⑰ 第十七話
ライナスは花屋に駆け込むと、真っ赤な薔薇をいくつか包んでもらった。
本当はもっと多くの薔薇を包んで、自らの気持ちを伝えたかったのだが、生憎と弱っていない花が数本しかなかったのだ。けれど、花屋の店員の女性が真剣に選んでくれた花はどれもが美しいものだ。これならば、この燃えるような心を伝える事ができるはずだと思い直す。
<銀の旋律>の正面玄関はすでに閉じられていたが、裏に回ると厨房に明かりがまだ灯っているのがわかった。ライナスは静かに、裏口に向かって歩き出す。
(良かった。ルーシアはまだ店に残っているようだ。しかし、うら若き女性が、あれ程の美貌の持ち主が、こんな遅くまで店に残っているなど無用心にもほどがあるのではないか? そうだ、万が一なにかが起こってからでは遅い。明日からは我が家の者にこっそり護衛をさせよう。
だが、女で腕が立つ者となると、ティアールしかいないか。文句を言われるだろうが、こればかりは譲れん。なんとしても職務を全うしてもらう)
ライナスはいくつもの事を考えながら、裏口のドアの前にやってきた。
正直、緊張をしていないと言えば嘘になる。だが、自分の心に嘘はつけない。
トントンと、ライナスは一定の間隔で裏口のドアを叩く。
大きすぎないように、けれど彼女が気づいてくれることを願いながら。
少しすると、人の気配が近づいてきた。そして、
「どなたかしら? 厨房に忘れ物でもしたの?」
という美しき調べのような誰何の声がライナスの耳に届いた。
「……ああ、そうだな。忘れてしまったんだ」
ライナスの口から発せられたのは、考えていた言葉ではない。自然と漏れ溢れた気持ちだ。どうして、愚かにも自分は、この燃えるような気持ちに蓋をしようとしたのだろうかと想える。自分は、店を出る前に、彼女に行動で示すべきだったのだ。
「そんな、まさか……」
ルーシアは驚く声さえも美しく、そして愛らしい。
そして、すぐにドアが開かれ、ランプを片手に持つルーシアの姿を見た瞬間、ライナスの気持ちは完全に固まった。
ランプの明かりを頼りに見えたルーシアの幻想的な美しさを、自分のものに、自分だけのものにしたいと考えたのだ。
「……ライナス卿。何故、このようなところに?」
彼女が驚くのも当然だろう。貴族が夜に供もなく一人で歩くことなど普通はありえないのだから。
「とりあえず、中にお入り下さい。お体に障ります」
「いや、ここで構わない。私は調理については門外漢だが、厨房に外套のまま入るような愚行を起こすつもりはないのでね」
「では、表にお回り下さい。すぐに……」
自分のことを気遣ってくれる気持ちは嬉しいが、ライナスは決心が固まったこの気持ちを今こそ伝えたかった。だから、じっと彼女を見つめて、言葉を続ける。
「いや、それも必要ない。先にも言ったように、忘れてしまっただけなのだから」
「お忘れ物ですか?」
そう。忘れてしまっていたのだ。これほど自分の心をかき乱さんばかりに魅了する女性に対して、何をするべきなのかを忘れてしまっていただけなのだから。
ライナスは背中に隠していたバラの花束を彼女に向かって差し出す。
緊張で顔が強ばるのが分かったが、それでも声は震わせない。
「君に告白をしていなかったことに気が付き、居ても立ってもいられなくなってしまった」
言葉を紡ぎ、ライナスはその場に跪く。
「ルーシア、私と結婚を前提にお付き合いをして欲しい」
そして、求婚した。生まれて初めて、その想いを伝えた。
「……えっ? えええええっ!」
ルーシアは驚きの声を上げる。そして、頬を紅潮させて取り乱す。それがこの上なく初心で愛らしくて、ライナスは愛しさが一層込み上げてきてしまう。
「なっ、何を仰られるのですか? いくらなんでも冗談が過ぎますわ、ライナス卿。私はまだまだ若輩で浅学の身ですが、貴族様が平民の小娘に求婚することなどありえないことくらいは理解しているつもりです」
「なるほど。やはり君は、その類まれなる美しさと調理技術だけでなく、知識も兼ね備えているのだな。ふむ、私の目に狂いはなかったようだ」
貴族社会のことなどそう知る機会はないであろうに、真っ先にそのような言葉が出てくるのは彼女が聡いからに他ならない。だが、自分の言葉は決して冗談などではないと伝えなければ。
「君が突然のことに混乱しているであろうことは分かるつもりだ。だが、私は嘘偽りを口にして、君を傷つける気もない。むしろ、君に危害を加えようとする者がいれば、どのような方法を用いても、そのような輩から君を守ると誓おう」
もしも彼女に害をなす存在があれば、どのような方法を用いてもその輩に地獄を見せてやる。生まれてきたことを呪うほどの地獄を。
「私が貴族であることも、君が平民であることも私には一切関係ない。どのような障害があろうと、私はそれを乗り越え、克服する。だから、安心して私についてきて欲しい」
そう、信じて欲しい。この私を一人の男として。
賢明に思いを伝えるライナスに、ルーシアが口を開く。
「……無礼を承知で発言させて頂きます」
「構わない。君の気持ちを聞かせて欲しい」
聞かなくては。彼女の気持ちを。その返答がどうであろうと、決して諦めるつもりはないが。
「私には、ライナス卿がお戯れで私をからかっているようにしか思えません。今日初めて出会った小娘にそんな事を口にされることが、本心とは思えないからです。まして、そのような気持ちの込められていない言葉で言われても、私は戸惑うばかりで、ますます信用できません」
ルーシアは懸命に言葉を紡ぎ、体を震わせながらもはっきりと自分の気持ちを伝えてきた。
その姿に、ライナスは更に彼女への気持ちが高まる。美しく、聡明で、気遣いもでき、勇ましさまで兼ね備えているこの女性はあまりにも自分の好みに適合し過ぎている。
「ふむ。この気持ちを上手く貴女に伝えられないのは、私の不徳の致すところだ。これは今後の課題として改善していく事を約束しよう」
これは仕事柄の癖が抜けないせいだろうとライナスは思う。それは今後彼女の前では改善できるようにしなければいけない。だが、今はそれよりも……。
「それと、もう一つの疑問にも答えておこう。私が今日出会ったばかりの君に求婚した理由だが、これは至極単純だ。私は今日、君に出会い、君の料理を、歓待を受けた。その際に、一目惚れをしてしまったようなのだ」
「なっ! そっ、そんな事、ある訳が……」
ルーシアの言葉にライナスは小さく頷く。
「君の感想は至極もっともだと思う。昨日までの私なら、こんな気持ちを自分が抱くとは思っていなかった。だが、君を一目見たときから、そして君の料理を口にし、君の至高の料理を食し、その事を幸福に感じるのと同時に、それに不満を抱いてしまった際に気がついた。
私は君という人間に、ルーシア=レイリュースという女性に惚れてしまったのだと。そして、君を他の誰にも渡したくないと考えるようになってしまった。そして、この気持ちは熱く、重くなっていく一方なのだ。自分で自分を制御できなくなってしまいそうなほどに……」
ライナスは自分の言葉が、その言葉に込められた熱量がルーシアに届いていないことに、内心焦りを感じていた。このままではただからかわれたと思われてしまうかもしれないと危惧した。
しかし、ここでルーシアは思わぬ反応をした。
「ライナス卿。今、私の料理に不満を抱かれたと仰られたように聞こえましたが?」
はっきりとした声でそう尋ねてきたのだ。
「……ああ。そのとおりだ。私は君の最高の料理に、不満を持った」
ライナスがそう答えると、ルーシアは今までの狼狽もどこへやら、凛とした若き天才料理人の顔になっていた。
「ライナス卿は、私の料理をお認めくださったのではないのですか? だからこそ、私が一大改革を行うことを了承頂けたのだと認識していたのですが……」
「そのとおりだ。私は君の料理を認めている。だからこそ、この店の今後を君に賭けたいと思った。その認識は間違いない」
「では、どのようなご不満をお持ちになられたのでしょうか? そして、そのような不満を抱えながらも、私に賭けようと思われたのでしょうか?」
ルーシアから感じられるのは、確かな誇りだった。自身の料理に対する自負心である。
そして、ライナスは気がつく。今、この瞬間こそが、彼女に自らの言葉が、想いが伝わる瞬間であろうと。だから、彼は勝負に出た。
「……ルーシア。卑怯なのは分かっている。だが、私は君に本気なのだ。その気持ちを分かって貰うためにも、交換条件を出させて貰いたい」
「交換条件。それは、どのような?」
ルーシアの硬い声に、しかし当然ライナスは怯まない。
「先にも言ったとおり、私と結婚を前提に交際して欲しい。そうすれば、私という人間をよく分かってもらえると思う。そして、その事で君は、私が抱いた不満を理解する事ができると思うのだ」
「それが、私にどのような利点があるのでしょうか?」
より一層ルーシアの声が硬く、重いものになる。だが、その事でライナスは内心でほくそ笑み、
「私は、今の君には、私の抱いた不満を察することはできないと考えている。だが、その予想を覆し、私の抱いた不満に君が自らの力で気がついたのであれば、この求婚を断ってくれて構わないというのはどうだろうか?」
敢えて少し口の端を上げて彼女を挑発した。
「分かりました。その提案を受けさせて頂きます」
そして、彼女はそれにまんまと引っかかった。
そこで、ライナスは理解した。ルーシアは聡明だが、やはりまだ若いのだと。
それから、ライナスはルーシアが遠慮したものの、頑として考えを曲げず、彼女の家の近くまで送って行った。
ただ、そこで、「その、ありがとうございました。ライナス卿もお気をつけてお帰り下さい」との言葉をかけてもらったことで、肌寒く暗い道を歩くライナスの帰りの足取りは、随分と軽いものだった。




