八首 つままない狐・二
先生は本を一冊手に取った。表紙には『変化基礎・壱』と書かれている。妖怪の学校で使われている教科書で、変化の能力を持っている妖怪を対象にした選択科目で用いる。
元は高名な狐が記した難解で崇高な変化術の解説及び指南書『変化学大全狐狸虎の巻』で、分厚くて百冊以上ある異常な書物だ。子供の妖怪の教育に使える部分を抜粋し、分かりやすく簡略化した物が現在教科書として流布している物である。『変化学大全』自体は第二図書館の閉架に収められている。
貸本屋にあった教科書は少し古い版らしく、燈華が普段目にしている燎里が使っている教科書とは表紙の絵が異なる。
「これ古本販売コーナーの本じゃないですか?」
「あらやだ。横に置いておいて、先生」
店の奥から井瀬の声が聞こえた。先生は言われた通りに棚の端の方に古い教科書を置く。
「あ、あのっ。それを読み込んだら私も……。先生っ、私も、それを一所懸命に読んだら変化ができるようになりますかっ」
「どうして急にそんなことを? 燈華さん、いつもはそのことあまり話さないけれど」
「前に……前に、水妖を探している話をしたじゃないですか。そ、その人を見付けたんです。たまに会うようになったんですけど、その人はいつも人間に化けているので、私が一緒に歩くと浮いちゃうなと思って……」
事実と虚実を織り交ぜながら、燈華は先生に事情を話す。
「そっか……。その水妖とは仲良くやっているのかな」
「い、一応?」
「水妖は燈華さんに、『鼬の姿は嫌だから人間に化けて』って言っているの?」
「いいえ。でも、私は、私が浮いちゃうなって思ってて」
「燈華さんの気持ちは燈華さんが自分で考えることだけれど、相手の水妖は今の燈華さんの姿が気に入っているんじゃないのかな。それか、無理して変化できるように頑張るようなことはしないでほしいと思っているとか。今できないことに挑戦するのは悪いことではないけれど、頑張りすぎると体も心も疲れてしまうからね」
「先生……先生みたいなこと言うんですね」
「ふふ。先生だからね」
先生は日々生徒に向けている優しい笑みを燈華に向ける。実年齢よりも随分と落ち着いているように見える先生の表情は、不思議と相手に安心感を与えた。
稲守公透は美しい雄狐である。佐雅がサリィの姿でくっ付いて回ることで変な虫を追い払っているということに大きく頷いて納得できる、優しく妖しい美貌の男だ。綺麗なのは外見だけではなく、内面も。聞き上手で、寄り添うように話をする。結果、学内では女子生徒どころか男子生徒からも大いに人気があり他の先生からも気に入られている。そんな先生の言葉だからこそ、燈華も丸い耳を向けて抜け漏れのないように聞き入った。
「水妖は、いい家の人なんです。だから、化けられないような私じゃ駄目なのかなとか思って」
「家柄なんて飾りだよ。現に私はこうして街のどこへでも出歩いてぶらぶらするし、そこにいる妖怪や人間がどんな家の人でも普通にやり取りする。礼儀というものはあるから、まあ失礼のない範囲でね。例えば私が稲守の狐だからといって相手が必要以上にかしこまって動いたら、それは私ではなくて家を見られているようでちょっぴり嫌かな」
「でも、いい家の人は家が大事ですよね」
「佐雅とかはそうかもね。彼は私のことも気にしてサリィになっているくらいだから。でも私は自分の好きなようにするのが一番だと思うよ。他の人の迷惑にならない範囲で。だから私は自分のやりたい教師の仕事をしているし、街をうろつくし、それなりに家の手伝いもするわけさ。燈華さんの知人の水妖が現状を嫌がっていないのなら、燈華さんが慌てて無理をする必要はないし、自分の思う速さで好きなように動けばいいんだよ。大事なのは、外聞よりも当事者がどう思っているかだよね」
あくまで個人的な意見だけれど、と先生は言う。燈華に話をしている間に、先生は何冊も本を見比べて棚の前を移動していた。最初よりも遠くなっている先生に歩み寄って、燈華は見上げる。
「自分の気持ちに素直になって、相手の言葉もちゃんと聞いた方がいい……ってことですかね」
「燈華さんがそう受け取ったのなら、そうすればいいと思うよ。狐に化かされているのだと思えば私の言葉を信じなくていいし、私が教師として青少年に答えているのだと思えばそれを踏まえて自分で考えればいい」
目当ての本を見付けたらしい先生は、店の奥に貸出料を払いに行った。生い茂る椿の枝葉を潜り抜けた先で井瀬と話をしているのか、なかなか戻ってこない。自分の用は済んだのだから帰ってもいいのに、燈華は店頭で先生を待っていた。なんとなく、待っていたかった。
少しして、先生が外に出て来た。
「待っていたの?」
「なんとなく。……先生は、今日は本だけですか? 見るの」
「いや、大通りの方にも用があるんだ。蝋燭屋さんに」
「蝋燭?」
「今度の祭りで使うから。絵蝋燭」
「あっ、そうか。そうか。もうそんな時期なんですね」
「そうそう。珍しく神社の仕事で下りて来ているのに、先に自分用の本を借りてしまったんだよ。井瀬さんにも言ったけれど、このことは秘密で頼むよ。やたら気にする上層部に知られたらこの程度でも放蕩息子とか言われるから。全然放蕩してないんだけれど」
お仕事お疲れ様です、と燈華は大通りへ向かう先生を見送った。
「そっか……。お祭りだ……」
雪成さんと一緒に見られるかしら。
淡い期待を胸に、燈華は帰路に着く。




