10.鶯の鳴く夜
目下に広がるのは地獄絵図。爆発に逃げ遅れた男たちが、火に巻かれているのが見えた。
やることは明確だった。火が周り、逃げ遅れた人間がいる。ただそれだけだ。
《木霊千手──神楽》
空が唸る。地を割るような重い音とともに、大地から幾重もの根がせり上がる。絡み合った無数の木の幹は、まるで生きているかのように空を掴み、形を成した。
やがて現れたのは、天を見下ろすほどの巨大な観音像。全身を覆う樹皮は年輪を刻んだように重厚で、腕が花のように無数に広がる。
「すごい……」
静かに伏せられた観音の眼差し。それはさながら、神木の守護像。ナカメを抱えたまま、デジ子がその肩に降り立つと、巨大な観音は手をつき、燃え盛る工場地帯へ顔を寄せた。
静かに開かれた口から、山奥の風穴から吹き下ろすような、重く湿った息が工場の炎へ吹き抜ける。吐き出された息は濃密な翠の香りをまとい。轟々と燃え盛っていた炎が、吹き飛ばされていった。
「……なんか、デジ子の技って豪快だね」
「火が消えれば、何でもいいじゃないですか」
言い終わる前に、デジ子の体が斜めに倒れた。
「デジ子っ!?」
同時に、顕現していた観音像もバラバラと崩れ始める。
「今日は少し……力を使いすぎました…………」
ナカメは倒れるデジ子の体を抱えると、海へと沈んでいく観音像から飛び降りた。そして、コンテナの影へデジ子を休ませる。
火災のあとの工場は、静まり返っていた。黒く煤けたパイプや鉄骨。その向こうに倒れ伏す人影。それは、繭に撃たれた砂淵鶯。
「鶯…………」
倒れる鶯には、すでに息はなく。その姿はもとの人間らしい形を取り戻している。
砂淵夜行を、最後まで慕っていた依代。せめてもの手向けにと、血で張り付いた前髪へ、ナカメが手を伸ばしたときだった。
「不死の肉! 寄越セえええええッ!」
突然、ナカメのすぐ真横に現れる頭部。頬を這う鱗は濡れた刃のように黒く、ぬめる黄金の双眼が目の前いっぱいに迫った。
「夜行っ……!?」
躱そうとするが、間に合わない。鋭く尖った爪が、ナカメの首を掴むように襲いかかる。だが、夜行の爪はナカメに届くことはなく。飛んできた赤黒い槍によって、串刺しにされた。
「見てるだけなんじゃなかったの?」
「玄月様!」
コンテナから飛び降りるように現れた玄月は、満身創痍のナカメとデジ子の姿に、口もとを緩ませた。
「二人とも、よくやったね」
「鶯が……砂淵鶯が、人間に銃で撃たれて……」
「ナカメは敵の心配をしているのか?」
玄月が、呆れたように眉を下げる。そんな玄月の足元を、夜行の上半身がずるずると這った。
「うぐ、いす……ああ、あたしの鶯…………」
夜行が、鶯の亡骸に覆い被さる。その姿はまるで、愛する人の死を悼むように。
「鶯、鶯っ…………」
声にならない呼びかけは、喉から漏れるような、かすかな音だった。
夜行が、震える指先で鶯の頬をなぞる。そして、かきむしるように鶯の身体を抱き寄せた。
「あたしが……っ、あたしが……こんな……っ!」
血と土にまみれた鶯の身体に、夜行が頬を擦り寄せる。密告者の存在。人間たちの反逆の足音。そして、迫る神薙。鶯は、夜行に隠れて魔物の肉を食らったのだった。全ては夜行のため。そんな鶯の覚悟を引き止めることなど、夜行にできるはずもなかった。
「鶯……あたしの鶯……本当は強さなど、最初からいらなかった……お前を依代になんて、してやらなければ……お前と人間として出会えていたら、ふたりだけで、生きられていたら……」
涙を落としながら、夜行の体が少しずつ崩れていく。夜に溶けるように消える、二人の体。それでも最後まで、鶯を抱き寄せる腕は離れなかった。
玉と依代の最後。その姿を見下ろしながら。ナカメが呟く。
「玄月様。依代って、何なんですか」
「さぁ……何だろうね」
長い夜が終わる。夜の闇に溶け込んでいた工場のシルエットが、ぼんやりと輪郭を現した。
遠くの空が染まり、夜と朝の境界が滲む。照らし出されるのは、焼け焦げた地面と、崩れた足場。そして、血を吸い込んだアスファルト。
夜明けが、すべてを無情に晒す。ナカメたちに、新しい朝が静かに訪れようとしていた。




