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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第肆集 積み重ねる気持ち
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四首 華麗なる不自由・二

 玄関へ向かって長く入り組んだ廊下を歩いていると、向こうから継母がやって来る。伯爵夫人は雪成のことを視界に捉え、一瞬嫌そうな顔をした。清楚な着物姿の美人には似合わない顔である。しかし、その顔はすぐに穏やかな表情へと変わった。


「あら、雪成さん。珍しい」

「ごきげんよう、母上」


 夫人は雪成のことを嫌っているわけではない。ただ、この街の人間として相応に人魚を恐れているだけである。前妻の子に対して威張り散らかすとか、酷く扱おうとするとか、そういうことは決してない。雪成がごく普通の人間であれば、まるで自分の子であるかのように愛しい気持ちで優しく抱き、慈しみ深く撫でていただろう。


 雪成は軽く挨拶をして通り過ぎようとしたが、夫人に着物の袂を引かれた。


「何か」

「最近この辺りを妖怪がうろついているという話を近隣の方から聞きました。小動物らしいですが、空を飛ぶような者であれば離れに飛び込んでくるかもしれません。貴方も気を付けなさいな」


 絶対あの鼬のことだ。雪成の脳裏に離れに置いて来た燈華の姿が過る。正体不明の謎の妖怪と思われているということは、燈華を目撃した使用人が雪成との約束を守っているということである。


「俺は大丈夫ですよ。いざとなったら池に入れば多少は対抗できるかと」

「体は大事にしなさい。もう夏ではなくてよ。無暗に外で水に入れば風邪をひいてしまいますよ」

「そうですね。では外部からの侵入者には気を付けておきます」


 野衾(のぶすま)などではないといいですね。と言って夫人は廊下の向こうへ去って行った。野衾とはムササビの妖怪のことである。


 角を曲がった夫人の後ろ姿が見えなくなったところで、雪成は再び玄関へ向かって歩き出した。すれ違う使用人皆に驚かれながら、玄関に辿り着いて母屋を後にする。


 そして離れに戻り、縁側のある部屋の襖を開けた。


「お待たせ……」


 燈華は畳の上で丸くなって眠っていた。ふわふわした毛に覆われた背中が呼吸に合わせて膨らんだりしぼんだりしている。傾きかけた太陽が雪見障子のガラス窓から差し込み、細かな毛先に光を散らしていた。声をかけて起こそうと思ったが、随分と気持ちよさそうに眠っているので躊躇ってしまった。


「待たせすぎてしまったか」


 もう少しだけ寝かせてあげよう。そう思って座布団に座った雪成だったが、何かを思い付いたのか再び立ち上がって部屋を出て行った。





 燈華と一緒に神社に行く約束をして、翌日。


「特に問題はないですね」


 そんな主治医の言葉を背に、雪成は着物の袖に腕を通した。


「すみません、いつも手間をかけさせて」

「いえいえ。本当に具合が悪かったらそれはそれで困りますからね。様子を見ること自体は元気な人にも必要です」


 とびきり体が弱いことになっている深水家長男の主治医。彼は至って健康な雪成の健康診断をして、いつも「今日も元気ですね」と言って去って行く。


「お一人で出かけるそうですね」

「はい。だから、皆を安心させるためにいつも以上に先生のお墨付きが必要で」

「鰭の状態も見ておきましょうか」

「あぁ……。もう着物を着てしまったのでまた今度でいいです」

「分かりました。池の水、たまに入れ替えて掃除もしてくださいね」

「……はい」


 雪成の主治医である彼は、人間ではない。普段は人間の姿をしているが本性は白澤(はくたく)という山羊のような牛のような角と蹄のある獣の妖怪である。実は妖怪とは異なる存在だった気もするが、もう忘れてしまったと本人は語る。現在は三十路半ばくらいの外見で良岑(よしみね)と名乗っているが、随分と長生きらしくこれまで様々な姿や名を使って来たそうだ。


 良岑医師が人間ではないことは周知されており、伯爵は分かっていて彼を雪成の主治医として呼んだ。雪成が人魚の子であることはいずれ知らせようと思いつつ最初の内は知らせていなかったが、離れに落ちていた鱗を拾われて勘付かれた。


「面倒臭そうな返事! ちゃんとやってくださいよ池の掃除」

「……はい」

「大変ですよ鰭とか鱗とかぼろぼろになったら。分かってますか」

「分かってます……」

「全く……本当に分かってるのかな。次来た時に鰭の確認しますからね」

「しつこいな」

「雪成様、もっと自分を大事に扱った方がいいですよ。いつも言っていることですけど。……貴方に何かあれば、悲しむ人がいるんですから」


 雪成は良岑医師から目を逸らす。


「家族だけじゃなくて、友達とかも」

「友達はいません」

「はいはい。今日はこの辺にして撤収しますよ。またねー、雪成様。……お」


 寝室に使っている部屋を出て行こうとした良岑医師が、畳の上に放られているノートに目を留めた。開かれたままの頁には丸くなって眠る小動物のデッサンが描かれていた。


 あっ。と雪成が声を上げて取り上げようとしたが、良岑医師が手に取る方が早かった。


「鼬ですね。ご友人ですか」

「……友人ではないです。ま、迷い込んで来たやつがいて」

「へぇ、畳の上まで。こんなに気持ちよさそうに眠っているなんて、余程ここが落ち着く場所なんですね。かわいらしいじゃないですか」

「そう……ですかね……」

「いやぁ、それにしても相変わらず絵が上手いですね。こんなにかわいらしく描いて貰って、この鼬も嬉しいでしょう。今度私の絵も描いて貰おうかな」

「厄除けになりそうですね」


 効果抜群ですよ! と笑いながら、良岑医師はノートを雪成に返した。


「では、また次の定期健診で」

「ありがとうございました」


 玄関まで主治医を見送り、雪成は戸を閉める。


「友人……? 俺は、こいつと……」


 こいつは、何なんだ?


 しばらくの間、雪成はノートに描いた燈華の寝顔をじっと見つめていた。

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