⑭ 第十四話
たとえそれが仕事の一環であろうとも、久しぶりに父であるリドルと夕食を共にすることができることをライナスは嬉しく思っていた。
ただ、不安点もある。それは、自分たちが所有する店である<銀の旋律>のキカール料理長が先日体調を壊し、今は年若い副料理長がその代理を務めているのだというのだ。
料理長が健在であった頃から、ここ数年で少しずつだが確実に客足が減っていることを父共々心配していたライナスは、これは大掛かりなテコ入れが必要な時期に来たのではと考えている。
まして今は自分がシュハイゼン男爵家の当主となっているのだ。であれば、大鉈を振るっても問題はない。
店に馬車が到着すると、支配人が駆け寄ってきて愛想を振りまいてくる。だが、その表情には恐々としたものが感じられた。
それは、自分の店の料理と接客にそれほど自信がないことの現れだろう。こんな支配人では店の先行きが不安だ。やはり早急に……。
「ふふっ。ライナス。小難しい話は食事を楽しんでからにしないか?」
支配人に聞こえないように、父が耳打ちをしてくる。ライナスはその言葉にただ頷いた。
父にはこれまで随分と重責を担わせてしまった。それは、道楽者な兄達のせいもあるが、自分が若輩であったことも理由の一つである。
まだ六十歳になったばかりであるにも関わらず、刻まれた深いシワと薄くなってしまった頭部に父の衰えを感じ、ライナスは今後の父の隠居生活が楽しいものとなることを祈るとともに、そうなるように努めることを心に誓う。
支配人がドアを開けて、店の中に案内される。
父よりも先に自分が入店することになんとも言えない感覚がしてしまったが、表情には決してそれを出さない。たかが男爵家の小倅に出し抜かれて恨みに思っている者たちは多い。そんな奴らに決して弱点を晒すわけには行かないのだ。
だが、ここでライナスが思いもよらなかったことが起こる。
「いらっしゃいませ。<銀の旋律>に、ようこそお越しくださいました」
いの一番に聞こえてきたその美しい声に、ライナスは耳を疑った。
それはただの声のはずだ。若い女の声であるだけ。今まで数えるのも馬鹿らしいほど何度も何度も聞いてきた中の一種類にしか過ぎないはずのもの。なのに、ライナスは戦慄を覚えてしまったのだ。
「ほっほっほっ。そう言えば、キカール料理長は入院をしているのだったな。ということは、今日は副料理長であるルーシア君が料理を担当してくれるということだね」
言葉を失う自分の代わりに、父が話しかけるその人物は、紫髪の女性であった。そして、彼女が先程の声を発したのだと思うと、ライナスは胸の高鳴りを、激しくなる動悸を隠せない。
「父上……」
「ああ、すまん、ライナス。今回から、お前の仕事だったな」
別段、仕事を取られたなどと思うことはない。ただ、いまはそんなことよりも、この世のありとあらゆる楽器の音色さえも凌駕するような声の持ち主の顔を見たくて仕方がない。
「顔を上げたまえ」
こんな一言を命じるのに、何を自分はドキドキしてしまっているのだろうか? だが、駄目だ。早く、早く顔が見たい。これほどの美声を持つ女性の顔がどのようなものか知りたくて仕方がない。
ライナスはただじっと紫髪の女性が顔をあげるのを待った。
そして、その顔を見た瞬間、ライナスの思考は雷に打たれたかのように停止してしまう。
社交界に顔を出し、この国だけにとどまらず、色々な世界の美女を見てきたはずの自分が、見惚れてしまった。魅入られてしまった。美の造形を造り出す神が作ったとしか思えないその輝かんばかりの美貌に。
だが、それでもライナスにはこれまで培ってきた鋼の精神力がある。少しでも気を抜くとそれさえも一瞬で液化どころか気化してしまいそうだが、懸命に堪えて貴族としての立ち振舞を崩さない。
「……支配人から話は聞いている。君が今晩の料理をすべて仕切ったと」
全身全霊を込めて、ライナスは自らの声を冷たく低く、重いものにする。そうしないと、魂までも眼の前の女性に魅入られてしまいかねないから。
「料理長が病で倒れていることは考慮しない。今晩、私の前に出される料理と接客態度で、この店の今後を考える。……発言を許す。何か言いたいことはあるかね?」
普段以上に重くなりすぎてしまった声に、不安がよぎる。
その不安とは、自分のことを目の前の女性が怖いと、もしくは不快だと思わないかどうか。
いや、違う。冷静になれ、ライナス。お前はライナス=シュハイゼンだ。シュハイゼン家の当主であり、<天秤と剣>の最高責任者なのだ。そんな自分が、たかだか平民の娘一人に心を乱されるなどあってはいけないのだ。
ライナスは懸命に自分を心の中で鼓舞する。
しかし……。
「発言をお許しくださり、ありがとうございます。ですが、私から特別に申し上げることはございません。どうか、素敵な一時をお過ごしくださいませ」
自分の発言にもルーシアは怖気づくことなく、穏やかな笑みさえ浮かべてまっすぐにライナスを見つめてきた。
美の女神が具現したとしか思えない見た目に、天上の楽園の楽器もかくやという美声。そこに凛々しさまで加わったそれは、暴力的だった。理性を一瞬で持っていかれ、陶酔にも似た気持ちにさせられそうになる。
「……そうか。楽しみにさせてもらおう」
ライナスは懸命に顔を強張らせて鉄仮面をイメージする。
これほど、そう、これほどまでに魂さえも摩耗させて自らの心を偽ったことはなかった。
背中から汗が吹き出る。
こんな、こんな強敵は初めてだ。
だが、この出会いが敵とのそれでなかったことを神に感謝する。
もしもこれが政敵であったのならば、自分が、ライナス=シュハイゼンがこれまで積み上げてきたもの全てが終わってしまっていたはずなのだから。
ルーシアという名の美の化身が厨房に入っていったことに安堵するのと同時に寂しさを覚えてしまうが、ここが正念場だとライナスは呼吸を静かに整える。
落ち着け、落ち着くんだ。
法の天秤と正義の剣の名のもとに、自分は存在するのだ。
国王陛下とこの国の民たちのために私は存在するのだから。
心の中で<天秤と剣>の誓いの言葉を思い出し、ライナスはなんとか正気を取り戻した。
けれど、彼の心の強さを試さんとする試練は、始まったばかりだったのだ。




