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⑦ 第七話

 今日の<銀の旋律>の厨房は、まるで重い空気が可視できるのではないかと思えるほどだったが、ルーシアの知った事ではない。


 かのライナス=シュハイゼンに、あの女が突然提案した、あんな伝統を無視した料理が認められるはずがない。だから、無謀な副料理長は良くて降格。悪ければ店を辞めることになるに違いない。

 昨日、自分の考えにはついていけないと厨房を出ていった料理人達はそう考えていたはずだ。


 だが、彼らは視察の結果を知り、どうしたものかと困っているのが分かった。


 そんな連中が店に入ってくるなり、ルーシアに対してものすごく引きつった顔で挨拶をしてくるのが愉快だった。

 しかし、あまりこの事をネチネチと言うつもりはなかった優しいルーシアは、「よく仕事に出てこられたわね」と笑顔で言うだけで許してあげることにした。まぁ、その後の言い訳は一切聞いてやらなかったが。

 

 それでも、今日は夜の予約が珍しく入っていなかったので、本日最後のお客様をお見送りすると、厨房の雰囲気が緩んだものになる。鼻歌交じりに皿洗いをしているものまで居るくらいに。

 明日から副料理長である自分が休みだから、余計に気が緩んでいるようだ。


 流石にルーシアも、もう来店されるお客様が居ない状況でまで緊張を過度に維持しろと言うつもりはない。


 ルーシアは仕事が好きだ。料理人は天職だとも思っている。

 『厨房の冷血女王』などと影で揶揄されているのは知っているが、ルーシアはそれを一笑に付して、言いたいように言わせてある。


 厨房を纏めるために、たしかに厳しく指導をしていた自覚はあるが、その際の指示がどのような意図を持ってされたものなのかを理解できない、しようともしないのなら、そんな人間に料理人としての未来はないと思っている。

 けれど、そんなルーシアも、それはそれとして、休日というものもやはり嬉しいものなのも事実だ。


 色々予想外のことはあったが、店のオーナーであるシュハイゼン男爵家の視察は終わった。だから、明日からの休日はゆっくり休みたかった。


 本来、休みは一日の予定だったが、支配人から、


「君はここのところ休み無しで働き過ぎだよ。ここで万が一君に倒れられてしまったら、うちの店は立ち行かなくなってしまう。それに、君が休まないと……」

 などと色々言われ、二日休みを取ることになっている。


(要は、お前が居ると、他のシフトの料理人達が気の休まる暇もないと言っているわけよね)

 ルーシアは支配人の長い説明をそう理解した。だから、久しぶりの休みを取ることにした訳だ。


 明日は、趣味と実益を兼ねて料理店に足を運んでみるのも良いかもしれない。個人の調理道具も新しいものが欲しいと思っていたところだ。


 ルーシアは皆が片付けを終えて厨房を後にするまで残っていたのだが、それでも午後三時までには家路に就けることになった……はずだった。


 店の戸締まりを確認し、ルーシアは裏口から店を出て鍵を掛け、「よし、このまま、いつもの大衆食堂に行ってビールでも流し込もう!」という気分だった。それなの……。


「こんにちは、ルーシア。突然ですまないが、君と夕食を共にしたいんだ。時間を作ってもらえないだろうか?」

 低く威圧感のある男の声がルーシアの耳に届いた。

 ウキウキしていた気持ちに冷水を浴びせかけられた気分だった。そして、ルーシアは仕方なく笑顔を作って振り向く。

 そこには予想通りの鉄仮面……ではなく、ライナス卿が一人正装で立っていた。


「これは、ライナス様。まさか昨日の今日で、またこのようなところにおいでになられるとは」

 棘のある嫌味を混ぜて挨拶をするルーシア。だが、ライナスはまったく気にした様子もなく、彼女の前まで来て手を差し出す。


「すまない。君の迷惑になるであろうことは分かっていたのだ。しかし、自重できなかった」

 ライナスは手を差し出したままルーシアを見つめる。

 ルーシアは困った笑顔を浮かべるしかない。


(なんでこっちの都合も考えずに、いきなりやってくるのよ! 貴方は貴族様でしょう? なんでこんなにフットワークが軽いのよ! しかもまたお付きのお供もつけないで!)

 内心では、そんな文句の言葉を叫んでいたが。


「ルーシア。今後のことについても私なりの考えをまとめてきた。きっと有意義な時間になると思うのだ」

「……今回のお誘いはもとより、昨日の求婚も、貴族様のお誘いとあっては、平民である私に断るという選択肢はありません。であれば、面倒な話し合いなどという形式を取らず、お命じになれば良いのではありませんか? 黙って私と結婚しろと。夕食を共にしろと……」

 生憎とルーシアはそんな事を言われて素直に従うつもりはないが、貴族と平民の身分差はそれほど圧倒的なのだ。そんな権力をかざしておいて、話し合いも何もないと思う。


「ふむ。私としたことが……。身分の差を考慮に入れないとは汗顔の至りだ。すでに君とは対等なパートナーになっていると錯覚していた」

 ライナスは差し出していた手を引っ込めて、顎にその手をやり思考する。


「ルーシア、君の言うことはもっともだ。そこで、一つ提案がある」

「提案、ですか?」

「ああ。私は君と対等の関係になりたいのだ。ゆえに公の場を除いて、こうして二人で会っているときは貴族に対する敬意は不要としたい。敬意を払わなかったからと言って、決して罪には問わないと約束しよう」

 ライナスはありえない提案をしてきた。いくら口約束とは言え、こんな自分の地位を貶める提案をする貴族が存在するとは思えない。


「本気で仰っておられるのですか?」

「ああ。私は本気だ。それに加えて、二人きりのときは口調も普段通りで良い。いや、そうして欲しいのだ」

 ライナスはそう言うと、再び手をこちらに向けて差し出してきた。


「ルーシア。私と夕食を共にして欲しい。今日は少し変わったレストランを予約してある。きっと君も気に入るのではないかと……」

「嫌です!」

 ルーシアはライナスの言葉を遮り、間髪入れずにそう答えてニッコリと微笑むのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ライナスさんの言葉だけ見ているととても情熱的だし、貴族と平民ではなく対等でいたいという気持ちも素敵だし、文章だけ読んでいるともうキュンキュンきちゃうのですが……きっとルーシアさんが興味を持…
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