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神薙  作者: 猫ざらし
19/35

19.萬(6)

 緑の軍服に、束ねられた黒髪が揺れる。張り付けたような笑顔。覆い隠された片目が、怪しい影を落としていた。


「ワダツミさん……」


 思わず、息を呑む。 表情をこわばらせるナカメに、ワダツミはあっけらかんと笑った。


「温泉でそない物騒なことせんでええ。任務で来ただけやさかい」


 にっこりと笑うワダツミに、さらに不信感が募る。怪しすぎる。


「こんなところで風呂なんて入って、何してはるん?」

「修行です……萬さんのところで……」


 隠れるように、鼻の下までお湯に沈める。


「まぁ、この山おる時点でそうやろなぁ」

「ワダツミさんは、なんでここに?」

「任務やで。言うても子守りみたいなもんやけど……こんな熱いもん、よう入れるわ」


 ワダツミが指先でお湯を撫で、顔をしかめた。


「綴様も来ているんですか?」

「あー……あの人は来てへんよ」


 そうなんだ。と、少しだけ落ち込む。

 綴様はワダツミの玉で、鈴のように優しい声で笑う人だった。わずか一瞬会っただけなのに、綴の安らぎに、ナカメは虜になっていたのだ。


「修行って、玄月にさせられとるんやろ? こんなとこで風呂なんて入っとったら、どつかれるで」

「それが、全然萬さんに勝てなくて……」

「はぁ!? 自分人間なんやから、当たり前やろ。なにアホなことぬかしとんねん」


 ワダツミの呆れた顔に、ナカメがむっと頬を膨らませた。


「私も、玄月様とか、デジ子みたいになりたいんです……」


 玄月様にせっかく拾われたのに。私はまだ、誰の役にも立っていない。もしろ、足を引っ張ってばかりな気がする。


「ふうん。自分、玄月みたいなことできへんの? 血を操ったり」

「そうなんですよ! 」


 ナカメが前のめりに口を開く。


「萬さんと戦っているとき、自分の血飛沫が一瞬、動いた気がしたんです。玄月様みたいなこと、私にもできるようになりますかね……?」


 あれは一体、何だったのか。萬の拳が迫る中、避けなきゃと念じた瞬間。自分の血が、微かに震えたような気がした。


「へぇ、せやったら、玄月ほど自由に動かすんは無理やろうけど、決まった形のもんくらいは作れるやろうなぁ」


 ワダツミに、腕を引かれて立ち上がる。


「少し切るで」


 しゅるしゅると渦巻く風が、ナカメの手の甲に傷をつくった。膨らむように、溢れる血。


「自分の血やったら、操りやすいはずや。体の外に出て、だんだん冷うなっていくん感じるやろ? そこに意識を向けるんや。神経を生やす感覚、自分も死んだり生き返ったりしとるんやから、わかるんとちゃう?」


 血液を凝視し、手の甲に集中する。

 動けと、強く念じた。


「最初は目ぇ閉じてもええ。大事なのは、イメージ。柔らかい球体を捻るように、立ち上げるんや」


 そう囁くワダツミの声は、普段の荒々しさが嘘のように、穏やかな波ように静かで。不思議と心が落ち着いていく。言われるまま、目を閉じる。

 鳥の囀り。ワダツミの香り。順番に五感に蓋をする。そして、イメージする。見えない手で、粘土をこねるように。血の粒を捻って、立ち上げる――。


「目、開いてみ」


 ワダツミの言葉に、ゆっくりと目を開ける。

 そこにあったのは、手の甲の傷から零れた赤い雫が、まるで生き物のように空へ伸びようとしていた。


「すごい……できた……!」


 ナカメが、喜びに顔をあげる。ワダツミの顔が想像以上の近さにあって、思わず息をのむ。

 瞬間、気を取られたせいで、手の甲で立ち上がっていた血液の粒がぺちゃりと水滴に戻ってしまった。


「こら、うちに見惚れとったらあかんよ」


 ワダツミの海の底のように暗い瞳が、楽しげに笑った。


 ――そんな顔もするんだ、ワダツミさん。


「ありがとうございます! 色々と教えていただいて」

「玄月はこういうのは教えてくれへんやろうしな。それに、玄月へのちょっとした嫌がらせや」

「嫌がらせ、ですか……?」


 ナカメが再びお湯に浸かると、ワダツミは猫のように伸びをした。


「ワダツミさんは、玄月様と仲がいいんですね」

「はは、仲良さそうに見える? あいつは小さい頃からの腐れ縁みたいなもんやな」


 ワダツミが、傍らに置いていた刀の鞘を腰に戻した。もう行くのだろう。


「玄月は昔からあんなんで、おもろないやつやさかい、あいつと一緒におるくらいやったら、萬とおる方がまだマシやで」

「三人でずっと一緒にいたんですね」


 どんな感覚なのだろうか。千年もの間、共に生きた人がいるというのは。私からすれば、千年という時間はあまりにも長く、途方もない時間に感じた。

 死ぬことのできない体になった私は、これから先、いったい何千年の時を過ごすのだろうか。時間の孕む孤独を、考えたことがないわけではない。

 ただ、実感がまだ湧いていなかった。

 そんなナカメの不明瞭な心を見透かすように、ワダツミが目を細めた。


「なぁ、自分は何のために強くなりたいん?」

「自分のためでしょうか……強くなって、誰かに必要とされるような人になりたいから……」


 子供じみた願望だと、蔑まれるだろうか。そう思ったが、返ってきたのは悠然とした声。


「そら、ええことや」


 ワダツミが、口元をふっと緩めた。


「自分のためにしか、強さは手に入らへん。忘れたらあかんで。これはその餞別や」


 瞬間、ワダツミがナカメの裸の胸元を、指先でとんと叩く。


「――――うッ!?」


 心臓を血液が逆流したかのように、息苦しくなる。指の先で弾かれただけなのに、頭がぐらりと揺れ、お湯の中に倒れた。


「うちがここにおったことは内緒やで。サボっとるのがバレたら、お上にドヤされてまう」


 心臓を抑えて苦しむナカメを置いて、ワダツミは踵を返した。


「それと、さっきの血を操る力。玄月にも見せたってな?」

「ぐ、うっ……ワダツミさん、胸がっ……」


 死にそうなくらい、苦しい。だがワダツミは振り返ることなく、あっさりといなくなってしまった。

 ひとり残された温泉で、胸痛に耐える。結局、何をしに来たんだ、ワダツミさんは。悪い人ではなかったけど。


「そういえば、ワダツミさんに会う前に女の人を見た気がしたんだけど……」


 森の木立の方を振り向く。いつの間にか、どこにもいなくなっている。


「気のせいだったのかな……?」


 まるで狐に化かされたように。森の中には白い湯気だけが立ち込めていた。



* * *



「玄月様と萬さんって、仲いいですよね」


 夕食どき。広間にいるのは、私と玄月様、そして萬さんの三人。今日も琥珀はやって来なかった。


「昔の神薙は、今よりもずっと玉が少なかったからのう。ワダツミと三人でよく帝に呼び出されとった。最後に揃ったのは八岐大蛇の捕獲に、玄月が失敗した時じゃったか」

「いや、殺しちゃっただけで失敗してないから。というか、君たちが遅刻してきたせいでしょ」

「ワダツミは役に立たんかったのう。二日酔いで来おって、綴に呼ばれたとか言うて、途中で勝手に帰りおった」


 ワダツミさん。変わった人だったな。だけど、教えてもらった血を変形させる力。これを使えば、もしかすると明日は萬様に――――。


「萬様ッ!」


 突然、部屋の襖が割れんばかりの勢いで開かれた。


「どうしたのじゃ、そんなに慌てて」


 立っていたのは、青白い顔をした黒装束の人。確か、萬さんに仕えている人だ。


「妖狐の祠が、何者かに破られました……!」

「なんじゃと!? やつの妖気は十分ではないはず……わかった、すぐに行く」

「私も行こう。本当に妖狐の封印が解かれたのなら、相当まずい。ナカメはここに残りな」

「なぜですか!? 私も行きます!」

「ダメだ。敵の目的がわからない以上、ナカメは連れていけない。相手の狙いは、君かもしれないんだ」


 俯くナカメの頭に、萬が手を置いた。


「そう落ち込むでない。様子を見てくるだけじゃ。倒すときには、必ずお主の力も借りることになるじゃろう。余が留守の間、琥珀のことを頼むぞ」


 ――琥珀がもし、妖狐が復活したと聞いたら。


 空を飛ぶように、森の方へと消える二人の背中を見上げる。

 胸によぎるのは、妖狐への囮としてこの屋敷で暮らす、少女のことだった。


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