「妄想トリップだってよ。」
雲一つない快晴。
朝焼けに薄く白んだ空と共にゆったりと目を覚ます飽馬の町並みを眺めながら。
小鳥の囀りを聞きながら、深呼吸とともに朝露の香りをいっぱいに吸い込みながら――。
のんびり、ゆったりと、けれど逸る気持ちを抑えながら、まだ人気のない飽馬川の土手を上流の方へと歩いて行くと、いつものようにいつもの場所でぼんやりとタバコの煙をふかして座っている幸の薄そうな男性の背中を見付けました。
そうです、あの背中はいつものハヤトさんです。
早朝、飽馬川の土手の中腹で、ハヤトさんはよくタバコを吸っています。
何故その場所でなくてはならないのかは解りませんが、必ず同じ場所に腰掛けて、空か町か川か鳥か曇を眺めています。
そのことは近隣住民の間でもそこそこ有名であり、また虚ろな目でタバコを吸うハヤトさんの姿があまりに痛々しいこともあり、近所のおばさん達からは「廃れゆく社会の犠牲者」とか「疲弊した浪人生の末路」とか「生きることに疲れたニートの成れの果て」とか「人生諦めた薬中」とか。
とにかく無いこと無いこと、酷い噂が後を絶ちません。
もっとも、ハヤトさん自身そのことを気にしている様子が無いので、私がとやかく言うことでもないのですけど。
「ハヤトさん、おはようございます。」
ここまで歩いてくる間に着崩れたパーカーや乱れた髪を整えて、満を持して私は土手の斜面を降りながらハヤトさんの背中に声を掛けました。
この瞬間、いつも緊張で喉が詰まるような気がして、声を掛ける前に必ず咳払いをしてしまいます。
「おぅ、兎白か。おはよう。」
咳払い交じりの私の挨拶に、一瞬チラッと振り返った眠たげなハヤトさんが淡々と答えます。
「今日も早いですね。」
「あぁ。大学も休み入って、いよいよ日中は暇だからな。」
そしてハヤトさんがいつも通りなので、私の緊張もすぐに解れ、この場ののほほんとした暖かな空気にすぐに慣れてしまいました。
私はハヤトさんから一人分ほど開けた所に腰をおろしました。
「今日はアルバイトですか?」
「今日は暇だ。明日もな。」
「そうですか。私もです。」
「いや、お前はいつもだろ。」
「あはは、そうでした~……。」
それから暫く、ハヤトさんが時折タバコの煙をふかすだけで、お互いに無言の時間が訪れました。
けれど不思議と居心地は悪くありません。
私は川の流れる音を聴いたり、カモが川面を泳ぐのを眺めたり、雀やカラスが飛んでいくのをぼんやりと眺めていました。
そうしてハヤトさんの傍に座っていると、私のパーカーに徐々に太陽の光が当たり始め、少しずつ暖かさを感じるようになってきました。
「今日も良い天気ですねー。」
「あぁ。」
青空を見つめて特に意味も無く私が思ったことを反射的に呟くと、いよいよ短くなってきたタバコをふかしながら、ハヤトさんはリラックスした様子でとても気持ちよさそうにボーっと呟きました。
吐き出された煙は如何にも気怠げに大気中に溶けるように散っていきます。
――それにしても、ハヤトさんはいつもタバコを吸っていますが、そんなに美味しいものなんでしょうか?
それも毎日毎日おんなじものを吸ってて、いい加減飽きないのかな?
これは、未成年である私の素朴な疑問です。
我が家では誰もタバコを吸わないので、私は吸う人の気持ちが解りません。
同じ学年の不良君達は隠れてコソコソ吸ってるみたいですが、そこに一体どんな魅力があるのか、ウェブでひっそりと小説を書いてる身として、なんとなく興味が湧きました。
もしかすると、ハイになれるとか、継続して服用すると痩せられるとか、そんな感じなんでしょうか。
ハヤトさんがスタイル良いのって、ひょっとしてタバコのおかげ?
もしそうなら、私も……試しに一回だけ吸ってみようかな……なんて、思ったりもして。
「ふふふ。」
――なんだかタバコの煙のようにモクモクと妄想が膨らんでしまいます。
***
「タバコ、興味あるなら吸ってみるか?」
「え?」
次の瞬間、まるで誘惑するように、ハヤトさんは吸いかけのタバコを私の口元へ寄せてきました。
頬を優しくそっと撫でるように、私の顔にタバコの煙の如何わしい臭いが流れてきます。
「え、でもこれってハヤトさんの……。」
突然の誘惑に私は戸惑いを隠しきれませんでした。
そう、だってこれはハヤトさんが吸っていたタバコで……。
言うなれば、間接、キスなわけで……。
「なんだよ、初めてだからって緊張してるのか? サナエはウブだな。」
「そ、そんな……だって私、まだ未成年だし……。え、今サナエって……。」
え、ハヤトさん、私のこと名前で?!
「良いからほら、吸ってみろよ、サナエ? 一緒に気持ちよくなろうぜ、サ、ナ、エ?」
「あっ……ダメ……。」
――ズッキューーーーンっ。
***
「サナエ……。うふふ。ダメですよぉ~もぉ~。」
「?」
「は……。ぁ……。」
――いっけな〜い。
私としたことが、あろうことかハヤトさんの前で妄想の世界に入っちゃうなんて……。
はてさて、どれくらいの時間が経ったのでしょうか。
ふと気がつくとハヤトさんが怪訝な表情でジッと私の事を凝視していました。
けど、何を聞かれたとしても私の妄想トリップの事は口が裂けても言えません。
「大丈夫か?」
「はう、なんのことでしょうか……。」
「……。」
とりあえずとっても恥ずかしいので私はハヤトさんの視線から顔を背けてしまいました。
「と、ところでハヤトさん、タバコって美味しいですか?」
「ん? さぁ、俺にもよく解らん。」
「え?」
ハヤトさんのふかしたタバコの煙を目で追いながらの一瞬、私はハヤトさんの解答の意味を考えました。
が、私の頭が悪いせいか、全然よく解りませんでした。
「えっと、よく解らないのに、おタバコ、吸ってるんですか?」
「あぁ。」
ハヤトさんはハヤトさんらしからぬ迷いのない動きでいつになくハッキリと頷きます。
その横顔を見て、私はハッとしました。
――この人、ひょっとしてお馬鹿なのかな……。
いやいや、ハヤトさんに限ってそんな筈は……でも、それじゃあ一体なんの為にタバコなんて……。
これって、大人の人なら解るの?
私が中学生だから解らないの?
もしかして不良君たちなら解るの?
それじゃあ私って不良君たち以下ってこと?
うん、きっとそうだ。
だって私、学校にすら行ってないし。
そしていよいよ私の中で疑心と暗鬼が入り乱れ、持ち帰り用ドライアイスたっぷりのアイスクリームの箱を開けた時の煙のように、気持ちにモヤモヤがモクモク立ち上り始めます。
辛いです。
辛すぎます。
やっぱりハヤトさんと私とでは生きてる世界が違うんだって、今日で解ってしまいました。
「まぁでも、仮に何もしないでこうしてボーっとしてると、周りの目とか、あとはまぁ、他にも色々あるんだわ。」
闇堕ち寸前の私をよそに、説明の最後にそっとため息をひとつ、ハヤトさんはタバコの火を地面に押し潰すと、律儀に携帯灰皿に吸い殻を入れました。
「あぁ、なるほど……。」
つまり「何もせずボーッと景色を見てるより、タバコ吸ってる方が傍から見たら人間として自然に見えるだろ」ってことでしょうか。
それはなんだか、街での様々な噂の独り歩きを思うと少しだけ納得できるだけ気がしました。
けど、そこにタバコの要素が加わったところで風評被害の大小に差は無いような気がするんですけど、これって私が間違ってるんでしょうかね。
「さてと、んじゃ帰るわ。」
「あ、はい。」
ハヤトさんはおもむろに立ち上がってグッと伸びをしました。
ハヤトさんが大きい事もあり、体育座りをしている私の位置からはTシャツの裾の隙間からハヤトさんの健康的で凛々しいお腹周りがチラリズム――したかと思うと、ハヤトさんは再びだらし無く前のめりに背を曲げてしまいました。
「ハヤトさん、明日もここにいますか?」
「いや、今夜は車でドライブ行くから、明日のこの時間は多分寝てるな。」
「ドライブ……。え、車なんて持ってたんですか?」
「なんだ、別にいいだろ。車くらい乗ってたって。」
「あ、いえ、そうですね。すみません。」
拗ねるように頭を掻いた可愛いハヤトさんに、私は色々な想いを笑顔に隠して誤魔化しました。
てっきり、ハヤトさんのテリトリーはバイト先のコンビニと飽馬川の土手のこの一区画くらいだと私は思っていたのですが、どうやらハヤトさんはもっともっと広い世界を知っていたようです。
そして――車、夜、ドライブ。
積み重なるスリーワードから、反射的に私の脳裏に過ぎったのは――。
「セラさんと行くんですか?」
飄々と、けれど無意識に口をついた私からの一言。
自分で言っておきながら、私はその一言に驚くと同時、少し胸の奥が軋むような嫌な虚しさを覚えました。
対してハヤトさんは急に疲れた顔になり、なぜだか嘲笑うように鼻を鳴らすと、再びウンザリと大きなため息を漏らしました。
「冗談だろ。あんなの連れてったら息抜きどころか逆に事故が起きる。」
ハヤトさんの呆れた様子に、なんだか嬉しいような、安心するような――。
「そうですか、それじゃあ一人ですか。」
「……。」
――私はさっきから、何を言ってるんだろう。
「あ、えっと……。」
「……。」
「そ、その、私……。」
――それなら、私も一緒に行って良いですか。
――なんて、そんな図々しいこと、私に言える筈がないのに。




