13.蟒蛇
他の玉や依代たちも、一斉にひれ伏している。やがて、ゆらりと白い布をまとった影が現れた。顔は深い帳に隠されて見えない。それでも袖口からのぞく手足は、驚くほどに細く、幼い。
まるで子供のような華奢な身体。だが、ただの子供ではないことは、ナカメも理解していた。
「──随分と、騒がしかったようだな」
帝様。そう呼ばれる者の声は、老婆にも幼子にも聞こえた。
「玄月、何があった」
囁くようでいて、その声は部屋の隅々まで届く。空気のわずかな揺らぎさえ許さぬ、凛とした響き。
「少しばかり、いさかいがございました」
玄月が、ひれ伏したまま答えた。
「愚か者どもが」
音もなく吐かれた叱責に、空気が張り詰める。
「お前たちは、神薙四十九家。選ばれし者。魔物や妖から、この国を護るためにここにある。己の欲に任せ、勝手な殺生をすること、決して許さぬ。殊にワダツミ。お前はわかっているな」
ワダツミが答えた。
「……心得ております」
帝はワダツミの方を一瞥すると、続けた。
「最近、この国の奥底に不穏な気配が満ち始めている。目に余る振る舞いをすることは、例え神薙であろうと許しはせぬ。汝らを召集したのは、新たな玉を生むためである。このたび、別子家の玉が、命尽きた。その後を継ぐ玉を生み出さねばならぬ。監視役には椋平家に任を託す。魔物は蟒蛇だ――以上、心得よ」
蟒蛇という魔物から、新しい玉を生む。帝は、それ以上は何も言わなかった。しんと張り詰めた空気の中、白い衣が畳をわずかに擦る音が響く。
まるで影そのものが滑るように、帝は、ゆるやかに後方の襖へと向かう。立ち去る刹那、帝が振り返った。まるでその視線は、ナカメの背中を射抜くように。視線を感じ、指先が微かに震える。床板の目が粗く感じるほど、顔を押しつける力が強まった。
――見られている。
この場にいる誰もが伏しているのに、まるで帝の目は真っ直ぐに自分だけを捉えているように感じた。 息を乱せば、命すら危うい。そんな無言の圧力が肌にまとわりつき、ナカメの心臓を締め上げる。
だが、帝は結局何も言わなかった。帝が立ち去り、奥の襖が閉められる。
「はぁ………………」
「ナカメ、大丈夫?」
「三回くらい死んだかもしれません……」
それほどの圧があった。だが、ほっと息を吐くナカメの体を、ひょいと玄月が抱えあげる。
「さぁ、さっさと撤収しよう。ここにいたら面倒だ」
「え……?」
玄月に抱えられたまま、周りを見渡す。いつの間にか、ナカメたちを取り囲んでいる玉や依代たち。その一人には、ワダツミもいて。
「不死の人間、よこさんかい!」
一斉に飛びかかる槍や斧、刀や矢。それらを避けて、玄月が飛び上がった。
「待て、玄月ぃ!」
玄月の向かう先は、一基のエレベーター。
「さっき帝様、勝手な争いはするなって言ってませんでした!?」
「あいつらが、帝の言うことちゃんと守るように見えるかい」
閉じるエレベーターの扉の隙間に、面を被った神薙の玉たちを見る。人でもなく神でもない。混ざり合い、捻じれた姿の群れ。跋扈跳梁。それはまるで、あの世とこの世の境のように。
禍々しき神威を宿す異形の宴のようだった。
* * *
──万獄牢。そこは、神薙によって捕らえた魔物たちが閉じ込められ、封印されている巨大な監獄である。
石造りの廊下は湿り気を帯び、そこかしこに水滴が落ちる音が響いていた。灯りと呼べるものはなく、遠くで揺れる青白い燐光がぼんやりと暗闇を照らしている。
「相変わらず不気味なところやわ。うちが生まれたときはもう少し綺麗やった気がするんやけど。花とか置かれてへんかったっけ?」
「ワダツミが生まれてから、もう千年以上経ちますからね。魔物の数も増えましたし、手が足りていないのでしょう」
藤色の布で顔を覆った綴が、穏やかに答えた。
「相手はあの蟒蛇、飲み込んだものをすべて自らの力にする、神薙殺しの魔物です。鵺、海坊主、百々目鬼、他になんの魔物を飲み込んでいるのか、いまだにわかっていません。油断しないでくださいね」
「わかってはります。にしても、よりにもよって蟒蛇で子づくりですか。嫌でも蟒蛇が産んだ先代の玉のこと思い出してまいますわ」
「きっと大丈夫です。私たちふたりで見守りましょう」
綴とワダツミが足を止めた先――牢の奥には、蟒蛇と呼ばれる魔物がいた。
肌は粘土のような薄緑色。しなやかな四肢は人間そのものだが、長いまつ毛に縁取られた瞳は、まるで底がないように。どこまでも黒かった。
「ようこそ、私の巣へ――神薙」
ワダツミは蟒蛇を一瞥すると、肩を竦めた。
「拍子抜けやな。もっと獣みたいなやつ想像しとったのに。ひょろひょろやないか」
「ワダツミ、離れてください。何かを仕掛けるつもりです」
綴が、何かを察したように声をかける。その瞬間だった。
蟒蛇の形が、不意に揺らめく。輪郭が歪み、色が消え、形が消え――それはまるで、白い霧。牢の格子を抜け、ワダツミへと襲いかかった。
「なんやこいつ……!?」
ワダツミは反射的に腰の剣を抜き、雷光を散らしながら十字に斬りつけた。しかし、ワダツミの刀は水を切るように蟒蛇をすり抜ける。
「お前、また何か飲み込みおったな……!」
「蜃だよ、海神。半魔どもと生きる時間が長すぎて、忘れてしまったか。あんなにありふれた魔物であっただろうに。お前たちが狩りつくす前までは」
「はあ? 親し気に呼んでくれてはりますけど、自分どちらさまでっか?」
――まずい。
顔には出さないが、ワダツミは冷静に状況を観察し、焦っていた。
腕が、肩が、白い靄のようなものに飲み込まれていく。まるで自身が、蟒蛇に呑み込まれるような感覚。
――まさか、蟒蛇はこのまま自分を吸収するつもりか。だとすれば、道はひとつ。自らが操られるのなら、自害するまで。
一瞬の間に思考を巡らせ、そう判断したワダツミ。だが、その蟒蛇の白い霊体は、予想に反してワダツミの体から引きはがされた。
「綴様、それだけはあかん!」
目の前には、藤色の布を払った綴。その下の透明な魔眼が、蟒蛇の霊体を操っていた。
「ほう、これは懐かしい魔物の力だな」
「何を企んでいるのかは知りませんが、彼女は私の依代。渡しませんよ……!」
「ならばその体を貰うまでだ」
ワダツミから引きはがされた蟒蛇の体が、綴を包み込んでいく。
綴の髪が揺れるように宙を舞い、藤色の布が風に揺れた。
「おのれ、綴様から離れんかい!」
ワダツミが咄嗟に叫び、刀を振り上げる。だが、それよりも前に。綴の口元が、静かに開いた。
「……できれば半魔ではなく、海神の体を手に入れたかったのだが……麒麟の半魔か。悪くないだろう」
綴の声ではない。波の音のように穏やかだった声に、濁った響きが混じる。
上がる口角、ゆっくりと指を動かす様子――それは、まるで綴の体を試すかのように。
「二度は言わへんで、蟒蛇」
ワダツミが剣を構え直す。だがその指先は、僅かに震えていた。その震えを、綴――蟒蛇が見下ろす。
「私の僕から聞いていた話と、随分様子が違うな、海神よ。生まれてすぐ親を食らい純血を得たという魔物が、半魔に絆されたのか?」
「何ごちゃごちゃぬかしとんねん。さっさとその汚いもの、綴様の体から抜き出せや。叩ききったる」
「この体ではやはり斬れないようだな。見事な忠誠心だ。だが、海神ともあろう魔物が半魔に付き従うとは、滑稽なものだな」
蟒蛇が、自身の入っていた牢に向かって手をかざす。すると、牢にあった薄緑色の人型は、蟒蛇の手の中へ吸い込まれていった。
「自分、何が目的なん」
「目的? そうだな……神薙狩りとでも言おうか」
「ええ度胸しとるわ。拘禁症状やったら医者紹介したるで」
苛立つように、ワダツミが刀を振るう。縦横無尽に走る青い稲妻が牢を破壊するが、蟒蛇――綴の体には、傷ひとつつかない。否、主君に傷などつけられなかった。
「純血の君にはわかるはずだ。人間など、私たち魔物から見れば、家畜のひとつに過ぎない。人間が犬を可愛がり、魚や鳥を食べるように。魔物の中には人間を愛玩動物として好む者もいれば、食べる者もいる。そこに一体、何の差があるというのだ。なにも不自然なことではないだろう。それなのに魔物は狩られ、玉などという醜悪な存在を作らされる側となった」
蟒蛇の言葉の端には、震えるような憎悪がこもり、呼応するように空気が揺れた。
「純血は汚され、牢獄に閉ざされ。同胞を狩るための半魔づくりに協力せねば自由はない。人は馬や牛と子を成さぬというのに、神に等しき魔に対する、何たる侮辱か」
それは蟒蛇の中にあった、千年もの怒りの凝縮。それを見つめるワダツミの表情は、凍てついた湖の底ように、冷たかった。
「…………おもろいこと言いはるなぁ。半魔を殺し尽くして、世界を手中に治めるっちゅうことやろ? 流れる血は数百、数千でも足りひんとちゃう?」
「海神、気高き魔物であるお前ならばわかるはずだ。私はこの世界のバランスを取り戻す。神薙の手によって狩られた魔物を呼び戻し、魔物と人間の共存する世界をつくる。混血や半魔などのいない、平和な世界を……」
そこまで言うと、蟒蛇は床に膝をついた。綴の体を守るように、咄嗟にワダツミが蟒蛇を抱える。
「海神、時間をやろう。この体に私が馴染むまで、時間が必要だ。次に私がこの麒麟の体に現れたとき、お前の返事を聞くこととする――」
蟒蛇が眠りにつくように、綴の瞼が落ちる。細い肩がかすかに上下し、静かな呼吸を繰り返した。
ワダツミが、そっと息を吐く。
「神薙狩りなぁ」
「……ワダツミ?」
意識を取り戻したらしい。起き上がった綴の声は、いつも通りだった。
「なんであんな無茶しよるん。ほんま、心臓に悪いで?」
「ワダツミ、蟒蛇はどこへ?」
「とっくに切り刻んでやりましたよ。帝に報告せな」
「そうですか。よかった……意識が失っている間、恐ろしい夢を見ました。自分の体が自分のものでなくなり、大勢の人間を殺してしまう。そんな恐ろしい夢でした」
綴の言葉に、ワダツミが一瞬言葉を詰まらせる。だが、ワダツミのそんな様子に気づくこともなく、綴は微笑んだ。
「ですが、操られるのが私なら、ワダツミは簡単に殺せるので安心ですね」
藤色の布の下。ワダツミと同じ透明な瞳から目を逸らすように、ワダツミは綴を起き上がらせた。
「買い被りすぎですわ」
蟒蛇の言った通りだと、ワダツミの心の中で迷いが渦巻く。
神薙に、椋平綴という存在がもしいなかったら。
自分は神薙を、そして人間を。どうしていたのだろうか。




