⑮ 第十五話
席に付き、ライナスは父親の食前酒のリクエストを訊き、それを店の給仕に伝える。
多忙なライナスがこの店の視察に来るのは実に三年ぶりなのだが、それにしても今日の給仕の人間は若い人間ばかりだと違和感を覚えた。
食前酒を頼むという行為を挟んだことで、ライナスは気持ちが落ち着き始めていた。
自分はやはりこうでなければいけない。どんなときでも公正で厳格でなければならないのだ。たとえあのルーシアと言う名の美の女神が相手であろうと、決して視察に手心を加えたりはしない!
そう心に誓ったライナスは、優雅に食前酒を口に運ぶ。
だが、それも<小前菜>が運ばれてくるまでだった。
「……これは、素晴らしいな。今までとは一線を画すアプローチの仕方だ」
食べるということが何よりも大好きな父が嬉しそうにアボカドのムースを口に運んで恍惚の表情を浮かべる。
父は歯が弱いので、このような柔らかな料理を出してくることをライナス嬉しく思う。
「……なっ……」
ライナスも遅れてムースを口に運んだのだが、その複雑な旨味に思わず声が漏れてしまった。
幸い小さな声だったので、自分にしか聞こえなかったようだが、それでも驚愕の事態だった。
アボカドのムースはその上に乗っている魚卵との相性が抜群に素晴らしく、舌が多幸感でいっぱいになってしまう。
父を、前当主のことを考えての料理だというだけではない。この料理は万人に愛される素晴らしい逸品だった。
家の体面のために、食道楽な父や兄上たちのようにはならないと考えていたライナスの心が一瞬で揺らぐ。それほどまでの料理だった。
三年前にこの店で食べた、いや、今までの食の記憶の中でも、これほどの感動を受けた料理はない。
「ライナス。今日の料理は期待して良いかもしれんな!」
父のリドルが興奮気味にライナスに声をかけてくる。思わず同じ勢いで同意したくなったが、ライナスは体裁を保たなければいけない立場にあることを思い出し、「そうかもしれません」とだけ応えた。
だが、ライナスの心の内は決して落ち着いてなどいない。
なんという料理技術の高さなのだ。あれ程の美しさを具現化した存在でありながら、更にこれほどの料理の腕を持っているのか、彼女は! 才色兼備と言ってもこんなレベルの高さで成り立つなど。
いや、まだだ。まだ一品目に過ぎない! この料理がたまたま素晴らしい味だったという可能性も……。
しかし、ライナスのそんな考えは、続く<小菜>と<汁物>に打ち砕かれる。
「これは、なんという……。いや、この歳まで生きてきて、旨いものもある程度は食べ尽くしてきた気持ちであったが、まだまだ新しい発見があるものだな。なぁ、ライナス」
「……ええ。実に妙なる味ですね」
父親のように、この感動を全身を使って表現したかった。
だが、自分は視察に来ているのだ! 厳格な立場なのだ! ミスを指摘して改善を促すべきなのだ!
ライナスはこのとき初めて、自らの地位と立場を恨めしく思ってしまった。
そして、ライナスは内心でついには取り乱してしまう。
馬鹿な。こんな美味が存在するなど。まだ前菜とポタージュだぞ。これで……これで、メインディッシュを食べてしまったら、私は耐えられるのか? この国の法と秩序の番人であり、男爵家の当主としての立場を守れるのか……。
弱音まで出てきそうになるのを、ライナスは懸命に堪える。
負けるわけには行かないのだ! 私が厳格でなければこの国の秩序が乱れてしまうのだから!
再び魂をすり減らし、いや、それを燃やしてライナスは決戦であるメインディッシュとの対峙に備える。
だが、この時点ではライナスにも勝利の道筋があった。
これまで、父である前当主を気遣っての料理なのだ。当然、出てくるのは大好物の海老のポワレだろう。まだ食材とその味、食感が連想できるものならば耐えられる。
そう考えたのだ。
そして、そんな彼の予想は的中する。
メインディッシュの食材は海老であった。だが……。
「海老のクネルでございます」
給仕の若者が口にした名前は、料理の名称はクネルであった。てっきり父が一番好きなポワレが出てくると思っていたライナスは驚く。
しかし、同時に少し安堵した。
「そうか、クネルか……。いや、美味しそうだな」
海老の弾力を楽しめる、海老をカリッと香ばしく焼き上げたポワレが大好きなため、肩透かしを食らってしまった父には悪いが、ライナスは心の内で安堵した。
父の歯を気遣っての料理であろうと、その父本人が落胆してしまっては本末転倒である。
よかった。このまま素晴らしいポワレが出てきていたら、私は……。
ライナスは彼にあるまじき失態をこの時犯してしまった事に気づかない。そう、気づかなかったのだ……。
残念そうで、なかなか料理に手を付けない父に代わり、ライナスは柔らかなクネルを適切な大きさに切り、それをフォークで口に運ぶ。
そして、彼は言葉を失った。
もしも、油断さえしていなければライナスはまだ耐えられただろう。だが、油断してしまっていた。助かったと安堵してしまっていた。その僅かな隙が、致命傷となる。
「んっ、どうしたのだ、ライナス? 口に合わなかったのか?」
「…………」
父の声が聞こえるが、まったく声が出ない。体が震えてそれを抑えることもできない。
「……なっ、こっ、これは……」
怪訝そうな顔をしながらも、自らも海老のクネルを口に運んだリドルも言葉を失う。
クネルという料理は、肉や魚、そして今回のように海老をすり潰してつなぎを加えて団子状に固めたご馳走である。決してその調理法はポワレに劣るものではない。それは分かっていた。理解していたつもりだった。
だが、きっと父はもちろん、自分もここまでその料理に感動するなど思っても見なかったのだ。
本当に旨い料理を口にしたときには、人はただ一言も発せられなくなるということをこの時ライネスは初めて知った。
そして、それからライナス達は噛みしめるようにクネルを味わった。
さらに料理の締めくくりとして、<デセール>で氷菓が出されたが、これもまた絶品であり、ライナスは何一つ欠点を見出すことができなかった。
(負けた……のか? この私が?)
いや、勝ち負けの勝負ではなかったのかもしれないが、そう思わずをえなかったのだ。
それほどの衝撃をライナス達親子はルーシアという若い料理人から受けることになったのだから。
「失礼致します」
また、どのような音よりも好ましい音色がライナスの耳に届く。
そして、そちらを見ると、ルーシアが真剣な表情でこちらを見つめてくるのが分かった。
その瞬間、ライナスの心は完全に奪われた。
無理だった。
人の身ではいくらもがいても、神には逆らえないのだと認めざるをえなかった。
「本日の料理は、いかがでしたでしょうか?」
ルーシアのその問いに、ライナスは答えられない。だが、そこでリドルが「オホン」と少し大きめに咳をしてくれた。
そのお陰で、ライナスは我を取り戻す。
「……うむ。私からは特に何もない。今後もこの店を頼むとしよう」
ライナスはそこまで言うと、「父上から何かございますか?」と父に話を振ってボロが出ないようにする。
そして、そこは親子の以心伝心で、リドルは諸手を挙げて今回の料理を大絶賛した。
ライナスの代わりに、彼の分まで褒めてくれたのだ。
「お褒めに預かり光栄の至りです」
ルーシアはその言葉に感謝の意を表したが、
「ですが、畏れながら、この店の厨房を現在預かる身としてご提案をさせて頂きたく思います」
更にそう意見をしてきたのだ。
その勇ましくも美しい姿に、再び心を掴まれそうになりながらも、ライナスはそれを聞き入れることにした。
「いいだろう。君の思うようにするといい」
ライナスがそう答えると、「ありがとうございます」とルーシアは頭を下げた。
それを見ているライナスが、どんな気持ちであったかなどまるで知らずに。
この時、もう完全にライナスはルーシアに心を奪われていた。いや、魂にまでその存在を刻みつけられていたのだ。
そして、帰りの身支度をし、馬車に乗って家路に就いたはずのライナスは、そこで思いもよらぬ行動をすることになるのだった。




