16.萬(3)
朝の霧がまだ残る、静寂の山中。
草の揺れる音すらも霧に包まれ、世界がまるで、白い膜に包まれているように感じる。
そんな朝の気配の中、ナカメはわずかに身を引き、息を詰めた。その瞬間――。
「遅いわ」
涼やかな声の直後、視界に金の髪が弾ける。
踏み出した萬の足。その風圧だけで、落ち葉が舞った。
鋭い、爪の一閃。 瞬間、ナカメの胸元から腹までが深く裂け、真紅の鮮血が朝霧に散った。
「まるで手応えがないのぅ」
ナカメの体が宙を舞い、後ろの杉の幹に叩きつけられる。
骨の砕ける鈍い音。視界がぐにゃりと歪む。
「何度目じゃ? 十五回目くらいかの?」
萬の足音が近づく。
「さ、次じゃ。早く立たんか、不死の小娘」
死神のような声を聞きながら、ナカメはこうなった原因である、玄月の言葉を思い出していた。
――玄月の発表したナカメ強化計画。その内容はこうだった。
まず、日の出と同時に萬と勝負する。萬に一本でも取れればナカメの勝利。
もちろんナカメは死ぬことになるので、ナカメが三十回死んだら、その日の勝負は終了。
その後はひたすら筋力をつける。腕立て伏せ、腹筋、背筋、走り込み。決まった数を終えたら、萬の屋敷の裏に聳える崖を、素手で登る。
それを、ナカメが萬に一本取るか、崖を素手で登り切ることができるまで。 たったそれだけの、簡単なプランだ。
そう言って玄月は笑っていたが、とても人間にこなせるような内容ではない。
「玉を倒すなら、ナカメもそろそろ人間やめないとね」
唖然とするナカメに、玄月は流れる銀の髪を、涼やかにかき上げた。
萬を前に、死を迎えた体が再生する。 死と再生を繰り返すたび、痛みは薄れていくはずなのに、恐怖だけは一層濃くなっていた。
それでも、立ち上がるしかない。立たなければ、また即死するだけだ。
ナカメはふらつく両足で、半ば無理矢理に大地を掴んだ。ぼんやりした視界に、萬の姿を見る。
萬さんは強い。さすが四家。本気ではないはずなのに、砂淵鶯とは比べものにならない力とスピード。その両方を兼ね揃えている。
「――考え事か?」
次の瞬間、視界が回った。 理解する前に、首が切断されている。
「こんなにも弱いとは、拍子抜けじゃな」
地面に落ちたナカメの頭を無視して、萬は淡々と告げる。
「立て」
何も目で追えない。振り翳された萬の手を確認する間もなく、死んでいる。 泥と血に汚れた服の裾を、払う余裕もない。
――今日、私は何回死んだ?
息は浅く、指先の震えが止まらない。
考えるんだ。萬の攻撃を躱す方法を。このままでは、ただサンドバッグになるだけだ。 気がついてから避けるのでは遅い。何か、攻撃を先読みする方法はないか。
対峙する萬をじっと見つめる。
爪の軋み。呼吸のリズム。 何度も何度も殺された身体が、ほんのわずかな隙間を嗅ぎ取る。
萬の呼吸が変わる。爪がわずかに角度を変えた。肩が沈み、軸足が滑る。 瞬間、足が勝手に動いた。
転がるように、泥にまみれながら逃げる。背中を掠める爪。
「ぐ、がぁっ……!」
避けきれず、肩に走る鋭い痛み。いつもの死に至る感触が、ほんの少しだけズレた。
「ほう、避けたか」
その声に滲んでいるのは、わずかな興味。死にかけの羽虫で遊ぶ、猫のようなものだった。
だけど、それも一瞬で。
「――ほれ、次はどうするのじゃ?」
ナカメの背後に回る気配には、音すらない。気づく間も無く、首筋に触れる冷たい爪。気焔万丈の文字が踊る。
今度は躱す間も無く、喉が裂かれ。
ナカメの世界に、赤黒い飛沫が跳ねた。
結局この日、ナカメが玄月に課せられた三十回の死を迎えるのに要した時間は、一時間にも満たなかった。
「ガッハッハ! 愉快愉快。不死といえど大したことないのぅ」
「ぐううう……!」
――――悔しい。
それほどまでの、圧倒的な実力差。何も掴めなかった。
死にすぎたせいか、指先がビリビリと痺れる。それでもなんとか堪えて、地面に腕をつく。
腕立て伏せ、五百回。 地面に両手をついて、ゆっくり腕を曲げる。
肩にじわりと負荷がかかり、袖口が汗ばんだ肌に張りつく。額ににじんだ汗が一粒、ぽたりと土に落ちた。
弱い。私は、あまりにも弱すぎる。玄月様にも、萬さんにも、デジ子にも遠く及ばない。だから、努力しなくちゃいけないんだ。
私に、大切なものは何もない。私が誰かにとって、大切なものでないように。
だから私は、前に進むしかないんだ。誰かのために死にたいと願うのなら、誰かに必要と思われるだけ、私が強くなるしかない。
人一倍遅れているのなら、人一倍歯を食いしばって、努力するしかないだろう。
「ぐ、うっ…………」
力が入らず、肘ががっくりと折れた。地面に伏した衝撃で、口に土が入る。
「って言っても、無理だよね……女子高生が半魔に勝つなんて……」
土の味を噛み締めながら、思考を巡らせる。
――デジ子だったら、萬とどう戦うだろうか。 デジ子なら、きっと萬を冷静に分析する。動きの癖。表情の変化。一瞬の間にそれらを分析して、木子の能力で防ぐはず。
「私にも、デジ子みたいな力があればいいのに……」
両手を見つめる。腕が鉛のように重く、指先が震えた。 当たり前だ。数日前までは普通の女子高生だったのだ。筋力なんて、人並み以下。このままじゃダメだ。
寝転がり、朝焼けに染まる空を見上げる。 私にしかない力。それは、不死。
――もしかして、一回死んだら体力も戻るんじゃない?
ふと、脳裏に浮かんだ考え。首を切られれば、私の体は首から再生した。つまり、死ぬたびに私の体は再構築されているのだ。
体がリセットするのなら、一度死ねば、疲労もなかったことになるのではないか。
ナカメは立ち上がると、ふらつく足で屋敷に戻り、台所へ向かう。 朝の台所には、朝食の支度をしている使用人達が忙しなく働いていた。
「あの、包丁ちょっと貸して貰えませんか」
「え? ええ、どうぞ」
「ありがとうございます」
ナカメは包丁を受け取ると、中庭へ出た。血まみれのシャツ。そしてふらふらの足取りで立ち去るナカメに、使用人たちが心配そうにその姿を覗く。
「あの、中六様……? 包丁でいったい何を……」
だが、そのあとの言葉は絶叫へと変わった。
「ひっ……ひいいいい!」
「中六様が、中六様がぁっ……!」
おもむろにナカメが包丁を、自分の胸へ突き立てたのである。台所に使用人達の叫びが響く中、ナカメの体が血溜まりの中へ倒れ込んだ。
しかし数秒もすると、ナカメの体がわずかに痙攣し、左胸の傷口が瞬く間に塞がっていく。
「やっぱり、力が元に戻ってる……死んだら回復できるんだ!」
飛び起き、試しに腕立ての構えをとる。
先ほどまで鉛のように重かった身体が、嘘のように軽い。筋肉の張りも痛みも、すべてが消えていた。
自殺したかと思えば、血溜まりの中で腕立て伏せをはじめるナカメに、恐怖と困惑で立ち尽くす使用人達。
「この包丁、しばらくお借りしますね!」
死ぬ度にリセットされる肉体なら、常人の何倍ものスピードで鍛えられる。もっと強くなれる。
山の方へと、嵐のように走っていくナカメ。その汗ばんだ横顔を、昇り始めた朝日が、橙色に照らしていた。
ナカメの編み出した作戦。『死んで回復作戦』は、功を奏した。
本来、筋肉は一度壊された筋繊維が十分な休息によって修復されることで、増強する。 その休息を、死んで生き返ることで、ショートカットしたのである。
ナカメは限界を迎え、地に倒れる度に、自らの心臓に刃を立てた。
その数、一日にして六十回余り。つまり、一日にして通常の人間が二ヶ月かかる筋破壊と筋修復を繰り返したのだ。
容易に自害することは、つい先日まで普通の女子高生であった人間ができることではない。だが、一時間も満たない時間に、萬に三十回と殺された経験が、ナカメの死への抵抗を徹底的に排除していた。
――これなら、もっと早く強くなれる。
だが、そんな光明を見つけたナカメにも、最後の難関が立ちはだかっていた。




