18.萬(5)
「──つまり、萬さんの依代である琥珀は、妖狐への囮ってことですか」
罪のない人を、化け物に囮として差し出すというのか。
「そうじゃ。じゃが余とて、そんな犠牲など望んでおらぬ。余の依代は、これまでに八人おった。誰ひとり、死んでよい人間などおらぬ。じゃが、それでも皆、自ら進んで死を選んだのじゃ」
「……どうしてですか? みんな、もとは普通の人間だったんですよね?」
「彼女たちには、命を天秤にかけても守りたかったのじゃ。家族や、国の人間を」
萬の言葉に、ナカメは口を閉ざした。
私も誰かに頼られ、求められて。そして、誰かを守って死ねたらいいと思っている。
だけど、萬さんの言う、この国を守ろうとして死んでいった人たちは、きっと私のように薄汚れた願望なんかじゃなかったんだろう。
自分のことなんて、どうでもいいと。心からそう思える人たちだったんだろう。
「まあ見ておれ! 妖狐の復活まであと十年はある。余は神薙最強の神狼ぞ。次に妖狐めが現れたときには、余の烈火の如き昂り! 存分にお主にも見せてやろう!」
大口を開けて笑う姿は、まさに豪傑。
一方で、先ほど見た琥珀は月のように冷たく、悲しげな目をしていた。背中合わせのような二人が、ナカメはどうしても気になるのだった。
* * *
ナカメが萬の屋敷で暮らすようになって、二週間が経った。
山全体が呼吸をするような、凛とした朝。静けさに包まれた山に、土を砕くような打撃音が響き渡る。
「ほう! よく避けたのう!」
萬の拳が唸りを上げる。迫る一撃に、ナカメは咄嗟に身を沈めた。
――見える。
全身にみなぎる感覚。以前なら視線で追うのがやっとだった拳が、今は確かに見える。
「はぁっ、はぁっ」
身体が軽い。いや、違う。鍛え上げた筋肉が、ナカメの動きに確かな力を与えていた。無駄が削がれ、しなやかさと強さを纏った動き。
「避けるとすぐ油断する癖はいただけないぞ、ナカメよ」
「ぐあっ!?」
死角から、もう片方の腕がナカメの腹に迫る。
避けられる距離じゃない。何か避ける術ないか。動け、動け――。
スローモーションになる視界。動けと念じる視界に映る、自分の血の飛沫。吹き荒れる衝撃の直前、飛び散る小さな血の粒が、微かに震えたような気がした。
「惜しかったのう。じゃが、余に汗をかかせるほど動かしたことは誇るとよい」
吹っ飛ばされ、倒れるナカメに萬が手のひらを差し出した。
「休憩じゃ、朝風呂にでも入ろう」
「お風呂……ですか……?」
差し出された萬の手のひらを掴むと、強い力で引き寄せられる。
「余の屋敷の風呂は温泉を引いておるのじゃが、その源泉が近くにあるのじゃ。自然の露天風呂みたいなものじゃな」
萬に言われるまま、獣道のような細い山道を進むと、唐突に視界が開けた。
そこは、湯気に満ちた露天風呂。乳白色の湯が岩場に静かに満ち、なんとも言えない風情を醸し出していた。
「すごい……本当に温泉だ……!」
「屋敷のものよりも少しばかり熱いが、その分擦り傷などにはよく効く」
驚きと感動が入り混じった声を漏らすナカメの横で、萬なためらいもなく、胸の布を取り払う。
「さあ、入るぞ」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください……! 更衣室みたいなものはないんですか!?」
豪快に服を脱ぎ始める萬に、ナカメが思わず後ずさる。温泉とは言え、ここは野外なのだ。裸になるのは躊躇われる。
だが、戸惑うナカメをよそに、萬は見事な筋肉と豊満な胸を、朝日に披露していた。
「何を恥ずかしがっておる? お主もさっさと脱がぬか。置いて行くぞ」
「ま、待ってください!」
湯気の向こうへ消える萬に、慌ててナカメも追いかけるように服を脱いだ。そして、足の先を湯に浸す。
「……はぁぁぁ、気持ちいい」
思わず声が漏れるほど、心地よく身体を包み込むお湯。
「筑紫の湯は絶品じゃろ。お主も好きな時に入るとよい。屋敷からは距離があるのじゃがな」
そっと湯の中で指を動かし、白く濁った水面を見つめる。
山の奥の秘湯で、萬さんと二人きり。どこか不思議で、少しだけくすぐったい。
「気持ちいいですね、萬さん……あれ、萬さん?」
気がつくと、周りは白い湯気に包まれていて、隣にいたはずの萬さんの姿が見えない。
すぐ隣にいたはず。お湯を掻き分けて進むと、すぐにその背中が見えた。
「萬さん、ここのお湯けっこう熱いですね……萬さん……?」
肩を叩こうとしたとき。振り向くその顔に、手が固まる。
振り返ったその人は、萬さんにそっくり。だけど、萬さんじゃない。
「あれ、琥珀…………?」
「なんであんたがここにいるのよ!」
ばしゃりと、お湯をかけられる。
「えぇ!? なんでって、萬さんが案内してくれたから」
「そんな訳ないでしょ! ここはあたしと萬様だけの湯処なんだから!」
理不尽だ。そう思いながらも、弁解すればするほど怒られそうなので黙る。
萬さんと琥珀だけの秘密の温泉だったのなら、悪いことをしてしまったような気もする。だけどそこに余所者を案内してしまう萬さんって……と、二人の間柄にまで気になり出したところで、湯気の中から本物の萬さんが現れた。
「おう、琥珀もおったのか」
「おったって、ここはあたしと萬様の湯です! なのに、どうしてこの人間がいるんですか!?」
琥珀の言葉に、萬は首を傾げた。
「稽古で汗をかいてしまってのう、湯に浸かろうと思ったのじゃが……そうか、この時間は琥珀が使っておったのか。すまないことをしたの」
「違います! ひとりで入りたいという意味ではなくって、あたしはただ……」
「ふむ。ではどういう意味なのじゃ?」
「もう! 勝手にしてください!」
怒ったようにお湯からあがり、琥珀は濡れた肌の上に服を羽織ると、そのまま森の方へ行ってしまった。
「気難しいやつじゃのう。余は琥珀を追いかけるが、ナカメはゆっくり体を休めるとよい」
「ありがとうございます……」
琥珀の気難しさの理由をひとつ、垣間見たような気がする。萬さんの鈍感さというか、痴話喧嘩というか。
湯に浸かりながらナカメがうんうん唸っていると、ふと、木々の向こうに何かの影が揺れる。
「萬さん、戻ってきたんですか……?」
木陰で揺れる、艶やかな青の髪。肌は透き通るほどに白く、まるで人のものではない。
細く整った指先がゆるりと動き、まるでこちらを誘うように風を撫でた。その人間離れした美しさに、思わず息を飲む。
「あなたは一体…………」
ナカメが、謎の女に声をかけようとした時だった。
「――あれ、玄月のところのお嬢さんやないの」
軽やかな声に振り向くと、立っていたのは、いつか見た男装の麗人。
帝の御前で、ナカメの不死の肉を狙い、襲いかかってきた依代――――ワダツミであった。




