七首 人間の住む家・二
「これは……。……これは、俺の客人だ。秘密の客だから、誰にも言わないでくれ」
青年は燈華のことをひょいと抱え上げ、びっくり仰天している男性の前を過ぎて門を潜った。足早に庭を進み、状況を飲み込めない燈華を連れて母屋に……入らなかった。外壁沿いに進み、やがて、小さな離れに辿り着く。
池付きの庭がある、離れ。渡り廊下などはなく、周囲は背の高い生垣で覆われ、離れているというよりも隔離しているといった印象だった。
青年は襖の空いている部屋に入って燈華のことを畳に下ろす。庭に面した縁側のある部屋は、ほんのり絵の具の匂いがした。床の間には雑草の花束が活けられている牛乳瓶の花瓶がある。
「あ、あの……」
「外で話をされても困るから」
「えっと……」
「俺は雪成。……深水、雪成だ」
「雪成さん……。わ、私は……き、清原燈華です」
「そう」
雪成と名乗った青年は燈華と向き合って座布団に座る。
「訊きたいことあるんでしょ。言えば」
「ん……。貴方は、あの日、私を助けてくれた人でしょう?」
「そうだ」
「あの時……。貴方の手は人間のものじゃなかった。人間に化けるのが上手な妖怪なんだと思った。でも、この家の人なんでしょう?」
「そうだ」
「それじゃあ、深水家は本当は妖怪の家だったってこと」
「それは違う」
雪成ははっきりと否定した。では、どういうことなのか。燈華が見上げると、雪成は視線を逸らす。
雪成の視線の先へ目を向けると、開けられた障子の向こうに広がる庭が見えた。石で囲まれた池には不自然なくらい水草がなく、鯉や鮒がいるわけでもない。どちらかというと、プールに近いような代物である。
「雫浜で強大な力を振るう深水家が妖怪だなんてそんなことがあってたまるか。力を持つ者が人間でも妖怪でもそれはどちらでもいいが、それが正体を隠しているのならどちらの場合だとしても悪質だろう。この家に住んでいるのは人間だ。……俺も、人間だ」
「でも……」
「人間の、はずだ……。深水雪成は、人間だ」
雪成は自分に言い聞かせるように言う。庭を見ている横顔には諦念にも苦悩にも見える色が浮かんでいた。
燈華を運河で助けてくれた時、雪成は人間の姿ではなかった。それは燈華の見間違いなどではないはずだった。彼の手には確かに水かきがあったし、髪や目の雰囲気も異なっていた。人間に化けている水妖なのかと思ったが、本人は深水家の人間だと言う。
貴方は一体何者? なんて不躾に訊いてもいいのだろうか。燈華は庭を眺める雪成のことを見上げる。謎の青年、深水雪成。燈華に分かることは、彼の容姿が美しいということだけ。いつまでも見ていたいと思うが、ずっと見ていたらなんだか自分の挙動がおかしくなってしまいそうな気がした。
離れの戸を叩く音がする。
「雪成様。ご友人とお話されるのは良いことですが、あまり長時間お話されていてはお体に障りますよ」
先程の使用人の男性の声である。
「あぁ、分かっている。今お帰りになるところだ」
「貴方、もしかして体が弱いの」
「……そういうことになっている」
再びひょいと燈華を抱え上げ、雪成は離れを出た。玄関のところにいた使用人の男性に懐中時計を渡す。
「彼女が拾ってくれたそうだ。千冬に渡しておいてくれ」
「かしこまりました」
雪成の腕に抱かれて燈華は運ばれる。獣の鼻に届く彼の匂いは絵の具で彩られていた。部屋も絵の具の匂いがしていたが、肝心の絵は見当たらなかった。
門を開けて、雪成は燈華を地面に下ろす。
「それじゃあ」
「あの、雪成さん。私、貴方にあの日のお礼をしたいの。ここに来れば会える?」
「妹を助けてくれたことが礼でいい。ありがとう」
「でも、別件だもの。それじゃあ私の気が収まらないわ。だって貴方は命の恩人なの。あの時貴方が来てくれなかったら、私は溺れて死んでいたのよ。ちゃんと助けてくれたお礼をしないと、私ずっと貴方のことが気になって気になって頭から離れないんだから。ここ数日貴方のことばかり考えてて」
しばらくの間、雪成は燈華のことを黙って見下ろしていた。驚いたように、興味を持ったように、じっと見る。
見つめられていると、燈華はなぜだか緊張して来た。思わず俯いてしまう。やがて「分かった」という声が頭上からして顔を上げる。すると、雪成の顔が想定よりも近くにあった。目線を合わせるように屈んでくれたのである。正面から真っ直ぐ顔を合わせるのは初めてだった。燈華の丸い目はさらに丸くなり、ぶわっという音が出ているのではないかという勢いで全身の毛が広がった。尻尾は二倍ほどの太さに見えるくらいで、毛先で火花が散って微かに煙まで出た。
「分かった。そんなに言うなら、お菓子を買ってきてくれないか」
「お、お菓子? 分かったわ。お菓子ね」
「あの日は元々お菓子を買いに出たのだけれど、牛鬼が出たり君を拾ったりしたせいで時間をロスして店まで辿り着けなかった。体が弱いことになっている俺が長時間外出なんてできないからな。よろしく頼むよ」
「何を買う予定だったの?」
少し間を置いて、雪成は笑った。燈華が初めて見た彼の笑顔は、やれるものならやってみろというような挑戦的な笑みだった。
「八百美堂のシュークリームだ」
「八百美堂!?」
「俺に用があるならこっちじゃなくて裏から入って来て。見れば分かるから。じゃあよろしくね、かわいい鼬さん」
店の名前に仰天している燈華の頭を撫でてから、雪成は門を閉める。
「や、八百美堂……!」
撫でられたことが分からないくらい、燈華は店の名前に戦き続ける。門の前に立ち尽くす一匹の鼬のぼさぼさになった毛から、細々と煙が昇っていた。




