「土砂降りだってよ。」
今日墓に行くとかでさっきアキラとマサ子が出掛けて行った。
「しっかし良い天気だなー。くぅ~サッカーして~!!」
窓の外は青空全開、太陽満開。うーん、きんもちぃ~いっ!!
「――でも、これじゃ意味ねーっしょ。」
そして多分そろそろアイツらが墓に着く頃なんだな。
「せっかく良いもん持ってんのに、こんなつまんねー事で濁らせたんじゃ美味くねーからなぁ。」
故に、人知れず一仕事一仕事。
「太陽、お前邪魔。」
先ほど千石霊園に到着し、俺はいま母さんと並んで翔の墓前にいる。
穏――土ぼこりを被った黒い墓石には、そう刻まれている。
さっそく俺が汲んできた水を柄杓で掬って四角い墓石の頭から掛けると、上手く流れて行かなかった大きさのまばらな水玉が太陽の光を反射した。
黙々と、母さんが墓石をスポンジで洗う――この行為に、いつも違和感を感じていた。
それはその汚れを落とす行為が、すくなくとも「人間」の扱いじゃないからだ。
「アキラ、線香たいといて。」
「おけ。」
言われるがまま、母さんの鞄から線香を取り出す。
一束むいて、ターボライターに掛けると、着々と火が起こる。
こんな行為に、何の意味があるのか――なぜか線香の匂いが鼻を突いた時、不意に異様な虚しさを感じた。
こんな事をしたって翔はもう戻ってこないのに、俺達は何の為にこんな事をしているのだろうか。
本当にこれは、翔の為なんだろうか。
俺は一体、誰の為にここにいるのか。
そうして燃え立つ線香の火を見つめていると、やりきれない虚しさがこみあげて来た。
「俺、ちょっとトイレ行ってくる。」
「あらそう、ならついでに入り口の自販機でお茶買って来て。私の鞄にサイフ入ってるから。アンタもなんか買ってきな。」
「あぁ。」
線香の束を香炉に置いて、俺は母さんの鞄を持ってその場を離れた。
本当にトイレに行きたかったわけじゃなく、ただのうのうとそこにいる自分に耐え切れなかったのだ。
照り付ける日差しの下、入り口の自販機に向かいながら周囲を見渡す。
まるで天国のように穏やかで、そして時間が止まったように優しい空間に、それこそ争いなど知らないんじゃないかと言うほど呑気な鳥のさえずりが聞こえる。
モンシロチョウが飛んでいる。
モンキチョウも、踊るように。
繋がり、愛、ありがとう、和、絆――墓石に刻まれた様々な想いの合間を縫って、どこか楽しげに飛んでいる。
それらを見た時、心から安らかで、ホントに神聖な場所なのだと解った。
「あれ、母さん茶つったっけ。まいいか、何でも。」
霊園入り口の自販機でお茶を買った。
頼まれたのが何だったかちゃんと聞いてなかったから、とりあえず無難に茶にした。
俺はモシヤサイダーを買った。
こう熱いと、冷たい炭酸飲料が飲みたくなる。
――プシュッ。
炭酸が噴き出さないのを確認してから、一口。
――俺にとって墓参りは、ただ過去の傷を定期的に抉り起こすだけの行為だった。
翔を救えなかったこと。
俺が助けたばっかりに、母さんに罪の意識を植え付けてしまったこと。
そして自らが望んで、翔を切り捨てたという紛れもない事実。
俺にとっては、それらの罪悪感を魂に刻み直すだけの儀式。
それらは決して風化することなく、深く、深く。
今よりもっと深く、この魂の奥深くまで傷を抉っていくだけだった。
キツめの炭酸で味もよく解らないまま、今度は喉の奥が痛くなる。
――あの時どうするべきだったのか、今でも解らない。
いっそ母さんすらも見殺しにしていたら、俺はここまで思い悩まずに済んだんじゃないのか。
そう思った事もあるし、多分、それは事実なのだと思う。
母さんさえ傷つかないでいてくれたら、俺はひとり分の苦しみで済んだんだよ。
救えなかったっていう自分自身の無念だけで、この苦しみは済んだんだろう。
「いっそこのまま、歩いてどっか行っちまうか……。」
視線を落とす。
黙り込んだままの影に睨まれ、いいから早く戻れと非難されているような気がした。
その時だった。
「あ。」
地面にポツリ、ポツリと、黒い染みが出来ていることに気付いた。
よく見れば、既にあちこちにその染みがあり、またその速度が徐々に速くなっていることに気付いた。
頭上を煽ぐと、いつの間にか大きな雨雲がほぼ頭上に迫っており、いよいよ太陽を飲み込もうとしている。
「――げ、通り雨か?」
しかしそれは通り雨にしてもあまりに唐突過ぎるし、それこそ悪魔の所業かと思うほど不自然な唐突っぷりだった。
そして文字通り間もなく、それも一瞬で、辺りは水溜まりの海と化した。
幸い、俺は近くの施設に逃げ込む事でほとんど濡れずに済んだ。
けど、母さんは多分もうずぶ濡れだ。
まぁ待っていればそのうち慌ててこっちに駆けてくるかとも思ったけど、けれど一向にやって来る気配はなかった。
「すみませーん。」
「はいー。」
「傘、借りれたりしますか?」
「あぁはいはい……。はい傘。けど凄いね、突然こんなに降るなんて。」
「ありがとうございます。」
一向に弱まらないままの雨、未だに戻ってこない母さん。
流石にちょっと心配になった俺は、施設のお爺ちゃんに傘を借りて様子を見に行くことにした。
「うっわ……最、悪……。」
豪雨とも呼ぶべきそれにより、既に水溜まりの海は靴のソールくらいまで溜まっていて、深い所に踏み込んでしまうと普通に靴の中に水が入って来た。
望まずとも俺の足が潤ったよ、ありがとな。
しかしこの調子じゃ母さんももうダメだろう。
仮に近くの木とかで雨宿りしてたとしても時間の問題だったろうし。
「てかここ、タオルとか貸してくれるのかな。つーかさっさと雨止めよ。」
その後もブツクサと天気予報氏への悪態をつきながら、俺は憎しみを込めて思い切り土色の海を蹴飛ばしてやった。
そして――やっぱ降ったか。そうも思った。
例え雲一つないこんな晴れの日でさえも、どうやら俺達親子ってやつは呪いのジンクスから逃れられないらしい。
まったくロクでもねーな――けどホントに不思議なことが起こるもんだ。
まぁ我が家には悪魔がいるんだし、こんな事があったって今更別に驚く事でもないけど。
などとある種の奇跡的体験に罰当たりなことを考えながら、再び泥の海を蹴飛ばしてみる。
そうしていると、いよいよ翔の墓が見えて来た。
「……。」
そして俺は、言葉を失った。
見つけるべきでなかったその光景に、足が前に進むのをやめてしまった。
あまりにも現実離れしたその景色に、何も、考えられなくなっていた。
「ごめんなさい――翔、ごめんなさい。」
それは――腹の底から唸るような雨音に交じって、その冗談みたいな鳴き声が聞こえて来たからだ。
「……。」
翔の墓の前には、母さんがいた。
恐らく、あれから一度もその場を離れずにいたのだろう。
滝のような雨に身を委ねたまま、感情に染まった母さんが大声で泣いているのが見えた。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
それこそまるで悪魔にでも憑りつかれたように、母さんが叫んでいた。
喉を震わせ、声を歪ませ、吐き散らかすようにみっともなく。
俺ですら見たこともない感情をむき出しにして。
俺の知らない母さんが、そこで泣いていた。
俺は母さんが泣いているところでさえ、これまで一度も見たことが無かった。
翔がトラックに轢かれた時でさえ。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
翔が病院でその命を終えた時でさえ。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
翔の葬式の時でさえ。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
翔の死体に手向けの花を添えた時でさえ。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
翔の骨を骨壺に移す時でさえ。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
翔の魂をここに埋めに来た時でだって……。
――嗚咽、悲鳴、絶叫。
俺は、こんな大声でみっともなく鳴いているところを見たことがない。
誰にも気づかれないような声ですすり泣くところすら、見たことが無かったのに。
それなのに――
「……。」
もしかすると――この空は、母さんの為に泣いてくれたのか。
この雨は、母さんの為に流れてくれたのか。
唸るようなこの雑音は、母さんの為に叫んでくれてるのか。
なんとなくそう思ったら、急に目頭が熱くなって――
「母さん……。」
――少しだけ、救われたような気がした。




