⑱ 第十八話
私事で休みを取り、定時前に帰宅する事を同じ職場で働く者たちに不思議そうに思われたようだが、そんな事はどうでもいい。
ライナスは帰宅後、昨日夜遅くまでかかって作ったプレゼン資料をカバンに入れると、フォーマルな装いに身を固めて馬車で<銀の旋律>に向かう。
「今日は夜の予約が入っていない。となれば……」
ライナスはプランを練った。そしてあのレストランにはまだ彼女が来店したことがないことを知り、即座に店の予約をしたのだ。お気に入りのワインも用意してもらっている。きっと、彼女にも喜んでもらえるはずだ。
「……時期尚早なのは分かっているが、彼女に私がどれだけ本気なのかをまず理解してもらわなければならない」
ライナスはポケットに入れた小箱を服の上からそっと撫でる。
彼女は輝かんばかりの美しさを持っている。であれば、宝石の類は色の主張が激しくない金剛石が望ましいはずだと考えた。土台はプラチナ。この婚約指輪を前にした時、彼女はどんな顔をするのか、不安であり、そして楽しみでもあった。
ライナスは、<銀の旋律>の店の様子が分かる喫茶店を訪れ、コーヒーを飲みながらその時を待った。
思ったよりもルーシアが店から出てくるのが遅かったが、その待ち時間は微塵も苦ではなかった。その間、今日を含めた今後のことを考える時間に当てる事ができたから。
代金を払って店を出て、ライナスは目的の人物に歩み寄る。
「こんにちは、ルーシア。突然ですまないが、君と夕食を共にしたいんだ。時間を作ってもらえないだろうか?」
彼女に指摘されたので、なんとか彼女の前でだけは仕事の口調を止めてみようと思ったのだが、長年の癖はなかなか抜けてくれず、硬い表情と声になってしまう。
「これは、ライナス様。まさか昨日の今日で、またこのようなところにおいでになられるとは」
嫌味混じりの言葉を言うルーシア。
しかし、それも当然だとライナスは理解していた。昨日、舞い上がってアポを取り忘れた自身の失敗なのだから。
「すまない。君の迷惑になるであろうことは分かっていたのだ。しかし、自重できなかった」
そう。できなかったのだ。だから、こうして会いに来てしまったのだ。
「ルーシア。今後のことについても私なりの考えをまとめてきた。きっと有意義な時間になると思うのだ」
「……今回のお誘いはもとより、昨日の求婚も、貴族様のお誘いとあっては、平民である私に断るという選択肢はありません。であれば、面倒な話し合いなどという形式を取らず、お命じになれば良いのではありませんか? 黙って私と結婚しろと。夕食を共にしろと……」
ルーシアはそう言いながらも、強い眼差しをライナスに向けてくる。もしもそのようなことを命じれば、彼女から嫌われることは火を見るよりも明らかだった。
「ふむ。私としたことが……。身分の差を考慮に入れないとは汗顔の至りだ。すでに君とは対等なパートナーになっていると錯覚していた」
身分差など関係なく、ルーシアを娶ると考えるあまり、まだ今はそれがあることを失念してしまった自分にライナスは内心で呆れる。どれほど自分は舞い上がっているのだろうか、と。
「ルーシア、君の言うことはもっともだ。そこで、一つ提案がある」
「提案、ですか?」
「ああ。私は君と対等の関係になりたいのだ。ゆえに公の場を除いて、こうして二人で会っているときは貴族に対する敬意は不要としたい。敬意を払わなかったからと言って、決して罪には問わないと約束しよう」
そうだ。まずはお互いの距離感を縮めていくことからだ。そして互いを理解して行けばすれ違いも減っていくだろう。
「本気で仰っておられるのですか?」
「ああ。私は本気だ。それに加えて、二人きりのときは口調も普段通りで良い。いや、そうして欲しいのだ」
ライナスはそう言うと、もう一度彼女を食事に誘う。
「ルーシア。私と夕食を共にして欲しい。今日は少し変わったレストランを予約してある。きっと君も気に入るのではないかと……」
しかし、そんなライナスの誘いの言葉を遮って、ルーシアははっきりと、大きな声で言った。
「嫌です!」
と。
そして彼女はにっこり微笑むと、「それでは、失礼しますね」と言ってライナスに背中を向けて一人で歩いて行ってしまう。
一人その場に残されたライナスは、呆然としていた。
そして、相変わらずのポーカーフェイスで、彼は何故か胸を右手で押さえる。
しかし、それは第三者からはわからないだけで、ライナスは今、この上ない絶望を感じていた。
(くっ……。危うく気を失うところだった。こっ、これが、この感情が恐怖というものか……)
長いこと感じていなかった感情の顕現に、ライナスは驚くのと同時に、身を裂かれるような気持ちを味わった。
惚れた女性に拒否されるというのは、これほどまでにショックが大きいものなのかと、ライナスは思い知った。
そして、ライナスはそのまま呆然としていたのだが、
『……ライナス様』
そこで不意に、彼の頭に女の声が聞こえてきた。
『どうしたのだ、ティアール』
けれどライナスは慣れた様子で、その言葉、<遠距離会話>の魔法に応対する。
『ルーシア嬢は、繁華街を目指して歩いております。どうやら、今までも早くに店を占めて時間がある場合は、<白鹿の森>という大衆食堂で、少し早めに晩酌を楽しんでいるようです』
『ふむ。なるほど。しかし、大衆食堂か……』
『そこから右折した通りに、シュハイゼン家の息がかかった……』
『皆まで言わずとも分かった。お前は変わらず彼女を尾行してくれ』
『はい』
無表情で、頭の中で言葉を思い浮かべる会話を終えたライナスは、すぐさま目的地に向かって足を進ませる。
その瞳には静かな、けれど燃えるような炎が宿っていた。




