絶好のお出かけ日和、ってやつかしら
一晩明けた朝。ご飯をいただきながら、さっそく洋子さんに休みを申し出る。
「休み? もちろんよ。このまま休まないようだったら三十一日をお休みにするつもりだったから、アンジュちゃんから言ってくれて嬉しいわ」
「ありがとうございます」
今日も今日とて快晴の江の島。台所の窓からは眩しい光が差し込み、ここは屋外かと錯覚するほどに、蝉の鳴き声が近い。扇風機がぬるい空気を必死で掻き回す中、洋子さんは爽やかに微笑む。
「いつがいいのかしら?」
「いつでも大丈夫です」
「じゃあ、さっそく明日休みなさいな」
「すみません。ありがとうございます」
今朝のお味噌汁は、豆腐とわかめだ。ここ湘南エリアはしらすが有名だけど、実はわかめも「鎌倉わかめ」と言って良いものが取れる。むしろ、洋子さんの話だと、地元の人たちはしらすよりわかめの方を楽しみにしているのだとか。
鎌倉わかめは身がしっかりしていて張りがあり、色もみずみずしい緑をしている。ひょいと箸ですくい、また一口口元へと運ぶ。うん。コリコリして滑らかで、すごく美味しい。
「ちなみに何をする予定なのかしら? ああ、言いたくなければ答えなくていいわ」
リズムよく納豆をかき混ぜながら、洋子さんが言う。
「動物園に行こうと思ってます」
「動物園。……風丸くんと?」
「ぶっ! かっ、風丸くん? どうしてここで彼が――」
舌の上で転がしていたお味噌汁を吹き出しそうになる。慌ててポケットからハンカチを引っ張り出して口元を抑える。
その様子を見て、洋子さんは面白そうに笑った。
「あら。違うの? 大丈夫よ。この前も話した通り、アンジュちゃんに嫌なことをしていた子たちにはしかるべき処分をしてもらったから。かなり懲りているっていう話だから、安心なさいな」
「本当に違いますから……!!」
ごしごしと唇をぬぐいながら返事をする。なぜ彼の名前が出てくるのか? 風丸くんとは鎌倉以来連絡を取っていないし――というか、そもそも連絡先を知らないし。鈴木さんたちの行動とは関係なしに、わたしが彼とどうこうすることはあり得ない。
「まあ、いいわ。楽しんでいらっしゃい。熱中症には気を付けるのよ」
「はい」
暑さのせいか、のぼせそうだ。残っているご飯を掻き込み、わたしは逃げるように台所を後にした。
◇
翌朝。
カーテンと窓を開けると、青く凪いだ海が視界に広がる。そして、熱気とともに鋭いくらいの日差しが部屋に入ってきた。
「絶好のお出かけ日和、ってやつかしら」
「外に出た瞬間に干からびそう、の間違いじゃない?」
後ろからひょいと顔を出した真珠が、外気に触れた途端ものすごく嫌そうな声を出す。
「わたしはまだ大丈夫だけど……。真珠は水属性、とでも言うのかしら? 暑いの苦手よね」
「そうだね。僕は冷たいところが好きだよ」
気だるそうにそう言う彼だけど、見た目は実に爽やかだ。真っ白な肌は汗一つかいていないし、美しい髪は常にさらさらしている。それはどんな炎天下だろうと熱帯夜だろうと変わらなくて、暑さなんて関係ないような姿なのだ。けれど、彼は暑いのが苦手だと言う。真珠という海で採れる宝石の性質なんだろうか。
「大丈夫? 動物園に着くころには、もっと暑いと思うけど」
「がんばるよ~」
間延びした返事をする真珠。まあ、彼の原動力はわたしの魔力だから大丈夫だろう。扇風機の前から動かなくなった真珠を横目に見ながら、身支度を整える。
動きやすいティーシャツとデニムのズボン。飛行で荷物が落ちないように、リュックにしよう。お財布と、帽子と、タオルと、あとは――そうそう、スマホね。
「――はい、お待たせ。出発しましょう」
「はーい。で、どこの動物園に行くの?」
のろのろと真珠は立ち上がる。
わたしは彼の顔の前に、スマホの画面を差し出した。
「ここ。富士サファリ公園ってところ。一時間もしないで着くと思うわ」
「へぇ。どうしてここにしたの?」
彼の視線は、トップページに映るライオンにくぎ付けだ。
「ジャングルバスっていうのに乗って、動物のすぐ近くまで行けるらしいの。まるでサファリのような体験ができるんだって」
「へえ。人間はすごいことを思いつくね……」
「本当にね。ソルシエールでは魔獣を飼って観賞するだなんて、考えられないことだもの。――じゃ、行きましょう」
その言葉で、真珠は窓から身を乗り出す。最初にしたように、わたしを抱えて飛び出すようなことはもうしない。
彼が庭に向かって白くて長い腕を差し出すと、音もなく――しかし勢いよく、物置小屋の扉が開く。中からこちらに向かって勢いよく飛び出す箒。それに向かってタイミングよく窓から飛び移る。
運動神経のないわたしは、この乗り方が最初怖かった。でも、すごいもので少しずれたところに飛び出してしまっても、箒のほうが動いて調整してくれるのだ。魔力ってすごい。もう安心して乗ることができる。
箒につけたスマホホルダーに、スマホをセットする。本来は自転車用の商品なんだけど、長さ調整ができるため箒にも使える。
ポジションは、いつも通りわたしが前で、真珠がうしろ。富士サファリ公園まで地図アプリを設定して、わたしたちは箒を走らせた。
◇
相模湾の沿岸から箱根の上空へ入るコースで目的地へと向かう。
地上にいる人々に見つからないように、雲の下ぎりぎりを飛行する。明るい時間帯に飛ぶのは初めてだから、景色の移り変わりから目が離せない。
陸地に入って少し経つと、箱根の緑美しい山々の中に池のようなものが見えた。
「あ! あれが芦ノ湖かしら!? ねえ真珠、芦ノ湖では海賊船に乗れるらしいの! テレビで見たことがあるわ」
「海賊船……。ああ、あれか。きらびやかなのが見えるね。でもさ、あんな見た目じゃあ、本当の海では目立ってしょうがないよね。ほんと、人間って面白い」
真珠は魔力の化身だからか、とんでもなく目がいい。というより、目どころかすべての感覚がとても優れている。彼の目にははっきりと豪華な海賊船が見えているようだ。
「まあ……そうね。海賊船が豪華だと、船を襲う前に逃げられちゃうわよね。ふふっ、確かに可笑しいわ」
修行に来てから一年半。良いことなのか悪いことなのか分からないけど、わたしの感覚はかなり人間界に寄っている。だから、真珠の感覚は懐かしくも新鮮だった。
彼と他愛もない話をしていると、地図アプリが目的地周辺だとアナウンスする。
「南側の森に着陸して、そこからは歩きましょう」
「分かった」
箒の柄を下に傾けると、ぐんぐん地面が近づく。誰かに見られないよう細心の注意を払って、わたしたちは無事森の中に着陸する。
そして茂みに箒を隠し、サファリ公園を目指して出発したのだった。




