15.萬(2)
「お待ちしておりました、玄月様。中六様」
使用人はそれだけ言うと、無言のまま案内をする。
通されたのは、広い座敷だった。
古い屋敷特有の、乾いた木の香りが静かに漂う。厳粛な空気に似合わない、にんにくとお酒の匂い。障子の襖を勝手に開けて、夜風にあたる玄月に、ナカメはじっとりとした視線を送った。
「あの、玄月様……やっぱり飲みすぎなのでは……?」
「いいのいいの。萬って昔から苦手なんだよね。酒でも飲まないと、やってらんないよ」
そんなことを言われれば、これから会うというのに不安になる。
落ち着かない心持ちのまま、床の間で待つこと十分。ドシドシドシと、大男のような足音が床を揺らした。
痺れるように振動する空気。
バァンッ——!
激しい音を立てて、廊下の方の襖が勢いよく跳ね上がる。衝撃に耐えきれず、柱の軋む音が鳴った。
「遅かったではないか玄月! 余は退屈じゃったぞっ!」
現れたのは、一人の女。
身長はさほど高くはないが、圧倒的な存在感。
滑らかな肌に、上半身を覆うものは白い布一枚。豊かな胸を無理やり押し込めるように巻かれたそれは、今にもほどけそうで、ナカメが目のやり場に困るほどだった。
下半身には、腰から足首までゆったりと覆う白いズボン。風をはらんで、雲のように揺れる。
そして何より目を引くのは、剥き出しの両腕に彫られた、堂々たる入れ墨。左腕には『気焔万丈』、右腕には『疾風迅雷』の文字。
「ほら、すごいうるさいでしょ」
玄月の言葉に、萬が吠える。
「お前たち、臭いぞ!」
乱雑に切られた金色の髪が、神々しく揺れる。
「にんにくと酒…………お前ら、わざとじゃな!?」
「いやあの、とんこつラーメンが美味しくてつい……あ、私は未成年なので飲んでませんから! 玄月様も何か言ってください!」
慌てて弁明するナカメ。助けを求めて玄月の方を見るが、相変わらず寝転んだままだった。
「萬は狼人間だから、鼻がいいんだよ」
なんて笑っているが、笑っている場合ではない。
「あ、これお土産の通りもんね」
「なぜ東京の土産を寄越さぬ! やはりわざとじゃな!?」
くさいのぅと、涙目になりながら鼻をつまむ萬に、ナカメは僅かに罪悪感を抱いた。
「こっちが例のナカメだよ」
萬に、ぺこりと頭を下げる。
「ほう。普通の人間に見えるが、これが不死身なのか」
萬の、薄雲のような青い目がナカメをじっと見た。その威圧だけで、ナカメが思わず息を止める。
「あんまり怖がらせないでくれる? これでもうちのルーキーなんだからさ」
「ふんっ。玄月の事情など知らぬ……それで、このもやしをどれくらいの間、ここに置けばいいのじゃ?」
それが、私と玄月様が東京から萬家まで、遠路はるばる訪れた理由だった。
帝の御前で、私が不死身の存在であることは、黎明二十家に知れ渡った。四十九家中に知られてしまうのも、時間の問題だろう。そんな中東京に置いておけば、いつどんな刺客に狙われるかもわからない。
そんな理由から、東京にはデジ子ひとりを残して、私と玄月様は避難していた。その先が、この萬さんの家。
萬家は、西の護法二十五家の中でも、特別玄月様と親交があるらしい。そう聞いていたが、想像していた親交とはだいぶ形が違う気がする。
「ひと月くらいだね。それともうひとつ、萬にお願いがあるんだ」
「なんだ。お主が余に申し入れをふたつも寄越すなど、本当に珍しいの」
「ナカメに稽古をつけてほしいんだ」
「稽古じゃと? ………………ガッハッハ!」
萬が大口を開けて笑い声をあげる。それだけで、大地が割れるようだった。
「玄月。やはりお主は面白いわ。余が人間に稽古をつけるだと!? 笑わせてくれる」
萬の青い目が、じっと細まる。それは玄月を試すような視線だった。
「もちろんタダでとは言わないよ。知っての通りナカメは不死だ。つまり、何回殺しても生き返る。殺してしまっても構わない人間との無限の真剣勝負。君のように長く生きている玉であっても、そうできるものじゃないだろう」
「殺してしまってもよいのか? それは面白そうじゃな」
「真剣勝負って、戦うんですか!? 萬さんと!?」
冗談じゃない。数メートル先に立っているだけでも、息をすることすらままならないというのに、戦えというのか。こんな怪物と。
「強くなりたいんだろ? だったら、私の命令にはすべて従うんだ。弱いやつは玄月にいらないからね」
月光に照らされた玄月の横顔には、微笑みとも嘲笑ともつかない、薄い笑み。
その真意を測る術もなく。それでも、ナカメの答えは、ひとつしか許されていなかった。
「…………わかりました」
気がつけば、天神の屋台もとんこつラーメンも遥か遠く。
こうしてナカメは、修羅の国へ足を踏み入れたのだった。
** *
――福岡県、某所。
山を越えた先。稜線のぶつかる谷間に、ひっそりとひとつの祠が鎮座していた。
祠へと続く細い山道を、二人の男が提灯片手に登っていた。
「なあ、こんな見張り、ほんまに毎晩いるとや?何十年も封じとるっちゃけん、妖狐か何か知らんが今更暴れ出すわけなかろうが」
巨大な鳥居は、月明かりを受けて赤黒く輝き、石畳には湿った夜気がまとわりつく。
両脇には獣と鬼の彫像がずらりと並び、今にも動き出しそうな生々しさを漂わせていた。
「なんべん来ても、気味悪かとこやな。化けもんでも祀っとるっちゃなかと?」
「さっさと見回り済ませて、帰って酒でもひっかけようや」
軽口を言いながらも、祠が近づくにつれ、二人の声は尻すぼみになっていった。
妙に寒い。首筋に張り付くような冷気。腐りかけた獣と鉄の臭いが、鼻を刺した。
耳鳴りのように、遠くから鈴の音がかすかに聞こえる。
「おえっ……なんやこの臭い……」
片方の男が、服の袖で鼻をおさえて顔をしかめる。
「お、おい……あれ、見張りの連中じゃなか、と……」
そこにあったのは、交代するはずだった見張りたち。その、亡骸だった。
祠の下で、まるで貢ぎ物のように転がる肉。月明かりの下で、絨毯のように広がる血溜まり。
無惨な屍の後ろでは、閉ざされていたはずの石の扉が、ぽかりと口を開けていた。
「ひっ……ひぃぃっ……!?」
「な、なな、なんやあれ!化け物っ」
「そ、そげん馬鹿な……封印は……封印は解けとらんやったろうがぁ!」
逃げようとして、足がもつれる。
「に、逃げろっ……俺たちまで、食われるっ!」
恐怖で腰を抜かす二人に、背後から生暖かい息がかかった。
生臭い、泥のような獣の吐息。
「お、おい、後ろっ…………」
恐る恐る、振り向く。震えた手で、提灯を向けた先。
そこには、月光に銀色の毛並みを輝かせる巨大な影。九本の尾をゆらりと揺らし、爛々と光る黄金の双眸。
薄い笑みを湛えた口元には、血の滴るもの。先ほど死んでいた見張りの腕が、歯の隙間からぶら下がっていた。
悲鳴の轟く夜の森。ほんの数分前に男たちの登って行った石畳には、ふたつの影があった。
「流転する万物からも外れた、歪な子。私の目から隠れていたその存在にも、もうすぐ手が届く」
水色の髪。藤色の布に顔を隠した女が、遠い三日月に手を伸ばした。
「まだ手は出すなよ。幕は開いたばかりだ。舞台は苦悶も悦楽も喰らい尽くしてこそ、価値がある。あとひと月も待てば、私の肉も骨も。この体に馴染むだろう」
そのそばで。もう一人の女が跪いていた。身に纏った軍服の金具には、黒く光る、波のような家紋。
「――――――承知しました、蟒蛇様」




