失うものは何もないでしょう?
六月。
江の島には青や紫の紫陽花が咲き乱れ、雨に濡れる緑が瑞々しい季節を迎えていた。
いつものようにお店の手伝いを終えて部屋に戻ったものの、外は大雨。箒作りも魔法の練習も難しそうなので、部屋で過ごしている。
「真珠。わたしって、魔女になれると思う?」
窓辺に頬杖をついて外を眺めている真珠。窓辺は彼のお気に入りで、よくそこから外を眺めている。その絵画のような姿も、もう見慣れてきた。真珠はゆっくりとこちらに目線を移して答える。
「そりゃ、なれるさ。もともとの魔力がすごく強いし、練習も真面目にしてるからね。たぶん普通の魔女よりも魔法が上手だと思うよ、今のアンジュ様は。もっと頑張れば、大魔法使いにだってなれるんじゃないかな」
「そう、なんだ……」
大魔法使いというのは、偉大な魔女に贈られる称号。世界に数人しかいないという大魔法使いは全ての魔女の憧れであり、ソルシエールや魔法がある国においては、絶大な影響力を持つ存在だ。
普通の魔女なら、耳にしただけで心躍る言葉だけれど。
「あんまり嬉しくなさそうだね? 魔力があるってわかったときは、これで魔女になれるって言ってすごく笑顔だったのに」
「うーん、そうだね……」
「曖昧な返事だなあ」
クリスマスの日に、この先のことをゆっくり考えると決めて、そして先日風丸くんの夢を聞いてから。自分の将来について向き合おうと決めたのだけど、どうにもやっぱり考えがまとまらない。
だから今日は、満を持して真珠の意見を聞いてみることにした。生まれたときから一緒にいる彼は、いわばきょうだいのような存在。どんな意見を持っているのか気になってもいた。
「真珠はわたしの将来について、なにか思っていることはある?」
「ん~」
顎に手を当てて少し考えたのち。きらりと光る青い瞳で彼はわたしを見た。
「僕の意見はないけどさ。ご主人様がどうあろうと、その幸せを祈る。それが僕たち祝福の石の存在意義だから。でもまあ、その前提で言うとすれば――」
「うん」
「アンジュ様は、背中を押してもらいたいように見えるね」
「……背中」
「そう。どうしたいか、気持ちは分かっているんじゃない? ただ踏み出す決意が固まらないだけで」
驚くわたしに、真珠は続ける。
「今の毎日がずっと続いたらいいのに。アンジュ様はそう思ってる。だけど、自分は魔女だから国に帰るべきだ、あるいは、魔女という道を放棄していいのか。突き詰めると、自分が幸せになってもいいのか。そんなことを考えて悩んでる」
――真珠の言葉は、わたしの心の中、まさしくそのままだった。
どう考えても今が人生で一番幸せなのだから、いつしかそう思うようになったのは、ごく自然なことだった。
優しく親切な洋子さんに治郎さん。そして、ずっと仲良くしてくれている小桃ちゃん。可愛いしめじもいるし、すごく環境に恵まれている。
外に出てもわたしに石を投げる人はおらず、特段好まれはしていないが、嫌われもしていない。目立たないただの人間として、世界に溶け込むことができている。まさに地に足がついた平穏な毎日だ。
だけど、ソルシエールに帰ったらどうだろう? 魔力を使えるようになったと言ったら、家族はどういう反応をするだろうか? 魔力が使えないと分かった日に百八十度態度を変えたひとたちだ。もしかしたら、また態度を変えて、家族として迎え入れてくれるようになるのかもしれない。
しかし、虐げられた日々を思うと、それは全く嬉しくない。あのひとたちともう一度家族になりたいかと問われれば、答えは否だ。更に、実家と魚心亭どちらにいたいかと問われたなら、何の迷いもなく魚心亭と答える。
そうやって、ほとんど気持ちは固まっている一方で。自分なんかが幸せになっていいのだろうか、そういう気持ちもある。ただそれは、魔法を使えるようになり、自分の価値を見つけられるようになってからは、幾分かましになっている。
――そう思うと。真珠との日々は、単なる魔法の練習以外にも、さまざまなものを得ていたのだなと思う。
とにかく――なにもかも真珠の言う通りだ。わたしの気持ちはもう決まっている。ずるいわたしは、誰かに背中を押してほしかったのかもしれない。
「さすがね。全部真珠の言う通り」
祝福の石が、彼で本当によかった。彼がいなかったら、わたしはこうして悩むことすらできなかった。
ありがとう、と付け加えると、彼は綺麗に微笑んだ。
「まあ、だてに十七年一緒にいないからね。――でもアンジュ様、やっぱり風丸とかいうのも気になるんでしょ?」
「風丸くんね」
真珠はまだ彼に対して心を開いていない。何回か「友達になったら? いい人だよ」と言っても、ふんと鼻を鳴らすだけなのだ。クリスマス以降何度か真珠と風丸くんは対面しているけど、そのたびに失礼な態度をとるのではらはらしてしまう。
呼び方にきちんと釘を刺してから、話を戻す。
「それは……そうね。ここ数か月考えていて、分かったことが一つだけあるの。正直、恋愛感情があるかどうかはまだ分からない。でも、わたしが幸せに思う日常には、風丸くんがいるなあって」
そう気づいたのは、彼が魚心亭に出入りするようになってから。洋子さんと治郎さんと打ち解けて、楽しげに話す様子を見て、この輪の中にずっといたい――そう強く感じた。
そして学校の図書室で一緒に過ごす、静かなひととき。それもいつからか、ささやかな楽しみになっていることに気づいている。
――この悩みも、風丸くんに相談してみてもよかったのかもしれない。きっと彼は、真剣に話を聞いてくれると思うから。
「僕はね、アンジュ様がどんな決断をしようとも付いていくよ。いつでも味方だから、やりたいようになってみたらいい。考えてみてよアンジュ様。アンジュ様に失うものは何もないでしょう?」
その言葉にはっとする。
そうだ。わたしは元々なにもない――すべてを取り上げられ、ちいさな薄暗い倉庫に閉じ込められていた、ちっぽけな子どもだった。
家族と呼べるひとも、恩を返すべきひとも、祖国にはいない。どこに義理に感じる必要があったんだろう?
元から何も持っていないのだから、臆病になる理由は一つもなかった。
真珠の言葉は優しい針となって、わたしの心にぷつりと穴を開けた。すうっと心地よく霧が晴れていく。
「真珠、ありがとう! わたし、決心がついたわ!」
久方ぶりに感じるのびのびとした気持ちで、真珠にお礼を言う。彼は目を細めて綺麗に微笑んだ。
「どういたしまして。あーあ、次に風丸とかいうのに会ったら、百回くらいお礼を言ってほしいぐらいだな」
「何言ってるのよ。それと、風丸くんだから」
「雨が強いなあ。アンジュ様の声が聞こえない」
「もうっ」
外はいまだに大雨で、時折強風で窓ががたがた揺れている。しかし、わたしの心は雲一つない青天のようだった。




