⑯ 第十六話
帰りの馬車の中で、父は普段以上に饒舌に話をする。その内容は、当然ながら今回の夕食のことについてだった。
味の素晴らしさはもちろん、ポタージュの味もガラリと変えたにも関わらずに口に合う味であったとか、柔らかな料理であったにもかかわらず、その中で噛みごたえの種類まで演出されていたとか、子供のような笑顔で語るのだ。
普段のライナスであれば、そんな父のはしゃぐ様子を喜べたのだが、今の彼は普通ではなかった。
(……なんなのだ。父上が嬉しそうに話をされているというのに、その度に、心がざわめく。黒い感情が湧き上がってきてしまう)
深呼吸をして心を落ち着けようとしても、まったく改善しない。
「どうしたのだ、ライナス?」
話を振っても反応が帰ってこないことを訝しんだ父に声を掛けられ、ライナスは、はっ! と顔を上げる。
「珍しいな、お前がそんな反応をするとは」
「……お見苦しい所をお見せし、申し訳ありません」
ライナスは謝罪したが、対面に座る父――リドルは目を細めて笑う。
「何を笑っておられるのですか、父上?」
「ふふっ。お前は何時もそうだな。三男坊というのは、もっと上手い立ち回りをして強かなものだと思っていたが、お前は何事にも懸命で、人の手本であらねばと思うあまりに、人に甘えるのが下手だ。
まぁ、それもこれも、お前の兄達が奔放すぎて、そのしわ寄せがお前に行ってしまっているからに他ならないが……」
ライナスは父が何を言いたいのか理解できない。
「今晩、我々親子に至福の時間を提供してくれたあの女シェフは、ルーシア=レイリュース、二十二歳。この国の東端にあるミズリアの街の老舗料理店、<海竜の泪>を経営している、センデス=レイリュースとライアナ=レイリュースの間に生まれた三人娘の次女だ。
十歳の頃から<銅の調べ>で働いており、十六歳で<銀の旋律>に見習いとして入った。店に入ったのは条件ギリギリの歳であったが、その才能と向上心が群を抜いており、料理長であるキカールもそれを認めていたほどだと。まぁ、私も実際に彼女の素晴らしい資質を体験したのは今日が初めてだがな」
シュレンダ王国の<賢狐>と言われるリドルは、当たり前のように何も見ないでルーシアの情報を口にし始める。
「だが、料理人という道を邁進するあまり、友人は少なく、男っ気も今のところはまったくないそうだ。何時も遅くまで店に残り修業に励んでおり、現在の住処であるバルミス通りの<銀の旋律>の管轄の一軒家に帰るのは深夜らしい」
さらにリドルがそう告げたことで、何故かライナスの心に、重く、それでいてざわめいていた心に、光が差した気がした。
「なぁ、ライナス。私は今日のことで、あの女シェフが、ルーシア嬢のことが気に入ってしまった」
その言葉に、光は消え去り、再び黒い感情が吹き出してくるライナス。だが、それも父の次の言葉で瞬時に霧散することになる。
「ああ、あんな『娘』が私にいればなぁと思ってしまったのだよ。そうすれば、店の視察などでなくとも、気楽に彼女の料理を口にすることができるのではないかとな」
「……父上……。しかし……」
「ああ、おそらくあの嬢ちゃんは一生懸命過ぎて、男を知らぬであろうな。器量も決して悪くない感じであったし、どこぞの口が達者な男に騙されてしまうかもしれんな。そして……」
リドルの言葉が終わらないうちに、ライナスの体は無意識に動いてしまっていた。彼は、凄まじい勢いで右手を馬車の壁に叩きつけたのだ。
幸い、怪我はしなかったが、馬車の壁にヒビが入ってしまい、そして何事かと思った御者が多慌てで馬車を止める。
「なっ、何かございましたでしょうか!」
血相を変えて、馬車を止めた御者が馬車の入り口にやってきた。すると、そこには怒気を含んだライナスと、それとは対照的に笑顔なリドルが座っており、彼はどうしたものかと困惑しているようだった。
「ああ、随分と手荒な合図で申し訳なかったな。ライナスは少し用事があるので、ここで降りたいらしいのだ」
「……父上」
「<銀の旋律>の近くには、大きな花屋があったな。これから向かえば、閉店前に間に合うだろう」
「ですが、いえ、その、私にもよく分からないのです……」
「はっはっはっ。普段は冷静沈着なお前がこれほど取り乱すのが何よりもの証拠だ。仕方がないのだ。それは不治の病の一種であるからな」
リドルはそう言うと、ポンとライナスの肩に両手を置く。
「どうした、ライナス=シュハイゼン。『恐怖の代名詞』、『冷酷無情』、『笑みを知らぬ男』、『死神紳士』、『冷徹な刃』と揶揄されるほどの男が、もしや日和っておるのか? たかだか身分差程度の問題で?」
父のその指摘で、ライナスは自分を取り戻すことができた。
普段の自分を。
「いいえ。私は日和ったりなどしません」
「うむ。そうだ。きっと家の者の殆どが反対するだろうが、私は常にお前の味方だ。安心するが良い」
「隠居をなされた父上にこれ以上お力を借りては、私の名に傷が付き、そこを狙われます。そんな愚行は冒しません。反対するものは、全て私自身がねじ伏せてみせます」
ライナスは静かに馬車の中からノックをし、御者に扉を開けさせる。
「父上を屋敷まで丁重にお連れしてくれ」
その言葉を残し、ライナスは来た道を引き返す。
まだ、彼女は店に残っているであろうか?
いや、残っていないのならば、迷惑を承知で家まで押しかける。さきほど、父が話していた、『バルミス通りの<銀の旋律>の管轄の一軒家』の位置なら知っているのだから。
ライナスは決意を固めると、足を早めて目的の場所に向かうのだった。




