24.妖狐(5)
だが、疾風のように空をかける錫杖との距離は、離れるばかりで。
萬さんは土砂に埋まっている。デジ子が動けば、今まで吸収した妖気が、玉藻前に戻ってしまう。私しか動けない。私しか、琥珀を守れない……!
「琥珀――」
錫杖が、琥珀の脳天に迫る。
――だめだ、間に合わない。
琥珀の視界。槍のように迫る錫杖を前に、琥珀の意識の奥底にあった記憶が、走馬灯のように蘇った。
――それは、神様みたいに綺麗な人だった。
戦争が終わりかけた頃。私たちは、生きるのに精一杯だった。
焼け跡ばかりの町には物がなく、腹を満たすには何でも口にしなければならなかった。幼かった私はある日、山へ入った。腹が減ったと泣く、まだ小さな妹や弟のために。木の実を取ろうとしたのだ。
だけど、気づけば道がわからなくなっていた。森は深く、どこを見ても同じ景色ばかり。
足は痛み、空腹がより一層こたえた。泣きそうになって、ふと顔を上げたとき――そこにいたのは、神様のように美しい女の人だった。
「人の子か。珍しいのう」
星を散らせたように輝く、金色のなめらかな髪。どこかこの世のものとは思えない、力強い眼差し。
「――お主、道に迷ったのか?」
神様はそう言うと、迷子の私を大きなお屋敷へ連れて行ってくれた。そして、大きなおにぎりをひとつ握った。
一口食べた途端、私は涙がこぼれた。久しぶりに感じる、満腹。優しい声で、「よく噛んで食べなさい」と微笑む顔。少し塩気のある、大きなおにぎり。
空腹が満たされた安堵と、神さまの安心感。その温もりに。私はおにぎりを食べ終わると、神様の膝の上で、いつの間にか眠ってしまっていた。
日が落ちて少し経った頃、親が私を迎えにきた。私の両親は、その神様のような人に、ぺこぺこと頭を下げ、何度も謝っていた。
そして、家へ帰るなり私に言った。
「あの人には関わるな。あの山に住んでいるのは人間じゃない。大切なお前の身に、何かあったら――」
けれど、当然私は気になって仕方がなかった。
お腹をすかせていたし。私はまだ、ものの良し悪しもわからない子どもだったのだ。
布団の中に入るたび、頬張ったおにぎりの味とあの人の笑顔を、何度も思い出した。そして、両親の忠告を無視して、山へ通うようになった。
そうすると、神様みたいなあの人――萬様は、いつも私と遊んでくれるのだ。
「またここへ来たのか?迷子になるじゃろう」
呆れたように言うその人に、私は笑って答えた。
「私が迷子になっても、萬様が迎えにきてくれるから」
そう言うと、萬様は困ったように微笑んだ。
そんな毎日は、一年近く続いた。
だけどある日、私の身に不思議なことが起こった。
成長するにつれて、私の顔立ちが少しずつ、萬様の姿に似ていったのだ。鏡を見るたび、自分の輪郭や目元が、萬様と重なるような気がした。
それを知った親は、「祟りだ」と言って怖がった。当然、「頼むからもう山へは入らないでくれ」とも。
だけど、私は嬉しかった。
もし、あの美しい萬様に似ているのなら、それはこの上ない喜びだったから。
――だけど、私の喜びは長くは続かなかった。
ある日のことだ。またいつものように山に入り、萬様と山道を歩いていた時だった。
「最近、萬様に顔が似てきたと言われました! ずっと一緒にいるからですかね」
なんてことのない雑談のつもりだった。私は、ただ萬様に笑ってほしかった。それだけだったのだ。
だけど、萬様は立ち止まった。そして、ひどく険しい顔をして言った。
「もうお主は山に来てはならぬ。二度と来るな」
低い声。突き放すような言い方。私はショックで大泣きした。「嫌われたんだ」と、泣き喚いた。
すると、萬様は困ったような、寂しそうな顔をして。そして、私を家まで送り届けた。
――思えば、神様にしては優しすぎる人だった。
それからの私は言いつけを守り、山には近寄らなくなった。
けれど、状況は悪くなるばかり。食糧難は深刻さを増して。村では老人や赤子など、弱い者から順に死んでいった。お金もない、食べ物もない。そんな地獄のような毎日に、いつの間にか十年もの月日が経っていた。
萬様は、どうしているだろうか。まだあの山に住んでいるのだろうか。
紅葉で赤く染まった山を眺めながら。私はぼんやり考えていた。
そんなある日、お父さんに呼び出された。
そして、泣きながら言われたのだ。
「琥珀……すまない。あの山の主に嫁いでくれ……あの神さまの、影武者に……」
萬様に焦がれていた私は、その意味をすぐに理解できなかった。
けれど、親の震える声。そして、泣き腫らした顔を見て悟った。
これは決して、良い報せではない。
――私は、売られたのだ。
何もかもが貧しい時代だった。物が貧しければ、人は心も貧しくなる。綺麗な着物を着させられ、見たこともない黒装束の人たちに囲まれて。十年ぶりに出会った萬様は。
あの日と同じように、悲しそうに、困ったように。ただ、微笑んでいた。
だから私は、本当は最初から気づいていたのだ。萬様によく似た私を囮として売ろうとする両親の申し出。それに、萬様が反対していたことを。それでも、見返りの金と食料を目当てに、親が無理矢理私を売りつけたことを。
だけど、両親に売られたということを、私は絶対に認められなかった。十数年と愛情を向けてくれた両親を、憎まなくてはならなくなるから。
だがら私は、萬様を恨んだ。家族以外の誰かを恨まないと、私は生きていけなかったのだ。
――なんて、自分勝手な人間だったのか。
「琥珀は泣き虫じゃな。美しい顔が台無しではないか」
抱く腕は力強く、どこまでもひとりで行ってしまいそうで。それなのに私は、強くもなれず。人にも戻れず。ただ過去に、泣いて縋ることしかできない。
ある、天気の良い冬の日だった。孤独と恐怖で、いつまでも泣き続ける私を見かねて、萬様は私を、山のてっぺんまで連れて行ってくれた。
「…………萬様は、ひとりで寂しくないのですか」
山の頂上。裾に広がる街を見下ろすように。萬様が私を膝に乗せる。
「寂しさなんて、とうの昔に忘れてしまったわい」
「萬様は化け物だって、村の人がみんな言っていました」
「ガッハッハッハ! 化け物か、それはよい!」
膝に私を乗せた萬様の体が、山のように動いた。
「怒らないのですか……?」
「なぜ怒る。化け物と呼ばれるのは、余のことを忘れるほどに、この国が豊かな証拠じゃ! これほど美しく、誇らしき地が他にあろうか。寂しさなど感じはせぬ。余の心は、吹きすさぶ風のごとく雄々しく、この地に生き、この地を守り抜くためにある!」
萬様の猛々しい叫びに呼応するように、夜空の星たちが瞬いた。
「…………そんなの、バカみたい」
国を守るなんて。会ったこともない人間のために、命を捧げるなんて。
「僥倖僥倖! 人の子に馬や鹿なぞと罵られほど、嬉しいことはないわい!」
泣き疲れた心の隙間を、憎らしいほど心地よく。風が吹き抜けた。
「――――なんで」
琥珀が目を開ける。目の前に立つのは、ここにいるはずのない人。
「国を……守るんでしょ……なんでよ…………」
盾のように立っていたのは、萬だった。
「すまんのう」
萬の胸に深々と突き刺さる、玉藻前の放った錫杖。左足は土砂から無理やり引き抜いた衝撃で、太ももから先が千切れていた。




