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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第肆集 積み重ねる気持ち
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三首 華麗なる不自由・一

「外出の許可を貰いに母屋に行って来る。待ってて」


 そう言って燈華を残して離れから出た雪成は、母屋に入る前に立ち止まって俯いていた。


「あの妖怪のために外出許可を得る必要があるのか……?」


 改めて考え直すと、自分が動く必要はやはりないのではないかと思えて来た。あの鼬が一人で神社に行けばいいのだ。見付けたのは雪成だからと燈華は言うが、別に雪成は筝の部品を見付けたことについて賞賛を得たいわけではないので自分の手で届ける必要はない。


 けれど。


 畳に座った小さくてふわふわした鼬が懇願するように見上げていて、つい動いてしまった。


「変なやつ。変なやつだ。あの妖怪……」


 あの妖怪といると、おかしくなってしまう。調子を狂わされてばかりだ。面倒臭いと思うが、燈華が訪ねて来るのが楽しみになって来ている自分がいた。やっぱりおかしくなっているんだ。雪成は小さく溜息を吐いて、母屋の玄関の戸に手をかけた。


 引き戸を開けると、丁度通り掛かった使用人と目が合った。雪成のことを体が弱いと思っている若い使用人である。


「わっ、雪成様!」

「丁度良かった。父上は御在宅だろうか」

「旦那様でしたら、先程訪問先から御帰宅されたところです。今は書斎にいらっしゃると思いますよ」

「そうか。ありがとう」


 雪成は草履を脱いで母屋に上がる。とても珍しいものを見たという眼差しで使用人は雪成のことを目で追った。雪成が母屋に足を踏み入れるのは久方振りである。


 雪ノ宮の伝統的な建築様式を組み合わせて建てられた大邸宅、深水邸。元々は坂の下に広大な敷地を持つ貴族の邸宅だったが、大水害の後に他の公家や武家、富裕層と共に坂の上へ引っ越した。それ以降は時代が進んで周りに住んでいる者が変わっても、深水邸はこの位置から動かずに雫浜を見下ろし続けている。新しく建てた邸宅も最初は貴族の屋敷の建て方だったが、時を経て武士の屋敷のように改築し、また貴族のようにしたり、武士のようにしたり、その時代に合わせた建て方を取り入れたり、異国風の様式の部分を造ったり、改築と増築を繰り返して今の形になっていた。


 異国風の部分に入り、窓から中庭が見える廊下を雪成は進む。壁には異国の絵画が飾られ、床には豪奢な絨毯が敷かれている。池や松や色々ある大きすぎる中庭を挟んで向こう側には公家屋敷のような部分が見えていた。


 流行の変遷を楽しめる素敵な家だと誰かが言う。雰囲気がちぐはぐでおかしな家だと誰かが言う。迷路みたいで面白い家だと誰かが言う。


 すれ違う使用人皆に驚かれながら、雪成は父の書斎に辿り着いた。ドアをノックすると返事がある。確かに書斎にいるようだ。


「誰だ」

「雪成です」

「ゆっ……!?」


 ばさばさと書類の落ちる音がした。少し間があって、「入りなさい」と父の声がする。


「失礼いたします」


 ドアを開け、書斎に入る。一歩踏み込んだ雪成に対して半歩後退ったのが、深水家二十代当主深水雪孝(ゆきたか)伯爵である。


 深水家は伯爵の爵位を持つ華族だが、帝都で議員の仕事をすることはなく専ら雫浜の諸々の運営に精を出している。国政に携わるのは深水家の祖よりも更に遡った先にある雪ノ宮一の大貴族の流れを汲む他の家々がすることだ。かつては一族の者ばかりで宮中を埋めんとしたこともあるが、現在は一族のみが国政を支配しないようにそれぞれの得意分野に取り組んでいる家が多い。


 伯爵は手にしていた書類を適当に纏めて机の端に置いた。雪成に向かって、ぎこちない笑みを向ける。


「ごきげんよう、父上」

「元気そうだな」

「はい、お陰様で」


 同じ敷地に住んでいる親子の会話としては不自然な会話である。しかし、この親子の会話はいつもこのやり取りから始まった。


「今日は何の用だ。離れの設備に何か不備でもあったか。それなら使用人に」

「外出の許可をいただきたいのです。よろしいでしょうか」

「外出」


 どこに? と伯爵は疑問符を浮かべながら言う。


「穂景神社へ行こうと思っていて」

「何かおまえに頼んでいたことでもあったか」

「いえ。ただ個人的に行きたいだけです」

「どういう風の吹き回しだ?」


 伯爵は椅子を引いて席に着く。立ったままの雪成を見上げる視線は、優しい父親のもののようであり、化け物を管理する人間のもののようでもあった。


 伯爵にとって、雪成は宝物で呪物だった。運命とさえ思った初恋の相手と結ばれて生まれた子供であり、化け物が産み落とした置き土産だった。いつか、人魚の血が息子に何かよくない行動をさせるのではないか。雪成が成長するにつれて、そんな不安が伯爵の内で徐々に大きくなっていた。


 伯爵は、優しい。優しいからこそ、いつも苦しそうだった。


「別に、ただ行きたいと思っただけです。他意はありません。神社の者と懇意になって力を得、跡継ぎに推してもらおうとか考えていませんから。本当に」

「おまえは、私がおまえをそんな風に疑っていると思っているのか」

「まさか。柊平は頑張っています。俺もあいつには立派になってほしいと思っていますよ。あいつはきっと、俺にできないことをたくさんやってのけますから」

「雪成……すまない……。おまえには、いつも不自由な思いばかりさせて……」

「父上の懺悔は聞き飽きているので今日は外出許可だけいただければ十分です」


 愛情と罪悪感を混ぜた伯爵の視線を、半歩横に動いて躱す。今にもめそめそと泣き出してしまいそうな侯爵のことを、雪成は困ったような微笑を湛えて見た。


 そんな顔をするくらいなら、こんな化け物、小さいうちに捨ててしまえば良かったのに。


 父上は愚かですね。雪成は、伯爵に向かってそう言ったことがある。その時、伯爵は泣きそうな顔で困ったように笑い、雪成のことを抱き締めた。


 伯爵は優しくて、苦しみながら雪成を愛している。雪成はその優しさに上手に甘えられないまま、大きくなった。


「急ぎの用なのか」

「いえ。ですがなるべく早い方が」

「そうか。では、明日先生を呼ぶことにしよう」

「そう……ですね。とんでもないくらい体の弱い俺が外に出るには、毎回医者のお墨付きが必要ですから」

「同行する者には誰を就ける? 執事に皆の予定を確認させよう」

「あっ……。一人で行きたいのですが……」

「一人で?」


 雪成が外出する時、基本的に使用人が誰か同行することになっている。それは雪成が人魚の子だからではなく、深水家の子だからである。千冬もいつも爺やや女中と一緒であり、柊平も従者を伴って帝都へ行っている。良家の子にお付きの者はほぼ必須であり、体の弱いことになっている雪成ならばなおさらである。


「今回は、ゆっくり一人で行きたくて」

「まあ、構わないが……。おまえももう幼子ではないからな。心配する者がいるかもしれないから私から言っておこう。今回の同行は必要なく、それは私も認めていると」

「不審者には気を付けますから」

「間違っても運河や川に落ちるんじゃないぞ」

「それはもちろん。不審者以上に気を付けます」


 伯爵は机の引き出しから分厚い手帳を取り出した。頁が多いから分厚いのではない。適当な紙に書いた書き付けをたくさん挟んでいるからである。


「明日先生に来てもらって……。そうだな……。三日後はどうだ。私が家にいる日で、何かあればすぐに動けるから皆も安心するだろう」

「そうですね。父上が御在宅の日であれば出先で俺が急に倒れても大丈夫でしょう。実際は頑丈なのでそんなこと起こりませんが」

「では、三日後に。穂景神社への一人での外出を許可しよう」

「ありがとうございます、父上」


 雪成は伯爵に一礼をして、書斎を後にした。

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