22.妖狐(3)
あっという間に、妖狐との決戦の日はやって来た。
「萬さんのこと、一度も倒せなかった……」
「ガッハッハ! 当たり前じゃろう。じゃが、あの崖を登り切っただけでも、大したものじゃ」
豪快に笑う萬に、ナカメがため息をつく。
「狐退治の助っ人を連れてきたよ」
にこやかに現れる玄月。その後ろから、仏頂面で顔を出す人。
「デジ子っ!?」
それは玄月の右腕。木子の精、デジ子だった。
久しぶりの再会に、ナカメが思わずデジ子に抱きつく。
「ナカメ、なんですかその見た目は!?」
「え、見た目? 一応萬さんに借りた服なんだけど……変かな?」
「服ではなくて、あなたのことです! 前はもっともちもちしていたのにカチカチになっていますし、背も少し伸びましたか?」
「うーん、そうかな?」
デジ子が訝しそうな視線を向ける。
「まさか、特訓とか言って何度も死んだりしていませんよね?」
図星だった。ぎこちなく視線を泳がせるナカメに、デジ子が深々とため息をついた。
「萬様のもとへ行くと聞いたときから、こうなる気がしていました……」
デジ子って、こんなに世話焼きだったっけ。
「おう! 久しいのう翠蓮。元気そうで何よりじゃ」
「ご無沙汰しております萬様。あちらにいらっしゃるのが、萬様の依代でしょうか」
萬の依代である琥珀は、ナカメたちから離れたところで一人、俯くように佇んでいた。
「そうじゃ。琥珀と言う。本当はお主にも挨拶をさせたいところなのじゃが……」
「時が時ですので、琥珀様には改めてご挨拶いたします。妖狐との戦いの後にでも」
「ガッハッハ! そうじゃな。それがよい!」
大口を開けて笑う萬には、大戦の前の緊張など微塵も感じられなかった。
その堂々たる佇まいに、数週間ともに過ごしていたナカメですら、気圧される。
「そろそろ日がくれる。始めよう、萬」
「うむ、そうじゃな」
玄月の言葉を合図に、萬が前に出た。
「皆のもの!」
かがり火の灯された山間の広場。萬の前に、代々萬とともに戦ってきた者たちが並ぶ。
「長きにわたり、我らが国を蝕みし妖狐。あやつは幾度も我が同胞を欺き、奪い、弄んできた! しかし、もはや逃がしはせぬ。幾多の犠牲、積年の恨み、今宵ここに決着をつける時が来たのじゃ!」
猛々しく響く、萬の声。
「すべては国の安寧のため、そして、失われた者たちの無念を晴らすため! いざ、参るぞッ!」
萬の言葉とともに、皆が散り散りに動き出す。
「我らも行くぞ、ナカメ」
向かう先は、妖狐の迎撃地点。破られた祠と市街地を結ぶ直線上にある丘の上だ。
「妖狐、本当に来ますかね」
「必ず来るよ。きっとこの日に君を攫うことが目的で、封印を解いたはずだ」
目的は私。つまり、不死の肉体だ。玄月様はそう確信している。不死の体を求める理由は、帝の御前で襲いかかってきた玉や依代たちの姿からも、分からないわけではなかった。
「妖狐って、ものすごく強いんですよね?」
「強いよ。本名は玉藻前。萬でさえ仕留め切ることができなかったくらいの魔物だ。怖いかい?」
「少しだけ怖いです。そんな魔物相手に、玄月様の役に立てるのか……」
「ははっ、ナカメはそんなことを気にしていたのか」
玄月様の役に立ちたい。役に立って、玄月様の依代に相応しいと認められて。もっと強くなる。誰かから、必要とされるほどに。
そんな思いが、ナカメを急かしていた。
「萬との修行の成果、期待しているよ」
玄月が楽しげに微笑んだ。
「ナカメ、いくらあなたが不死身でも、敵の目的はあなたなんですからね! 前に出過ぎちゃダメですよ!」
「なるべく気をつけます……」
嘘だ。本当は、最前線で戦う気満々だった。
ナカメたちの少し前を、萬と琥珀が歩く。
「萬様。お身体はいかがですか」
「見ての通り、全身に力が漲っておる! 山でも吹っ飛ばせそうなほどじゃ。琥珀は屋敷におってもよかったのじゃぞ?」
「ご冗談を。私はあなた様の依代であり、影武者です。離れたりはしません」
「そうか……」
琥珀の答えに、萬が悲しげに眉を寄せた。
今宵は新月。闇は一層濃く、山奥の空気は冷え冷えとしている。
星のまたたく天の下、黒々とした木々が風にざわめき、梢がかすかに揺れた。
「……来るぞ」
萬の言葉とともに、一行に緊張が走る。デジ子と琥珀は後方へ離れる。萬と玄月とナカメ、三人で迎撃する体制だった。
山に忍び寄る、白い霧。
最初は細くたなびく糸のように、やがては重く、ゆっくりとすべてを飲み込んでいく。
走る緊張。震える足を抑えて、ナカメがごくりと唾を飲み込んだ。
その時。霧の奥で何かが動いた。霧を引き裂くように現れたのは、獣の影。
それは、山のような大きさだった。闇に溶け込む青銀の毛並み、五つの金色の瞳が燐光のように揺らめく。
九つの尾がゆっくりと揺れ、空気を薙ぐたび、霧が生き物のように蠢いた。
「久しいねぇ、萬」
老婆のようでいて、男のようともとれる声が、空気を震わす。
「貴様の臓物をかっ喰らう時、あの忌々しき石蔵の中でどれほど楽しみにしていたことか」
「ガッハッハ。百年寝とった化け狐が、余を討ち取るじゃと? 笑止千万! 片腹痛いわ!」
妖狐が、目を細めた。喉奥から低く唸るような音が漏れる。
「――――虫けらどもよ、我が血肉になれ」
妖狐の口元がわずかに開かれた。牙の隙間から、青白い光がちらりと覗く。
妖狐はゆっくりと首をもたげると、喉奥からわき上がる炎を吐き出すように、大きく口を開いた――。
しかし、その瞬間。無数の矢が、次々と妖狐の顔を貫く。それは別部隊の放った、術のかけられた矢。
「良い的じゃのう、玉藻前よ」
「小賢しい真似を……」
妖狐が金の瞳を怪しく細める。低い唸りとともに、九つの尾が揺れる。
狐の輪郭がぐにゃりと歪み、毛並みが黒煙のように溶け、形を変える。骨が軋む音。顔の形が不気味に蠢き、異形の肉塊が変化していく。
霧の中、そこに立っていたのは、一人の人間だった。
「お前は、あの時のっ!」
思わずナカメが叫ぶ。
異様に白い肌、細すぎる手足、恐ろしいほどの美貌。それはまさしく、温泉でナカメが一瞬見かけた女だった。
「ナカメ、玉藻前を見たことがあるのかい?」
「はい。修行の途中に、温泉でワダツミさんと出会って――」
「ワダツミじゃと!? なぜそれを早く言わぬ!」
「す、すみません! 任務中だから内緒にしてくれって言われて……」
ワダツミさんと出会ったのは、玉藻前を見た直後だった。だとしたら、もしかしてワダツミさんは玉藻前と関わりがあるんじゃないか。
いや、そんなはずない。ワダツミさんは、私に血の操り方を教えてくれた。悪い人には見えなかった。
「やれやれ、お説教は後だ。萬、私はここを離れるよ。あいつのことだ、遠くから見物を決め込んでいるんだろう」
「行け。お前の勘はだいたいあたる」
遥か上空へと、玄月が飛び立つ。
「行くぞナカメ。我らの敵はあやつじゃ」
ナカメと萬の先に佇む、玉藻前。
「お話は終わったかしら?」
腕に握られた金の錫杖が、シャランと音を鳴らした。
来る。そう思った瞬間に、玉藻前の姿が消えた。
――後ろだ。
背後から冷気のような殺気が奔る。金の錫杖が、ナカメの体を貫くように振り下ろされた。
転がるように避けたこめかみのすぐそばで、地面が深々と抉られる。もし避けられなければ、間違いなく即死の一撃だ。
――でも、ギリギリで避けられた。
玉藻前から、再度距離をとる。 普段以上の力が、全身を巡っている。それは、萬やナカメを援護している人々の術の効果だった。
「ありがとう!」
「手を振るな戯け! バレるじゃろうが!」
ごつんと、萬に頭を叩かれる。
「鬱陶しいわね。遠距離からの攻撃に、身体能力の強化かしら? それに、私の体を這って妖力を吸い取るこの雑草」
玉藻前が、身を払った。ハラハラと落ちていく、白い植物の根。それはデジ子の力だった。
「この百年の間に、随分と変わったようね。百年前までの貴方は孤高の修羅。犠牲を厭わない、血肉が飛び散る争いを好んでいたじゃない」
「時代は変わる。時代が変われば、価値も変わるものじゃ、玉藻前よ」
「そう――――つまり、あなたは弱くなったのね」
空気が変わった。
玉藻前が、恐ろしく美しい顔で、冷え冷えと嗤う。白い指が宙をなぞると、空間にかすかな波紋が広がった。
「遊びは終わりにしましょう。まずはそのお嬢さんから」
瞬間、ナカメの体に異様な感触が走る。
背筋に悪寒が奔り、胸から下にかけて、焼かれたようなじんとした痛みが広がる。
《爆》
胸元から手足に、赤黒い文字が無数に浮かび上がった。
「何、これ――」
そう思った瞬間、世界が暗く吹き飛んだ。
爆発音とともに、陽炎が炸裂する。衝撃が腹の底から突き上げ、体が吹き飛ばされる。空気が焼ける匂い、皮膚を焼く熱、全身に走る灼熱の痛み。
何が起きたのか、考える暇すらなかった。
「……げほ、げほっ! なに……今のっ…………」
――私、今の一瞬で死んだ?
死ぬ直前のことを思い出す。玉藻前が指を動かした。すると私の体に《爆》の文字が現れ、体が消し飛んだ。
まさに、異次元の力。
「ナカメ、下がれ! 今のは何百年も前に余が封印したはずの力じゃ!」
顔を上げたナカメの視界の先――玉藻前が、楽しげに微笑んでいる。
「あははははは! 驚いたでしょう。封印を解いてくださった方が、この力も取り戻してくれたのよ! 素晴らしいわぁ…………それより」
ゆらりと、玉藻前がナカメへと距離を詰める。長くしなやかな人差し指が、倒れ伏したままのナカメの顎に添えられた。
「貴方、面白いわねぇ……不死の子」
金色の瞳が細められ、獲物を愉しむ捕食者の光が宿る。軽やかに、弄ぶように。
その瞳には、命を刈り取る殺意が確かに滲んでいた。




