しゃざい
14年前のあの日のことは、鮮明に覚えている。
死にかけていた痛みと、役に立たない視覚のせいで穴だらけではあるが、記憶し聞いたことだけはきっちり、覚えている。
ユウロンの身代わりに、毒矢を受け堀に落ちたことではない、私の女神と出会った瞬間のことだ。唯一誰にも侵されない、私だけの大切な宝物であるシーフーとなった日の事を、私は生涯忘れない。
目覚めた時、彼女は私を「シーフー」と呼んでいた。訳が分からなかったが、どうやら、私が眠りながら度々口にしていたらしい。
名前が分からなかったからそう呼ぶことにしたの、と言って無邪気に笑った彼女に、何故か私は涙が止まらなかった。
偽善を掲げるでも無く、利用するでもなく、ただ私を助けたいから助けてくれたこの神のような小さな少女に、今までの全てが救われた気がした。
自分という存在を一度だって認めて貰えなかった哀れな自分がようやく、許されたのだと思った。
なんの価値も無い生きているだけの屍でなく、誰かの代わりでなく、死ぬ為に育てられた家畜でなく。
初めて私だけの“名前”を貰った。
私は実際にはシーフーでは無いし、というか何者でも無いけれど、彼女がそう呼ぶのならそれで充分だ。
この人の為に生きよう。
この人の傍に一生居れるような人間になろう。
あの日そう誓った。
それを忘れない為に何度も何度もあの日を反芻し、フェリル様の笑顔をこの目で確かめ、障害を除き、健やかに過ごせるよう勤める。それが私の仕事で私の生きがいだ。
「……ってのに……ふざけるな」
主不在の部屋。
主がこの部屋に帰って来ようとも帰らずとも、毎日私が掃除をし整える、私とフェリル様の聖域。
フェリル様がまだ幼い頃、帰ってこない奥様と、屋敷にいるせいでなかなか会えない旦那様を恋しがって泣いていたのが哀れで、彼女に作った人形を握りしめる。
まだ慣れない裁縫技術でどうにか縫い上げた、この犬とも熊ともつかない微妙な顔かたちの人形を、フェリル様は大層大事にしてくれた。
ティムと名付け、いつも抱きしめて眠っていた日々が懐かしい。
自分で与えたくせに、じきにこの不格好な人形にさえ嫉妬しだした自分の醜い心に絶望したっけか。
ギリギリと、握りしめる手に合わせ、随分へたった綿が偏り、目の位置に歪に付けられたボタンが弾けんばかりに盛り上がる。
「なんだ、この状況は。意味がわからない。何故こんなことになってるんだ」
感情のままにそれを叩きつけ、顔にかかる鬱陶しい黒髪をかきあげた。
無意識にギリギリとすり減りそうにかち合う奥歯に気が付き、息を吸って、目を閉じる。
ーーーダメだ、冷静になれ。
居場所は分かっている。
この屋敷についてすぐ、城からの使いが来て言った。
「フェリル嬢は暫くの間城でお過ごしになる」と。
訳が分からない。
戯言を言うそいつを切り刻まなかった事を褒めて欲しい。
……まあ、いつかのようにトラブルに巻き込まれていないだけ良いと見るか、しかし恐らく連れていったのはあの忌々しい無能。
ただの甘ったれのヘタレだと油断していたが、まさかフェリル様を連れていくとは。無能とはいえ小石程度の要らぬ勇気くらいは持ち合わせていたらしい。
…………早く、取り戻さなければ。
近頃のフェリル様はおかしい。人間たちのくだらない情に絆されて流されている。
こんなはずではなかった。フェリル様は人にも王都にも興味が無いはずで、森で生きるのを至上の喜びとしているはずだった。私の全てがフェリル様であるように、彼女の全ては森にあるはずだった。
それなのに……おかしい、おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。
どこまでも厄介なあのシュウ・ジェンシーが迷い込み、旦那様がどうしてもと聞かないから譲歩してやったのが全て間違いだった。
あの方は何人も手の届かない森で心穏やかに、美しい心のまま生をまっとうするべきなのだ。
どうする。
どうするべきだ、変わってしまった心や考えは容易には変えられない。
あんなに素直に私の言うことを聞き、なんの疑いもなく私の言う通りに動いてくれていたのに……。面倒なことになった。
どうすれば森に連れ帰れる?
どうすれば、出来てしまった王族共との絆を断ち切ることができる?
「……こうなったら」
「こうなったら、何かしら?」
「シーフー。お前姉さんに一体何をしたんだい」
瞬間、表情をするんと削ぎ落とし、いつもの執事の顔を繕って振り返る。
「ネリー様、メディ様。何のことでしょう?」
髪の色も瞳の色もまるっきり違うが、どことなくフェリル様との血の繋がりを感じる顔立ち。ネリー様に至っては最近声も少し似てきている。そんな所にすら嫉妬する私は大概頭がおかしいのだろう。
「……シーフー、私たちは貴方のこと、変態だ腹黒だとは思ってはいるけれど、お姉様に対して異常ってだけで、別に嫌っているわけではないわ」
「勿体ないお言葉でございます。ネリー様」
「そうそう。だから僕も、お前が姉さんの着なくなった服をどこかに持っていくのも、姉さんをブラッシングしたあとの櫛から抜けた髪を大切に集めているのも、姉さんの寝顔を何時間も眺めているのも内緒にしてあげてたんだ」
「え!? 嘘でしょ! 気持ち悪っ」
「……盗み見とは趣味が悪いですね。メディ様」
……この双子もあの奥様とあの旦那様の子だけあって、色々な面でかすかに常人離れしているとは思っていたが、まさかバレているとは。しかも私とフェリル様が屋敷にいるの事自体本当に少ないというのに、なんて目ざとい弟だ。気持ちの悪い。まさかフェリル様に邪な感情など抱いてはいないだろうな。兄妹だからと油断していたが……。
「ちょっと、その顔やめてくれる? 別にお前から姉さんを取ったりしないから。というか要らないから」
「まあ、なんて凶悪な顔。お姉様にも見せて差しあげたらいいのに」
「馬鹿ですね。あの方にこんな顔するわけが無いでしょう。私の事怖がってしまったらどうするんです」
「怖がってるわよ、もう充分。貴方その完璧すぎる笑顔怖いのよ」
「完璧なのでしたら構わないでしょう? それに、たまには少しくらい怯えた顔も見たくなるものです。フェリル様の女神のような顔立ちが引き攣り、平素ならば何も考えていないような頭で必死に考えをめぐらす様……愛らしくてたまりませんよね。男なら分かっていただけますでしょう、メディ様」
「すまない。全っ然、わかんない」
「おや…。それは残念。まあ同意されたら同意されたでどうしてやろうかと思いましたが」
「どっちなんだよ」
「あんた……本当にお姉様が居ないと性格変わるわね」
そりゃそうでしょう。
誰が己の敬愛する存在に、己の醜い部分など進んで見せたがるものか。
ゾッとするわ、と肩をさするネリー様に片眉を上げニッコリ微笑んだ。
「楽しい与太話は良いとして、何のご要件ですか?」
「本っっ当に、使用人のくせに態度がデカイったら……」
「おや、私が貴方々お二人に頭を垂れて忠誠を誓うとでも?」
「思わないけどね!」
目元を鋭くして声を荒らげたネリー様をメディ様が「今更だろう」と宥め、咳払いを落とす。
「本当に、そんなことはどうでも良くて、だ。お前を城に突き出すようお達しがあった。下に近衛騎士が控えている。もう一度聞くけどお前、一体何をした?」
「何を?」
首を傾げた私に、メディ様が旦那様によく似た瞳を細くする。
きっとあと2、3年もすれば更に旦那様に似ることだろう。
あの奇特な公爵と違いメディ様は随分まともだから、マーデリック家はこの先も安泰なのかもしれない。……まあ今はまだ考えの甘い子供だけれど。
「さあ、これと言って心当たりがありませんが……」
大仰に肩を竦めてみせると、メディ様はあからさまに苛立った顔をした。そういう所がまさしく子どもだ。旦那様はああ見えて肝心な場面では感情を表には出さない。そのくせ相手の懐に潜り込む会話と表情の作り方が上手い。隙だらけと見せかけて油断させ、相手に主導権を握らせたフリをして実はコロコロと転がすのが上手い人だ。天性の人たらしで外交上手。アホだバカだポンコツだと言われてはいるが(私に)、まあ腐っても王族なんだろうな。私みたいな凡人とは根本が違う。嫌になる、本当に。
「……シーフー。私たち本当に貴方のこと嫌いじゃないの。正直相当危険な男だとは思っているけれど、お姉様には目を覚ましてほしいけれど、でも、なにか事情があるなら、私たちが弁護するわ」
「お前は確かにいつだってやりたい放題だけれど、執事が登城を求められるなんて異常だ。それに拘束命令が出るなんて、いくらなんでも……」
拘束命令。
大方あの嘘のつけない素直なお方がペラペラとハオランの事を話してしまったのだろう。あの馬鹿な男も、よくもまああんなお粗末な計画を何も成しえていない状況でベラベラ語れたものだ。ま、そもそもそういう器ではないのだから仕方がないか。
……けれど、フェリル様の未来を守るために、ハオランの企みを利用しない手はない。
妙な因果だし、こうなってしまった以上。私が復讐に燃えるあの男の背を押してやるべきか……。
「あなた方に心配していただく日が来るとは思いませんでした」
「貴方をじゃないわ。お姉様が心配なの。……私たちよりもシーフーの方がお姉様との絆が強いじゃない」
「お前と姉さんの間に何があったのか、お前が何をしようとしてるのかは分からないけれど、僕達だって生まれた頃からいる使用人のことをちょっとは信用してるんだ」
心配、信用……ねえ。
そう思ってくれるのは有難いが、残念なことに私は目的のためなら、この家だって裏切れる。双子のことも旦那様のことも。
矮小で醜いたかが人間ごときが、沢山のものを得られるだなんてそんな思い上がったこと思っちゃいない。
私が望めるものはただ一つだけだ。
そして、その目的のためならなんだってする。
私は笑った。いつものように私らしく。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。ご迷惑はおかけしません。私はマーデリック家の執事ですから」
だから申し訳ありません。可愛い双子たち。
私が選ぶものはいつも一つだけ。マーデリック家の執事だなんて、思ったことも無い。
迷惑どころか、ハオランの企みに加担した暁には、大罪人、国賊になるだろう。
でも構わない。心も痛まない。
「フェリル様も私もすぐに戻ってまいります」
ああ、可愛いフェリル様の双子。
お前たちの血の繋がりに幾度嫉妬しただろう。
どうにか引き離さんと物理的な距離をいくらとったところで、フェリル様はお前達を溺愛し、お前達はフェリル様を慕った。
これが家族の絆なのかと反吐が出そうだった。
フェリル様は特別だ。まさしく唯一無二の存在で私の神だ。
…………神に家族など必要ない。愛情だの慈愛だの、ともすれば簡単に憎悪に転がり落ちる諸刃の剣、初めから持たずにいれば良いというのに。フェリル様はそれを手放そうとは絶対にしない。危険と隣合わせの愛憎をいつも傍においている。
だから、守らなければ。
私が、他の誰でもない、私が。フェリル様を一番理解しているのは私だし、真の意味で守りきれるのも私だけだ。
その為にこの双子も旦那様も奥様もフェリル様から離れてもらわないと。余計なことで心を騒めかせることのないように。
……申し訳ありません。可愛いフェリル様の双子。
私は目的の為なら嘘だって何だって、平気で口にできるのですよ。
いつもありがとうございます!
図シーフーが病んでてすみません…。




