もしよかったら
「家を借りるのも、お金がかかるの。このあたりだと安くても四万円はするし、例えば都内なら倍かかるわ。さらに、大学の入学金に授業料。国立に入れたらいいけど、私立だとべらぼうに高いわよ。それこそ何千万円っていうレベルで。どうするつもりなのかしら? そもそも、あなた保証人すらいないじゃない」
「……それは、」
アルバイトを掛け持ちして、奨学金を借りれば、やっていけないことはないと思っていた。そう答えれば、すぐさま「過労で死ぬわよ、いくらなんでも」と呆れた返事が返ってくる。
そして保証人に関しては、何も言えなかった。洋子さんがなってくれたらありがたいなあと思っていたのだけど、甘い考えだったんだろう。
よく考えたら当たり前だ。洋子さんは修行の受け入れということでわたしを預かっているだけなのだから。わたしが勝手に魚心亭に思い入れを持っていたとしても、洋子さんからすれば、修行が終われば他人なのだし。そもそもそういう関係なのに、わたしは勝手に何を期待してしまっていたんだろう――。
自分が恥ずかしくなり、思わず下を向く。
「怒っているわけじゃないの。むしろ逆というか――。あのね、アンジュちゃん」
「はい……」
次に続く言葉に、ぎゅっと身を固くして身構える。大好きな洋子さんに嫌われてしまったら、わたしは立ち直れるかわからない。
「もしよかったらなんだけど。この先日本で暮らしていくのなら、わたしの養子にならない?」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、そこにはいつもの優しい表情をした洋子さんがいた。
「あなたが来るまで、わたしって本当に孤独だったの。お店を潰さないように、毎日そればかり考えていて。実は治郎ちゃんとも言い合いなんかしてたりして、上手くいってなかったの。毎日が戦争みたいだった」
「治郎さんと言い合い……」
今の温厚な二人からは、全く想像のつかない姿だ。そんな時代があったことに、驚きを隠せない。
「そう。そこにね、アンジュちゃんが来たの。面倒を見る余裕なんてないって不安だったんだけど。あなたって、一人でなんでもしちゃうでしょ? 人との関わりも最小限だし。手のかからない子で助かったわ、なんて思っていたのが最初」
当時を懐かしむように、微笑む洋子さん。自分としては、とにかく迷惑をかけないように、怒られないように、そんな気持ちで毎日いたことを思い出す。虐げられていたときの癖で、とにかく顔色ばかりうかがっていたのだ。
「アンジュちゃんがよく働いてくれるおかげで、そのうち店に余裕が出てきたの。それがよかったわね。治郎ちゃんともアンジュちゃんとも、対話する時間が作れるようになったもの。それからの日々は、ずいぶん楽しくやってこれたわ。お店もだし、あなたの成長を近くで見られることも嬉しくて。なんだか、娘がいたらこんな感じなのかしら、なんて思うこともあったわ。――ごめんなさいね。わたしみたいなおばさんに娘って言われて困るわよね」
「いえ……すごく、すごく嬉しいです」
娘――。もう二度と、その言葉が自分に使われることはないだろうと思っていた。まさか洋子さんの口から、その言葉を聞けるなんて――。
胸と目に、熱いものがこみ上げる。
「一人じゃないっていうことが、こんなにも心強いなんてね。だから、修行終えてあなたが帰るんだっていうことが、心の中ではすごく寂しかったのよ」
そう言う洋子さんの目元に光るものを見つけて、わたしの涙腺はあっけなく崩壊した。熱いものが、頬をつたう感覚がする。
「それで。あなたさえよかったら、一人暮らしなんて言わずにここに住んでいいのよ。家族になるんだから、家賃もいらないわ。大学のお金は――そうね。わたしに考えがあるから、ちょっと時間をくれるかしら。全額は無理かもしれないけど、多少は援助できると思うの」
涙でぐずぐずになった顔をぬぐいながら、わたしは急いで返事をする。「冗談よ」と言われる前に、この信じられないぐらいの幸せをつかみ取りたかった。
「よ、洋子さんの養子にしてくださいっ!」
「本当!? ありがとう! ふふっ。アンジュちゃんたら、可愛いお顔がひどいことになってるわよ」
手渡されたハンカチで、ごしごしと目と鼻を拭く。果たしてこれは現実なんだろうか? 夢ならば、永遠に覚めないでほしい。
「修行が無事に終わってこちらに戻ってきたら、急いで縁組の手続きをしましょう。それで平気かしら?」
「はいっ……!」
「じゃ、食事の続きをしましょう。お刺身は新鮮なうちに食べないとね」
そう笑って、洋子さんは刺身に箸を伸ばす。その目元は赤い。
今日の刺身は、治郎さんが釣ってきた金目鯛。地元で地金目鯛と呼ばれる超高級魚だ。店で出すには量が少ないので、夕食に並ぶことになったものだ。
大皿に、円を描くように乗った桜色の刺身。すごく貴重で豪華なものなのだけど――今のわたしは幸福感で胸がいっぱいで、ちっとも入りそうにないのだった。




