20.妖狐(1)
屋敷の慌ただしい喧騒が嘘のように、夜の山は静寂に包まれていた。三日月が細い光を落とし、崖の岩肌をのぼるナカメに、かすかな影を作る。
「ぐう……あと、少しっ……うわぁッ!?」
崖の頂上まであと一歩のところで、足が石を踏み外した。
妖狐復活の報せが気になって、集中できない。萬さん達は無事だろうか。
「今日はここまでにしよう……」
深く息を吸い、静かに辺りを見渡す。目下に広がる森。その奥に、ふと視線を奪われるものを見つけた。
「なんだろう、あれ」
森の中に、ぽっかりと浮かび上がる場所。それは、花畑だった。月明かりを受けて、白や淡い紫の花びらが光を帯びているように見える。
――行ってみよう。
岩の壁を蹴りながら崖から下りる。月の下。花畑があったのは、南東の方角だった。
数十分ほど森の中を進むと、やがて視界が開ける。それは、小さな花畑。白と紫の花が咲き乱れ、月明かりが柔らかく降り注いでいた。
この場所だけ、時間が止まったような静謐さ。その中心には、ひとつの石が置かれていた。それはまるで、墓標のように重ねられた石。
――その前に佇む、ひとりの少女。
「琥珀……」
声をかけようとして、立ち止まる。
琥珀のオレンジ色の髪は、月光を浴びてやわらかな輝きを帯びている。それはさながら、金色の毛並みのようで。萬と瓜二つの様相だった。
だがその肩は小刻みに震え、啜り泣く声が花畑に染み込んでいた。
琥珀が泣いている理由なんて、聞かなくてもわかる。妖狐が蘇ったことを聞いたのだろう。
「それは、お墓?」
恐る恐る声をかけると、琥珀の肩がびくりと跳ねた。そして、睨むようにナカメを見る。
「……何しに来たの」
琥珀の鼻の先は、わずかに赤くなっていた。
「崖を登っていたら、この花畑が見えたから……綺麗だなって」
琥珀は立ち上がると、懐かしむように墓石を撫でた。
「ここはお墓よ。あたしのお父さんとお母さんの、形だけのね。二人は寿命を全うして、死んでいった。私を残して」
琥珀は、萬さんの依代。だから琥珀の体も、萬さんや玄月様のように、不老の体になっているんだ。
「萬様は化け物よ。玉も依代も、みんな化け物なの。いつまでも老いない、私もね」
そう言い捨てる琥珀の瞳は、ひどく寂しそうに見えた。
「琥珀は萬さんの依代なんだよね? それなのに、萬さんのことが好きじゃないの?」
「萬様は、自分の命のために、囮として私を買ったのよ。好きになんて、なれるはずがない。萬様のせいで、私はこんな体になったんだもの」
萬から聞いた、妖狐の伝説。萬によく似た少女を囮に、妖狐を封じてきた歴史。 琥珀は、その囮なのだ。
「化け物になったから、もう人間の村に下りることもできない。私を忘れて死んでいく家族を、遠くから見つめるだけ。そんな私の気持ちなんて、ずっと親がいなかったあんたには、わからないでしょ」
琥珀の言う通り、私と琥珀は違う。私の両親は、私が生まれてすぐに死んだと聞いた。家族というものがどういうものなのかも、わからない。
だけど、琥珀はきっと両親に愛されていたのだろう。琥珀も両親を愛していた。
震える声に、琥珀の深い哀しみに満ちた思いが伝わる。
「目障りなのよ……あんただって、あたしと同じ、化け物にされたくせに! それなのに、何もなかったみたいに振る舞って……!」
苦しい思いをしてまで、人間でいたいと願う気持ちが、ナカメには分からなかった。
最初からナカメには持ち得ない感情だったのか。それとも、何千回と生死を繰り返し、人間から遠く離れていくうちに、失ってしまった感情なのか。
「だから、ずっとここで泣いているの? 萬さんを恨んで」
誰かを恨んで、誰かに期待する。自分を一番に思ってくれている人――萬さんという存在がいるのに。どうして。
「琥珀の言う通り、わたしはずっとひとりだったから、私には琥珀の気持ちはわからない」
だが、何度も拳を交えたナカメだけが知っていた。萬の強さを。どれほどの鍛錬を尽くしてきたのかを。そしてそれは、人間の営みを守るため。目の前で泣く、琥珀のためであるということを。
「だけど、萬さんは琥珀のために必死に戦ってくれているんだよ?」
「わかったような口聞かないでよっ!」
ナカメの頬に、鋭い衝撃が走った。乾いた音が夜の静寂を裂く。
「私の気持ちなんて、あんたや萬様に、わかるはずない! お父さんもお母さんも、私を愛してた……! 私は人間のままで、幸せだったのに……! 私は……!」
琥珀が、二度三度とナカメを殴った。涙を流しながら、苦しげに歯を食いしばって。
「なんで……っ」
琥珀の声が、苦し気に掠れる。
「なんで、何も言わないのよ……なんでずっと、平気な顔していられるのよ! あんたも、人間じゃなくなったくせに! あんたも、ひとりぼっちのくせに……!」
琥珀の拳が、弱々しくナカメの肩を叩く。溢れた涙が、ナカメの頬へ落ちた。
やがて縋り泣くように、もたれかかる琥珀の細い背中を、ナカメがそっと抱き寄せる。腕にあるのは、間違いなく人間の温もりだった。
「琥珀は囮なんかじゃない。魔物でもない。萬さんはそう思ってる。琥珀も、本当はわかっているんでしょう……?」
琥珀がどんな経緯で萬さんに引き取られたのかは知らない。だけど、きっと萬さんも胸を痛めている。
――琥珀のことを宜しく頼むぞ。
そう言った萬さんの眼差しには、決して表には出せない悲しみが、沈んでいるように見えたから。
* * *
山奥の小屋。その粗末な床には、十人ほどの女たちが寝かされていた。手足は縛られ、口には布を噛まされている。
「んんんーっ!んぐっ!」
「震えないで? せっかくのご馳走が台無しじゃない」
部屋の中央、冷たい青色の髪をした女が、縛られた女の頬を撫でた。恐怖に見開かれる瞳。だが、悲鳴を上げる間もなく。女の牙が喉笛に食い込み、血が噴き出した。
「もうちょい大事に食うてくれへん? こんな時代に若い女さらうん、どんだけ手間かかると思てんねん」
凄惨な現場とは正反対の、不満そうな軽い声が響く。木の椅子に腰掛け、足を組んでいたのはワダツミだった。
「ああ、やっぱり若い肉は格別ね……体の奥が満たされる……」
「なぁ、うちの話聞いとる?」
女は満足げに喉を鳴らすと、次の獲物へと視線を移した。
床に転がる女たちが、嗚咽を漏らす。
「さあ、次は……あなたにしましょうか。大丈夫、すぐに楽になるわ」
広がる血溜まり。消えそうなほど細まった月が、雲の向こうに隠れた。




