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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第伍集 雪華の舞う頃
36/43

二首 業火の夜・一

 白妙燭光祭り最終日の夜。


 燈華は茉莉と一緒に花火を見ると家族に言って家を出た。頼もしい親友殿の顔を思い浮かべて感謝をしながら、人力車から下りる。


 雪成がいつもどこで街の絵を描いているのか、燈華は知らない。高級住宅街の中を歩き回って彼の匂いを追おうと思ったが、いくら嗅覚が優れている鼬でも匂いだけで行方を探るのは簡単ではない。近くにいれば分かるが、そこにいない者を追うのは難しい。


 外に出る際、雪成は人目を避ける。画材を抱えて、暗闇を妖怪のようにこっそりと動く。運河で出会った時は街の賑やかさから浮かないように質の良さそうな着物を纏っていたが、夜に移動する際には闇に溶け込めるような地味なものを纏っているだろう。行先も、民家の少ない場所のはずである。それでいて、絵を描くのに適したある程度開けている場所。


 祭りの明かりを眼下に臨みながら、燈華は閑静な高級住宅街を進む。富裕層も祭りの見物に行っている者が多く、夜であることも相まって常よりも静まり返っているように感じられた。


 次第に屋敷は簡素なものが増え、まばらになり、地面の草や木が増える。富裕層の屋敷はまだまだ先まで広がるが、その規模は徐々に小さくなっていく。


 やがて燈華が辿り着いたのは、随分と前に家主がいなくなったと思しきくたびれた屋敷だった。隣近所との境は手入れのされていない伸び放題の生垣に覆われてしまっている。いつ、家主がいなくなったのか。近隣の者には元々ここにある木立だと思われているのだろう。不自然に隙間の空いている部分に気が付いて木立に近付いた燈華は、茂みの向こうに屋敷の塀を見付けたのだった。


 隙間を潜り抜け、屋敷の入口を探す。


「壊れているところがあるわ」


 塀の一部が崩れ落ちている。辺りの地面はぼうぼうの草ばかりだが、崩れた塀の近くは草が倒れ、人が何度も踏んだ跡があった。塀の一部には絵の具が擦れた後もある。


 きっとここにいるんだわ。


 燈華は崩れた塀を抜けて、忘れ去られた屋敷に踏み込んだ。庭は、もちろん草が生え放題。木も伸び放題。何かの花が咲いていたらしき背の高い草が、立ち枯れている。


 近くの川から水を引いているのか、庭の中に小さな水路があった。誰もいない庭に、家族の笑顔が溢れていたであろう頃と変わらずに水だけが流れ続けている。


 海のある方、西側の塀が大きく破損していた。その部分は生垣にも大きな隙間ができているようだ。周辺の屋敷より一段高いところに建つこの屋敷の位置からは、景色が良く見えるだろう。


 そこに、雪成が一人立っていた。とんびの裾が風に揺れている。傍らにはキャンバスの載せられたイーゼルがあり、椅子に絵の具などが置かれていた。


「雪な……」


 声をかけようとして、やめた。なぜ来たのかと叱責されるかもしれない。燈華は鼬を覆ってしまうような草の陰に身を潜めて、静かに見守ることにした。


「花火が揚がったら、こっそり近付けばいいわ」


 花火の時間まで、あともう少し。


 最初に揚がる花火のどーんという音が聞こえて来るのはいつだろうかと、燈華は耳を澄ます。今はまだ、草木が風に揺れる音と雪成が画材を動かしている音が聞こえていた。


 キャンバスの向きの調整が終わったのか、雪成が道具を手に取って椅子に座る軋んだ音がした。燈華は時計を持っていないが、雪成は懐中時計で時間を確認しているはずなので花火の時間はもうそろそろだ。


「もうすぐね」


 その時、茂みの中で鼬の丸い耳がぴくりと動いた。燈華の耳が、先程まで聞こえていなかった音を捉える。大きく草が揺れる音である。燈華に気が付いた雪成が近付いて来たのかと思い顔を上げるが、彼はキャンバスを前に筆を手にして座っている。


 周囲を確認しようと後ろ足で立ち上がった燈華の耳は、更に別の音を拾う。何かを転がすような、引き摺るような音だ。そして鼻が何かの焦げる臭いも感じ取った。危険を察知して、身震いする。


「雪成さんっ!」

「えっ」


 振り向いた雪成は、燈華の声に驚いている。人間である彼は状況を分かっていない。直後、真っ赤な影が激しく燃える炎を纏って荒れ放題の庭に飛び込んで来た。


 燃えている。ということしか分からなかった。正体が不明のまま、何かが唸り声を上げて雪成に向かって一直線に突っ込む。


「危ないっ!」


 燈華の声に合わせるように、雪成は突進して来た何かを寸でのところで回避した。しかし、その後ろで画材達が蹴散らされてしまった。キャンバスごとイーゼルが押し倒され、椅子が壊れ、パレットがへし折れ、絵の具のチューブから中身が飛び出す。


「なっ、なんだ……!? 嘘、だろ……」

「雪成さんっ、逃げて」


 猫である。全身の長い毛を激しい炎のように逆立てた大きな猫又だ。唸り声を上げる口には鋭い牙が並び、振り回す足には鋭い爪が光っていた。注目すべきは、その体の横に炎上する車輪を伴っているところである。燃えるような毛は、先の方で車輪から昇る炎と混ざり合っていた。


 草の陰にいる燈華には気が付いていないのか、猫又は雪成のことだけをじっと見ていた。足元の草がぱちぱちと音を立てて燃えている。血に飢えた残忍な化け物のような形相で、猫又は炎の中から雪成を睨み付ける。

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