⑳ 第二十話
前回の失敗を活かし、ライナスはルーシアにアポを取った。翌日のデートに誘って了解を得たのだ。
彼女の疲れにも配慮し、バレエを午後から鑑賞し、それから夕食を共にするという内容にしたのが良かったのか、彼女は快く応じてくれた。それがとても嬉しかった。
更に当日は、実家の馬車でルーシアの家まで迎えに行ったのだが、窓越しに見たドレス姿の彼女の美しさに、ライナスは地上に降りてきた女神ではないかと錯覚した。そして、これほどまでに美しい女性と共に一日を過ごせる幸運を、何度も何度も神に感謝した。
劇場までのひと時は、結局当たり障りのない会話になってしまったが、それでもライナスは嬉しかった。こんな幸運な男は自分以外は存在しないのではと思うほどに。
だからこそ、ライナスは彼女をエスコートするナイトであろうと努めた。彼女に決して恥はかかせないのはもちろん、今日という日を最高の一日だと思ってもらえるように。
劇場の予約席に付いてからも、ルーシアは穏やかにバレエが始まるのを待っていたが、少し緊張が見て取れた。なので、ライナスは彼女に話しかける。
「ルーシア。バレエを鑑賞するのは初めてなのかな?」
「ええ、初めてよ。ただ、ずっと興味はあったから嬉しいわ」
ルーシアは緊張こそしているものの、本当に楽しみにしているようで、気持ちが高揚しているように思えた。ここまで期待してくれているのであれば、誘った自分も嬉しい。
「そうか。それはよかった」
ライナスは心から思ったことを口にしたのだが、何故かルーシアは嘆息する。
「ねぇ、もう少し楽しそうにできないの?」
「そう見えてしまうかな? だが、私は今、天にも昇る気持ちなのだ。美しく着飾った君の隣に居られるということを何度でも神に感謝したいくらいに……」
心からの真実を口にしたのだが、ルーシアは「またそんな事を言って」と小さく呟き不満そうに唇を尖らせる。だが、その姿があまりにも可愛すぎて、愛おしすぎて、ライナスは平常心を保つために懸命にならざるをえなかった。
「さて、そろそろ開演時間だ」
幸いバレエが始まったので良かったが、あのままだと彼女を抱きしめてしまいそうだった。
しかし、ライナスの忍耐が試されるのは実はこれからだったのだ。
初めてのバレエに感動し、普段の張り詰めた表情ではない素の表情を浮かべるルーシアが、この上なく愛らしく、ライナスは目の前のバレエよりもルーシアの表情に見惚れ続けてしまったのだ。
何度その可愛らしい姿を抱きしめたいと思ったか分からない。すでに求婚をした後だが、何度もう一度愛を囁きたくなったのか分からない。
幸せだった。そして、今度は今以上に彼女を喜ばせたいと思ってしまう。
自分は、シュハイゼン家の当主として、いずれはどこかの家の娘を政略結婚で娶ることを考えていた。それは貴族の義務であるから。だからこそ、婚姻というものに何も感じていなかった。ただ跡継ぎを残すための行為だとしか考えていなかった。
だが、今は違う。
隣で喜び、驚き、涙まで浮かべる彼女が愛おしい。狂おしいほどに。そして、そんな彼女とならより良い家庭を持つことができると思うのだ。
理想は現実とは違うことなど百も承知であるが、それに近づくための努力を自身は決して厭わない。そして彼女を幸せにしてみせる。それこそが自分の幸せなのだから。
やがてバレエが終わると、ルーシアはハンカチで涙を拭ったものの、感動し続けているようで、足取りが頼りなかった。だからこそ、ライナスは彼女を優しくエスコートする。
呆然とするほどの感動してくれたことは嬉しいが、彼女のこの美しくも無防備な笑顔に、良からぬ虫がたかろうとしてくるかもしれない。
ライナスは普段以上に警戒しながら馬車に向かった。
それから馬車で予約をしたレストラン、<柔らかな岩盤>に向かう。
未だに感動から声も出ないルーシアとの会話はなかったが、可愛らしい彼女を見ているだけで、ライナスは幸せだった。
程なくしてレストランに着き、予約席までライナス達は足を進めた。
そして、席についたところで、ルーシアは小さく息を吐き、普段の彼女の表情に戻った。
「その様子だと、バレエは気に入ってもらえたと考えてもいいのかな?」
答えは分かっているが、敢えてライナスはルーシアに尋ねる。
「素晴らしかったわ! 本当に素晴らしすぎて、他になんと言い表したら良いのか分からないくらいよ!」
満面の笑みで彼女は鑑賞したバレエを絶賛する。だが、不意に興奮しすぎていると思ったのか、コホンと咳払いをして口を閉ざしてしまう。それが、ライナスには残念だった。
「君に楽しんでもらえたのなら、これに勝る喜びはない」
こちらの様子を伺い、敢えて席に来なかっ給仕に声をかけると、ルーシアに食前酒は何が良いかを尋ねた。
料理人である彼女は、自分の好きなお酒があるはずだと考えての配慮だった。けれど、ルーシアは、
「……ライナス。料理の味を損ないたくないから、酒精が弱いワインが良いのだけれど、選んでもらえないかしら?」
とライナスに判断を委ねてきたのだ。
「分かった。私に任せてもらおう。君、彼女に……」
思わぬ幸運に喜びながら、ライナスは彼女が喜んでくれそうなワインを選び、給仕にそれを伝える。
それから給仕が一旦下がったところで、ライナスはルーシアにカバンから取り出した数枚の紙を手渡した。
「何なの、これは?」
「済まない。できればバレエの話で盛り上がりたいところなのだが、それよりも先に、君に伝えておきたいことがあるのだ」
「えっ? あっ、これって……」
ルーシアは紙に目を通し始め、右手を顎に当ててじっくりとそれを確認する。
「これは、今後の話だ。だが、避けては通れない話でもある。だから、私はこの事を後に引き伸ばして不誠実に君と付き合うのは望ましくないと考えている」
ライナスがルーシアに手渡した紙は、彼女が貴族の妻になった際のメリットとデメリットが書かれている。
「ねぇ、ライナス。本当に私は貴族の集まりに、社交界に出なくてもいいの?」
「ああ。必要ない。もともと父の代から、我々シュハイゼン家は社交界にはほとんど顔を出していないのだ。それに加えて、私の職業柄、どこかの貴族と懇意にすることはいらぬ不信感を覚えさせてしまう。それに何より……」
「何より?」
「君に悪い虫がつくのが耐えられない。だから、社交界にはむしろ出ないで欲しい」
ライナスがそう言うと、ルーシアはきょとんとした顔をしていたが、やがて小さく微笑み、「そう。分かったわ」と嬉しそうに頷いた。
「メリットにある、色々な世界の料理を楽しめるというのが魅力的なんだけれど、これは本当?」
「ああ。本当だ。我が家は食道楽の家系で、海外の珍しいレストランや生産者との繋がりもある。惜しむらくは、男爵家の限界で、金銭的な面で予算が潤沢にあるとは言い難いが……」
「それくらい、私が稼ぐわよ。デメリットにある、跡継ぎを生む必要があるから、少し仕事を休まざるを得ない期間はあるかもしれないけれど、私は今までのように仕事を続けても良いんでしょう?」
ルーシアはそう言って目を輝かせる。
そうだ。やはりルーシアは料理を作るのが大好きなのだ。その料理で皆を喜ばせることに幸せを感じているようだ。そんな彼女から料理を奪うことなどできない。
なにより、自分が惚れたのは、彼女の容姿だけではないのだ。彼女の素晴らしい料理人としてのあり方にも惚れたのだから。
それから料理を一通り楽しみ、ルーシアも驚いていた伸びる氷菓を食べて、後は店を出るだけとなったときだった。ライナスが意を決したのは。
「ルーシア。今日、君に楽しんでもらったバレエだが、『グラン・パ・ド・ドゥ』と言うのだ」
「……そういう名前なのね」
「ああ。『パ・ド・ドゥ』は、例外もあるが基本的に男女二人の踊りのことだ。だが、『グラン・パ・ド・ドゥ』というものは、それに男女の主役を演じる踊り手がそれぞれ名人芸を誇示できるように構成されている」
実は、ルーシアの顔ばかり見ていて、今日のバレエは殆ど見ていなかったのだが、ライナスは何度も同じものを鑑賞しているので問題はない。
逢瀬の際には、自分も初めての劇を見るべきではないという先人の知恵に感謝しながら、ライナスは話を続ける。
「そして、私は君とそういった関係になることを望んでいるのだ」
「えっ?」
ライナスは真っ直ぐにルーシアを見つめる。
「私はこの国を愛している。私と君が住んでいる、この国を。我が国を。だからこそ、君と共にこの国を素晴らしいものにしていきたいと考えている。
私は国の治安を守る。それが多くの人々の幸せに繋がると信じているからだ。だが、それだけでは人々は幸せにはなれない。そこに喜びが必要なのだ。そして、それは私には与えられない物だという自覚はある。しかし、君ならばそれを人々に与えられと思うのだ」
そう。自分には君が必要なのだ。そんな思いを込めて、ライナスは熱弁を振るう。
「この国という舞台を、私と君でより良い方向に変えていこう。……私と一緒になると言うことは、君に多くの我慢を強いる事になるだろう。だが、君の輝きを、君がこれまでの人生を掛けて来た料理人としての道を閉ざすようなことは決してしない。君をより一層輝かせることを誓う」
ライナスはこのタイミングしかないと思い、スーツのポケットから小さな箱を取り出した。
「時期尚早なのは理解しているし、重い男だと思われるだろう。だが、真剣なのだ。本気なのだ。私の隣に居て欲しい女性は君だ、ルーシア。君以外には考えられない。
これから、季節柄、店の仕事が多忙になるのは分かっている。こうして頻繁には会えなくなってしまうだろう。だが、これを見て思い出して欲しい。君のことを誰よりも思っている男がいるのだと」
ライナスは熱意のこもった言葉とともに、箱を開ける。そこには、彼が懸命に選んだプラチナリングにダイヤモンドが飾られた婚約指輪が鎮座していた。
ルーシアは呆然としているので、ライナスは断られるのではと恐怖した。
だが、ここが勇気の出しどころだと考え、ライナスは彼女に声をかける。
「ルーシア、受け取って欲しい」
ライナスは静かに立ち上がり、呆然としている彼女の左手を優しく掴むと、その長く美しい指に、左手の薬指にそれを嵌めた。
幸いなことに、ルーシアはそれを拒みはしなかった。
そして、帰りの馬車では気まずさのためか、お互い言葉はなかったが、帰り際にルーシアは、
「ライナス。今日はありがとう」
と言ってくれた。
それだけで、拒絶しないでくれただけで、ライナスは嬉しかった。
こうして、ライナスの一世一代のプロポーズは成功した……かに思われた。
だが、それから数カ月後、最悪のタイミングでトラブルが起こることは、さすがのライナスでも予期できなかったのであった。




