12.夜会
「斬るんやったら、もうちょい静かに斬りや。うっとぉしぃてかなわん」
細い指先が、牛鬼の太刀をゆるりと払う。たったそれだけで、太い銀の塊はバラバラと砕け散っていった。
ナカメの前を遮るようにして立つのは、深緑の軍服を着た細身の女。携えた刀の銀の留め金に、波のような家紋が輝く。
「おのれ、ワダツミっ……なぜその無礼者をかばう! ここは帝の御前。神聖な場所だ。その人間は間違いなく、ただの人間ではあるまい」
「いつまで刃向けとんねん、なぁ」
束ねられた髪が艶やかに流れる。僅かに青い毛先が、灯りの下で光を反射した。 先に怯んだのは、他の二頭の牛鬼。主である女の方を振り返る。
「宵宮様、ここは引くべき――――ッ!?」
「アンタとは話してへんのやけど」
無駄のない所作で袖を払うと、見えない刃が二頭の牛鬼の腕を断ち切った。黒髪の一筋すら乱れない。絶対の自信と、底知れない力を滲ませる背中。
この人、強い――――。
黒髪の影が振り向き、ナカメを一瞥する。
前に学校で会った時は、白い医療用の眼帯をしていたが、今は黒い布に変わっている。あれ、そういえばお面つけてない奴はやばいって、玄月様が言っていたような……。
「ひっ」
隻眼がナカメを見据える。冷たい紫色をした瞳に宿るのは慈悲ではなく、退屈さだった。
「あれ、自分どこかで会うたなぁ。あ、双天狗のときやったか。なんでこんなところにいてはるん?」
「あのっ! わ、私は玄月様の依代になる予定の者で! まだ、何も知らなくて……!」
必死に舌を動かす。玄月様の依代になる予定なんてない。だけどそう言わなければ、本当に殺されてしまいそうな、そんな殺気だった。
「あっはっは! あの玄月が依代をね。面白い話もあるもんやなぁ」
私を助けてくれた謎の人は、楽しげに笑った。助けてくれた恩人のはずなのに、その笑みには敵か味方かも測れない、妙な軽さがあった。
生きた心地のしない空気を、聞き慣れた声が割る。
「ごめーんナカメ! 変な部屋に閉じ込められた……って、なんでお前がいるんだワダツミ」
それは今、ナカメが最も聞きたかった声。
「玄月様ぁ!」
ナカメが振り返る。そこには、どこからか現れた玄月が立っていた。その姿を見るやいなや、ナカメは飼い主を見つけた犬のように、玄月の後ろに隠れる。
「どこ行ってたんですか!?」
「いや、ごめんごめん。思いっきり誰かの罠にハマってたよ」
空気を読まない玄月の笑み。ナカメは込み上げる怒りを抑えて、ワダツミの方を見る――あれ、いない?
「へぇ、ほんまに玄月の依代になるんや」
耳元で声がした。いつの間に。そんなことを考える間もなく、目の前にワダツミの顔が迫る。
「ほんなら、」
ワダツミが、片目を隠していた黒い布をずらす。そこから覗く、澄んだ水面を、そのまま閉じ込めたような瞳。 それは、どれほど見つめても底が見えない、透明な水色だった。
見つめるほどに、心がさらわれる。静謐にして、まるでこの世のものではないような色彩――。
ガクンと、ナカメの体が落ちた。
指先から冷たくなっていく。自分の時間が凍りつくような、絶対的な感覚。閉じられていく五感。この感覚を、私は知っている。
私、死んだ――――――?
「あれ、死んでもうた」
遠くでワダツミの声がした。
「玄月、君の依代弱すぎとちゃう?」
まさか、本当に死んだというのか。目を見ただけで。何をされたのかもわからなかった。
「はぁ……まったく……」
玄月が、ため息をついた。まるでこの先の未来を、予測しているように。その場に倒れていたナカメの意識が戻る。硬直していた冷たい体に、生気が蘇った。
「はぁっ、はぁっ……」
何が起きたんだ、今の一瞬で。
肩で息をするナカメに、見下ろすワダツミが口角を上げた。
「…………ふうん。おもろいなぁ」
低い声に滲む愉悦。細められた目は、獲物を愛でる蛇のように細く、けれどどこか楽しげで。
「不死身なんや、自分」
ワダツミの言葉とともに、様子を伺っていた周囲の玉や依代たちがざわめきだした。 理由はひとつ。不死身の人間の存在。その肉を封印し、奪うために。
それは当然に、面白がっているワダツミも同様で。鞘にかけられた指から、バチバチと青白い火花が迸る。
「く、玄月様ぁっ!」
「ナカメの肉を食べても不死身にはならないんじゃないかな? 人魚じゃあるまいし。まぁ、試してみたわけじゃないけど」
「余計なこと言わないでください!」
ワダツミの刀が、鞘から引き抜かれる。
――――くる。
そう思い、ナカメが玄月の後ろでぎゅっと目をつぶった時だった。
「止めなさい、ワダツミ!」
ぴしゃりと、怒ったような女の声が響く。静かな足音。染みひとつない白足袋。漂う、沈丁花の香り。薄紅の裾がそっと揺れた。
「玄月様、そしてお連れの方。お騒がせして申し訳ございません」
流麗な水色の髪に、控えめな髪飾りが輝く。瞳がある場所には、隠すように藤色の布が下ろされていた。その立ち姿は無駄がなく、それでいて優美。静かな湖畔のように、穏やかな気品の女性。
「綴様、申し訳ございません」
荒々しい気を放っていたのが嘘のように、ワダツミが膝をついて頭を下げる。跪くワダツミは、まるで忠実な犬のようだった。
「ワダツミ。玄月様を困らせてはいけませんよ」
柔らかくも、決して折れない声音が、室内のざわめきを静めていく。
「人間のお方、私は椋平家八代目の玉、綴と申します。彼女は私の依代、ワダツミ。些か手荒い気質にございまして……どうかお許しください」
ナカメの中に、小さな衝撃が入った。あれほど強いワダツミは、てっきり玉だとばかり思っていた。だが、ワダツミは依代であり、その玉が目の前に立つ綴。それなのに、この綴という女性には、ワダツミのような圧は感じない。普通の人間のようにすら見える。
「いやぁ、悪いのは全部そこのワダツミですから。そんなことより綴さん、お久しぶりですね」
「様をつけて呼ばんか、どアホ!」
「刀抜いたらまた綴さんに迷惑かけちゃうよ、ワダツミ」
「綴様と呼べ言うとるやろ! 自分、わざとやな!? 表へ出ろやワレぇ!」
ワダツミが、すかさず玄月に噛みつく。玄月様とワダツミは、昔からの知り合いなのだろうか。ふたりの掛け合いはまるで、旧知の仲。そんな言葉がしっくりくるような軽さがあった。
「ワダツミ、はしゃいじゃって」
ふふっと、綴が頬を緩める。あれをはしゃいでいると言っていいのかは分からないが、ふたりを眺める綴の横顔は優しげで。見ているナカメまで、胸が温まるような心地を覚える。
こんな気持ちになったのは久しぶりだ。少なくとも、神薙の世界に飛び込んでからはまるで――。
その時、夜気を裂くように、澄んだ龍笛の音が響く。
「なに……?」
「帝様だよ。ナカメ、頭を下げて」
玄月が、床に座るようにナカメを促す。どこからともなく響く、太鼓の音。びりびりと震える空気。その音はまるで地の底から響き渡る脈動のように、深く腹に響き渡った。




