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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第肆集 積み重ねる気持ち
31/43

六首 雫浜一之宮・二

 閉じられている扉の向こうに、神がいるのだろうか。参拝者には何も分からず、神職は何も言わない。実在するのか、それともただの言い伝えなのか。ずっと昔から誰にも分からないのに、人々は神々に祈りを捧げている。


 何を祈ろう。前足を合わせて、燈華はちらりと雪成を見遣る。場の空気がそうさせるのか、見上げた横顔はいつもより静かで整っているように感じた。見惚れているうちに、雪成は合わせていた手を離した。見下ろしてくる視線に「まだ終わらないのか」という圧を感じ、燈華はぎゅっと目を閉じて願い事を神に伝える。


 人間に……じゃなくて。雪成さんと楽しく過ごせますように。それだけで、今は……。


 燈華は小さくも確かな願いに思いを込めた。


 ねー、まだー? という子供の声が後ろから聞こえて、余韻に浸っていた燈華は賽銭箱の前から飛び退いた。とっくに社務所の方へ向かっていた雪成の後を慌てて追う。


「ねえ、雪成さんは願い事何をしたの?」

「は……? 神社は願い事をするところじゃなくて日々の感謝を神に伝える場所でしょう……?」

「そっ、そう……そうかも……」

「まあ願い事をしたとしても、きっと神は耳を傾けて笑ってくれると思う。叶うかどうかは、その人次第だと思うけれど」


 一瞬、雪成の表情が曇る。しかし、燈華からはその様子は見えなかった。


 拝殿に並ぶ人々の横を過ぎて二人が社務所に着くと、ふさふさした大きな尻尾を揺らす白い狐が出迎えてくれた。狐の体には玉や石の装身具がいくつも飾られている。


 強い。燈華は本能で感じ取り、全身の毛をびりびりと震わせた。眼前の狐はあまりにも強すぎる力を周囲に放っている。怖い。そして、畏れてしまう。家族で神社を訪れたことは幾度となくあるが、これほどの圧倒的な力に遭遇した記憶はなかった。普段は表に出て来ない職員のようだ。


「これはこれは雪成様。わざわざお越しいただいて。本日はお加減がよろしいのですね。ご機嫌麗しゅう」

「大仰な挨拶は必要ありません」

「おや、清原さんのところのお嬢さんじゃないですか。雪成様、ご友人ですか?」

「……友人ではないです」


 なぜ、私のことを知っているのか。初対面の狐に認識されていることに、燈華は驚きを隠せない。


「私のこと……」

「あぁ! この姿では初めまして、でしたね。私は稲坂(いなさか)佐雅という者です」

「えっ! サリィ、さん?」

「はい。今は仕事中なのでこの格好で」

「なんだ、君は彼と知り合いだったのか」


 笑みを浮かべる佐雅の口元に鋭い牙が覗く。


 穂景神社の境内を行ったり来たりしている狐はたくさんいるが、これほどまでの力を帯びている者は少ない。個性的な人だなぁ、と思っていた燈華の想像よりも、佐雅はこの神社において強力な存在だった。


「外で話していると往来の妖怪達が私に驚いてしまうので、中で話しましょう。いやぁ、妖力が強すぎるのも困ったものですね。境内の外では何かに化けて抑えていないといけませんし。さあ、こちらにどうぞ」


 佐雅は燈華と雪成を社務所の奥へ案内する。白い狐が歩くのに合わせて、体中の装身具が揺れる音が聞こえた。


「サリィさ……佐雅さん、稲守先生も狐の姿だとこれくらい気配が強いんですか」

「いえ、公透は私より弱いですよ。稲守家直系の能力は有していますが、純粋な力は私の方がずっと。それに、今は仕事中で気を張っていますから普段よりも強く感じられるのかと」


 そこそこの大きさの部屋に到着し、佐雅は座布団を三つ部屋の隅から引っ張って来た。


「それで、雪成様はうちの筝の部品を持って来てくださったとか」

「はい。これを」


 全員が座ったところで、雪成は持って来た風呂敷包みを解いて中の木片を取り出した。佐雅はじっと五つの木片を見ている。


 燈華はずっと緊張していた。この狐と一緒に仕事をしているこの神社の狐達は日々これに曝されているのだ。とんでもない職場である。髭がぴりぴりとしびれるような感覚があり、大袈裟なくらい行儀よくしていないと指先で潰されてしまうのではないかという恐怖すら覚えた。店に来て先生と朗らかに笑っていたサリィの、真の姿。あまりにも強大なこの存在感に、反応を示さない妖怪などいないだろう。


「君、大丈夫か」

「だ、だい……」

「おや! おやおや、すみませんお嬢さん。耐性のない妖怪にこんなに至近距離は辛いですよね」


 そう言って、佐雅の姿が巫女装束のサリィに変わった。人間の姿の奥に抑え込まれた力は、平凡な妖怪程度のものしか感じられない。燈華は強張っていた表情を緩めて小さく頷く。


「これなら問題ないでしょう。さて、雪成様。こちらなのですが」

「どうでしょうか」

「これはうちの琴古主、沖風の部品ですね。材質、色、装飾、間違いないです。見付けてくださってありがとうございます」

「そうですか。よかったです」

「これはどこで見付けたのですか?」

「庭です。屋敷の」


 一瞬硬直したサリィが眉間に皺を寄せ、大きく肩を落として溜息を吐いた。


「庭って……。庭って、深水邸のあの塀の向こうってことですよね」

「そうですが……」

「塀の向こうも探すように皆に言います。しかし、そうですか……塀の向こうにまで飛び散って……。見付からない部分も多そうですね。どれだけの衝撃を以て破壊されたのですかね、沖風は。彼が血肉のある妖怪でなくて、本当によかったです」


 もしも、人間や獣の姿をしている妖怪だったら。燈華は想像しかけて、やめた。そんなもの、想像するべきではない。


 状況を想像してしまって若干青褪めている雪成は、木片を全てサリィに差し出して風呂敷を畳んだ。


「では、これは無事に届けましたので。失礼します」


 そそくさと部屋を出て行ってしまう雪成。続いて部屋を出ようとした燈華だったが、サリィに呼び止められた。


「家の者として公的に振舞うのが苦手なの、かわいいですよね。もう私の前に深水家の人間として居たくなくて逃げたのですよ、あれ」

「あのぅ……」

「彼は公務を好みませんし、個人的に詣でるような人間でもありません。お嬢さんが連れて来たのですか?」

「木片が筝の部品かもって気が付いたのは雪成さんなんです。でも、私に一人で行かせようとして。見付けたのも気が付いたのも雪成さんなんだから、貴方が行くべきって説得して」

「なるほど。お嬢さん、どこで雪成様と知り合ったのですか? 彼は深窓の令息です。妖怪が簡単に顔を合わせられる相手ではありませんから」

「い、色々あって知り合って……」


 サリィは燈華に距離を詰める。責め立てているわけではなく狐の姿の時のような威圧感もないが、燈華は半歩後退った。


 君、まだか。と雪成の声が廊下の向こうから聞こえた。


「お世話になっている店のお嬢さんにあまりこのようなことは言いたくないのですが、彼は貴女のような一介の妖怪が容易に交流できる相手ではないのですよ」

「そう……ですよね……」


 燈華は耳を伏せ、しょんぼりと俯く。心なしか髭もしなしなである。


 やはり大人の反応は厳しいものだ。今は応援すると言っている茉莉も、相手が深水家の人間だと知ればひっくり返ってしまうかもしれない。深水家は雫浜において、それだけ強力で、異様で、畏怖すべきもので、落とし物を見付けた燈華に対して巡査が自分で届けてくれと言うような家だった。


 君、早くしないか。と雪成の声がする。燈華は耳を上げて、返事をした。


「他人の交友関係にあれこれ言いたくないのですけれど……。雪成様の顔を知る者は少ないですが、周りの目には気を付けた方がいいですよ。この国に住んでいながら妖怪を好意的に思っていない人間もいますから」

「……はい」


 燈華は俯いたまま部屋から退出した。社務所の外で待っていた雪成が身を屈めて覗き込むように燈華を見る。


「稲坂さんと何か話していたのか」

「よ、妖怪の私が雪成さんと一緒に歩くのはよくないかもって」

「神社の連中は外聞を気にしているからな、俺達の。『妖怪とつるんでいる』と俺が言われたり、『深水家の人間に接触している』と君が言われたりしたとして、神社は何も困らないのにな。深水家の顔色なんて窺わないで自分達の神様だけを信じていればいいのに。……用が済んだからさっさと帰ろう」


 抱き上げようとした雪成の手を、燈華はするりと躱した。


「一人でまっすぐ家まで帰るわ」

「……そうか」

「筝の部品、無事に届けられてよかったわ。それじゃあね、雪成さん」

「あぁ、また今度」


 そうしてそのまま、燈華は雪成に背を向けてとぼとぼと歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、掴み損ねたふわふわを惜しむように、雪成は軽く手を握っていた。

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