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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第弐集 水面越しの君
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九首 追憶ワッフル・三

 大きな人魚の絵の前で、雪成は小さく息を吐く。


「深水家の当主は結婚する予定だった女との間に子供を儲けたが、その女は出産後すぐに亡くなってしまった。その女が産み落とした長男は体が弱く家にしまわれているらしい。……そういうことに、なっている」


 燈華を抱いている手が微かに震えていた。雪成の顔色はお世辞にも良いとは言えない状態であり、じっとりとした汗が整った顔に伝っていた。


 燈華は雪成と人魚の絵を交互に見る。彼は壮絶な物語の中で産まれたのだ。自分が知りたいと言ったから彼は教えてくれた。こんなに苦しそうな顔をしながら。


「十九年前……。十九年前に人魚が観光客を襲った事件を君は知っているか」

「毛玉に足が生えたくらいの頃だから、新聞なんて読まないし知らないの。怖い人魚の話を、大人はきっと小さな私には聞かせていないだろうし」

「そうか」

「この絵、しまっておいた方がいいんじゃない。貴方、顔色が悪いわ。ね、ほら。布、掛けて」

「……聞いて楽しい話じゃなかっただろう。すまない」

「私が貴方を知りたいって言ったから。ごめんなさい。貴方も話したい話じゃなかったでしょ。わたしなんかが聞いてよかったのかしら」


 雪成は大きな人魚の絵に布を掛けて、他の絵や道具で覆い隠すように場所を動かした。燈華を抱いたまま、庭に面した縁側のある部屋に戻る。


「水に入って念じると人魚の姿になれる。でも、俺は人間だ」


 燈華は畳に下ろされた。


「君は俺のことを妖怪ではないかと疑っていたけれど、改めて見るとどうだろうか。妖怪の君になら分かるだろう。今の俺の姿が、妖怪が人間に化けたものではないと」

「えぇ、そうね。こうして何度も顔を合わせてじっくり見ると、確かに貴方は人間の気配だわ。どんなに化けるのが上手で人間に気が付かれなくても、これだけ会えば妖怪には相手の妖怪の気配が分かるはずだもの」

「君は……。君は、周りの妖怪と自分が違っていても立派に生きていて偉いな」


 まるで自分は偉くないというような言い方である。


 燈華の隣に腰を下ろし、雪成は八百美堂の箱に目を向けた。燈華も思わずそちらを向く。ワッフルの入っていた空箱にはもう主役はいないが、箱だけでも芸術品のように綺麗だった。


「俺は、逃げ出そうとした。家族は俺に酷いことをするわけではないけれど、別に優しいわけでもない。無関心でいようとしていて、怖がってもいるようだった。俺は自分がここに居る意味が分からなかった。本当は、あの日海に飛び込むつもりだった」


 畳に置かれている雪成の右手が静かに拳を握った。意を決して、口を開く。


「俺は逃げようとした。いなくなろうとしたんだ。あの日、最期に八百美堂のシュークリームを食べて……。人間の姿のまま海に入って消えようと思った」

「え……」

「牛鬼が出たと聞いたからそいつに食われてもいいなと思った。でも……」


 雪成は拳を解いて燈華のことを撫でた。燈華の全身の毛が爆発する。


 もふもふの塊を撫でる手の動きはとても優しくて、このままでは獣の本能で甘えてひっくり返っていいようにされて絆されてしまう。戦く燈華の毛がさらに広がった。


「でも、君を見付けた」

「私?」

「運河で溺れている妖怪なんて正直どうでもよかったんだけど、泳げるのに見て見ぬふりなんてできなかった。だから、助けた。君を助けて、命の恩人だと感謝されて、君は……。君は、『また会えるか』と言った。会うことを望まれるのは初めてだった。君に会って、もう少し陸に居てもいいかもしれないと思った」

「私、が……?」

「でもやっぱり俺なんかといたら良くないと思って、八百美堂のシュークリームを要求した。逃げると思って。全然来ないから諦めたんだと思ったら、君はシュークリームを持って来た。人魚の姿を見せてワッフルまで要求したのに、今日も来た。……君になら、俺の話をしてもいいと思った」


 雪成は燈華を抱き上げ、抱き締めた。彼はあくまで動物を抱いているつもりである。そう自分に言い聞かせながら、燈華は雪成の肩にそっと前足を置いた。抱き返して上げているつもりだった。


 長い長い十数秒だった。


 燈華を畳に下ろして、雪成は「今日はもう帰りな」という。そして一言付け加える。


「君、よかったらまた来てくれ」


 燈華は丸い目を丸くして見上げる。嬉しかったが、今度はシュークリームよりもワッフルよりも強烈なものを要求されるかもしれない。ほんのちょっと警戒して、牙を見せた。


「次は何を持ってくればいいの」

「君が来てくれればいい。君には予定を狂わされ過ぎた。その責任を取って、たまに話し相手になってくれ。……君も、俺に会いたいんだろう?」

「会い……たい……」

「来るときはあの塀の穴から来て。気が向けば待っているから」


 喜びでだらしなく歪んでしまいそうな顔を俯かせて、燈華は「うん」と返事をした。

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