、優しく食べてあげるわ。だから戻りなさい」
「…………しねっ!」
「そう。苦しんで死にたいのね」
玉藻前が、琥珀の首を掴み上げる。爪が皮膚を引き裂き、琥珀の首から鮮血が垂れた。
「琥珀っ………………!」
このままじゃ、琥珀まで死んでしまう。動け! 動け! 動けよっ!
ナカメが、必死に指先に力を込める。
琥珀が命を懸けてくれているのに。今死なないで、いつ死ぬんだ。
だが、どんなに念じても玉藻前の呪いに覆われた体は、磔にされたまま。指先が微かに震えるだけだった。
首を掴んで持ち上げられた琥珀が、玉藻前に唾を吐きかける。
「くたばれ……化け物がっ…………!」
「……かわいいわねぇ。ますます殺したくなっちゃう」
玉藻前の爪の先が、琥珀の腹を引き裂かんと振り上げられる。
必死に腕を伸ばすナカメに、琥珀の瞳が柔らかく微笑んだ。
――ありがとう、ナカメ。
「琥珀――――ッ!」
鮮血が、琥珀の顔に降りかかる。
引き裂かれたはずの琥珀が、驚いた顔を浮かべた。
確かに血肉を引き裂いたはずの、玉藻前。だが、その爪の先が抉ったのは、もうひとりの金狼。
「――琥珀、よくやった。あとは余に任せろ」
「お前は錫杖で貫いたはず、なぜまだ生きている!?」
立っていたのは、萬だった。左足はちぎれたまま。穿たれた胸の穴には、赤黒い血が渦巻いている。
――それはまるで、ナカメの力。
「お前、あのガキを食べたなッ!? 醜き狼が――ッッッ!」
「ふんっ、雑種の狼は嫌いか?」
玉藻前が、発狂したように萬の右腕を引き裂く。同時に、萬の左腕が玉藻前の胸を突き破った。
「例え両手両足もげようとも! 逃がしはせぬぞ、玉藻前ッ! お前を滅ぼすためならば、雷鳴すらも従え、火焔すらも退けてみせよう!」
萬が、咆哮とともに腕に力を込める。雷と炎が玉藻前の体を焼いた。
「小癪な……汚い腕を離せっ! 魔の肉を食らえば、お前といえどもそう持つまい! お前たちは全員いずれ――」
玉藻前が気づく。萬と琥珀の猛襲に気を取られ、不死の人間を縛りつけていた妖気が、疎かになっていたことに。
慌てて振り返る。だが、そこにナカメの姿はない。
「いない!? しまっ――」
玉藻前の真後ろから、ナカメが飛びかかった。
遥か後方で、両手を地につき必死に玉藻前の妖気を吸い上げていたデジ子が、血を吐きながら叫ぶ。
「――行けっ!」
萬が、最後の力を振り絞って。逃げようともがく玉藻前の胴を、もう片方の腕で突き破った。
ナカメの攻撃を防ごうと翳す玉藻前の両腕を、琥珀が叩き切る。
「ナカメ、斬れっ!」
ナカメの両手に握った血刀は、闇を裂くように。振り上げた刃が唸りをあげる。
――ワダツミさん。あなたは、強さは自分のためにしか手に入らないと言いました。だけど今は、それは違うと思っています。
自分のためじゃない。私は、誰かを守るために強くなりたい。例え、人知れず死ぬことになっても。
玉藻前が振り向く。だが、遅かった。
「汚れた、半魔どもめッッッ――!」
ナカメの双刀。二本の血刃が、玉藻前を袈裟斬りにする。
血が舞った。玉藻前の妖気が、怨念の炎を撒き散らす。
「くそ……くそっ…………!」
玉藻前の体が、妖炎とともに朽ち果てていく。ついに尽きたのだ、妖気が。
「あたしを殺せたと思うなッ! あたしの主は、何度でもこの世にあたしを呼び戻す! そのときは、まずはお前だ! 不死のガキ――」
玉藻前の叫びが途絶えた。燃え尽きた体が、白い灰となって風に散る。
「倒、した………………」
ナカメは息を荒げながら、玉藻前の体が崩れ落ちるのを見届けると、床に倒れた。
体は限界を越えていた。視界がチカチカと点滅して、こめかみが割れるように痛い。今度こそ、指一本動かせない。
──そうだ、萬さんは。
ナカメと同じく、死力を尽くして倒れた萬の体は、琥珀が抱き抱えていた。
「大丈夫。この程度の魔の肉なら、食べてもすぐには死なない」
「よかった……」
ほっと、息をついた。
玉藻前を倒したのだ。残るは、玄月様が戦っている、ワダツミさんだけ。
油断はできない。だけど、第一の目的は突破した。その場にいた全員が、そう安堵したときだった。
「――この夜は完璧だな」
倒れ込んだナカメの背後を、横切る人影。
「――――――ッ!?」
あまりの自然さに、気づくのが一瞬遅れる。それは琥珀や萬も同様で。
「意味を持たないからこそ、私の意志がすべてを決める」
どこかで聞いた声。流麗な水色の髪。藤色の目隠しと、沈丁花の香り。
悠々と。庭を散歩するかのようにナカメのそばを闊歩したのは、いつか見た人。 神薙の玉にしてワダツミの主――椋平綴であった。




