三首 業火の夜・二
画材達は炎に飲み込まれてしまっていた。燃えて、焦げて、朽ちて行く道具を前にして雪成の足が竦んだ。イーゼルや絵の具の予備はいくらでもあったが、街の絵はあともう少しで完成だったのに。悔しさと恐怖が体を支配していた。逃げてという燈華の声は耳に届いていたが、動けなかった。このまま海に消えてしまおうか、牛鬼に食われてしまってもいいか、などと考えていた青年は、眼前の荒れる妖怪を前にして死にたくないと思った。
燈華の声が届いていた。だからこそ。
「ああ、もうっ……! 火車! こっちよ! こっちに来なさい!」
燈華が火花を散らして飛び跳ね、猫又の意識を逸らした。その声と光に、雪成はハッとした。怖い怖いと訴える足を強引に動かし、状況を確認する。絵も画材ももう助かりそうにない。荒れた庭の草は燃え、炎が徐々に大きく激しくなっていた。
火車という妖怪がいる。それは葬送の場に現れ、亡骸を奪ってしまうとされる妖怪だ。元々は鬼のような姿だったとも言われているし、猫又が変貌してしまったものだとも言われている。現在の雪ノ宮において火車の名で呼ばれるのは、己を燃やし尽くすような炎に飲まれた猫又の変わり果てた姿だ。猫又は基本的に温厚で飼い猫のような気質の者がほとんどだが、極々稀に火車になってしまう者がいた。幸か不幸か報告数が少ないため、原因は不明。病気でもないし、他の妖怪の力に当てられたものでもない。一説では始まりの一匹がおりその血を引く者に突発的に起こる現象とも言われるが、定かではない。正気を失った本人に真相を尋ねることもできず、皆の安全のためについ先程まで国民だったはずの化け物は討伐された。
燈華は今夜、始めて火車を見た。自分の両親が生まれるよりも前に遠方の街に現れたらしいということを本で見たことはあったが、雫浜での目撃例は大水害以前まで遡らなければならない。尤も、その際に現れた火車の資料は波に攫われてしまって一部しか残っていない。
自分の知っている危険な妖怪がどれくらい危険なのかは知っている。しかし、自分の知らない危険な妖怪がどれくらい危険なのかは全く分からなかった。人間である雪成は早く逃がした方がいい。けれど、その後どうすればいい? 燈華は火車の注意を自分に向けながら、無意識に後退った。威嚇のために牙を見せようとしたが、震えた口は歯と歯が触れる小さな音を立てただけだった。
街中ならばすぐに誰かが怪異課を呼んでくれるだろうが、雪成がこっそり絵を描く場所に選ぶような荒廃した屋敷跡では誰も気が付いてくれない。花火が揚がり始めていて大きな音が響いているため、助けを求めても壊れた塀の外まで声は届かないだろう。
火車はしばらく燈華の方を見ていたが、再び雪成に顔を向けた。
「ニ……ニ、ニ、ニンゲン……。ヒ、ひ、人の子……。食べレば、きッと……お腹モ……」
喘ぐような荒い呼吸と共に、涎が溢れ出る。腹が減っているのか、居合わせた人間の方を食らうつもりのようだ。小さな鼬程度では腹は満たされない。
「く、来るな。俺なんかたぶん絵の具臭いし魚臭くて不味い。いや、待てよ。猫だから魚を……あっ」
草の上に上半身が出ていた雪成の姿が、燈華から見えなくなってしまった。火車と距離を取ろうとした雪成が足をもつれさせて転倒したのだ。人間の足がしっかりとそこにあるのに、腰が抜けて立ち上がることができない。
この大きな猫を相手に、小さな鼬の自分は善戦できるだろうか。燈華は臨戦態勢を取るが、体全体が恐怖で震えそうだった。今にも涙が零れそうである。
でも。
でも、私が――。
私が、彼を守らないと。今、ここにいるのは私達だけ。彼は人間だから、私が守ってあげないと。大切な人を、こんなところで失いたくない。だって私、まだ……。
燈華は全身の毛を逆立たせて、周囲に無数の火の粉を散らす。黒煙が昇り、そして、小さな火の玉のようになって火車に飛び掛かった。雪成に迫りつつあった巨体が不意打ちでバランスを崩し、燈華を巻き込んでごろごろと転がって行く。
「君っ! 君、大丈夫か」
「雪成さんは逃げて!」
炎上する荒れ果てた庭で、燃え上がる猫と鼬が取っ組み合いを始めた。しかし、最初の不意打ち以降燈華は防戦一方で、ぎりぎりで攻撃を回避するのが精いっぱいだ。炎の中は平気。けれど、爪や牙が当たればひとたまりもないだろう。
「う、動けないんだ。情けないんだが腰が抜けてしまって」
「じゃあ私が時間稼ぎをするから! 動けるようになったらすぐに逃げて!」
「俺を置いて、動ける君が逃げればいい」
二股に分かれた太い尻尾が当たり、燈華は地面に転がされた。
「か……勝てるわけがない……。君、死ぬぞ……」
振り下ろされた火車の前足を、燈華は身を翻して躱す。
「私が逃げたら雪成さんが食べられる! それは駄目! 私、私、貴方にここで死んでほしくない! だって……」
だって、私――。
ひときわ大きな火花が燈華から広がった。一匹の貂が放てるのは、これが限度。一匹の火では家なんて燃やせないが、火車を一瞬怯ませることくらいはできる。
相手の動きが止まった隙に、燈華は雪成を振り返った。燈華の顔は恐怖で引き攣っていた。しかし、雪成を視界に捉えた瞬間僅かに目元が笑う。火の粉と一緒に涙が数粒散った。
「だって私、まだ……。まだ、貴方に、貴方のことが好きだって伝えられてないんだからっ!」
再び火車に向き合って、燈華は攻撃を回避する。




