⑬ 第十三話
ライナス=シュハイゼンは焦っていた。
それは、最愛の人物から、会いたいと連絡が入ったため。
緊急時の連絡として、馴染みの酒屋で暗号を伝えることで、彼女からのメッセージが自分に届く事になっていたのだが、それを彼女が利用したのだ。
その内容は、『明日の朝十時にどうしても会いたい。そして、そのときはどうか朝食を抜いてきて欲しい』というものだった。
ライナスは有利に進んでいた公爵家との交渉を本日は取り止めにし、最愛の女性と、ルーシアと会うことを選んだ。
辻馬車を偽装した馬車で移動しながら、ライナスは気持ちばかりが焦り、遅々として進まない馬車の遅さに苛立ちを覚えていた。
もしも、今の彼の姿が、職場で、<天秤と剣>で見られたのだとしたら、同じ職場で働く人間はこの上のない恐怖を味わっていただろう。
あの冷徹人間であるはずのライナス=シュハイゼンが苛立っているなど、前代未聞の大事件なのだから。
苛立ちで、「まだ着かないのか」と御者に文句を口にするのを堪えること二十数回。ようやく馬車は、目的地である最愛の女性の住む一軒家の前に到着した。
「ライナス様、着き……」
御者が到着を告げるよりも先に、ライナスは馬車のドアを開けてルーシアの家の前に立つ。
心のうちは罪悪感と高揚感が落ち混ぜになった複雑な気持ちなれど、彼はそれを努めて顔に出さないようにし、静かにドアベルを鳴らす。
「はい!」
家の中から声が聞こえた。
天使の歌声かと錯覚させるほどの美しい響きに、ライナスは幸福を噛みしめる。
ドアが開かれると、そこには女神がいた。紫の髪を背中まで伸ばしたこの世のものとは思えないほどの美しい存在が。どんな美しきアメジストも路傍の石と見紛ってしまうほどの、強き意志を秘めた二つの瞳が自分に向けられているだけで、ライナスは自分が彼女と同じ時代に生まれてこれたことを神に感謝するほどだ。
「ルーシア……」
「ごめんなさい、ライナス。忙しい中無理を言って……。でも、どうしても貴方に会いたかったの……」
いつも強気なルーシアの口から漏れるか細い声に、ライナスは、これまで磨きに磨いてきた理性というこの上なく頼りないものを使って耐える。このまま抱きしめてしまいたい気持ちを懸命に堪える。
「いや、問題ない。私の方こそ、申し訳がなかった。君に寂しい思いをさせてしまったようだ」
会えないことを寂しく思ってくれていた。自分と同じ様に。二人の気持ちは同じだった。それを理解し、ライナスは涙が出てきそうなほど嬉しかった。
「そうね。たしかに寂しかったわ。だから……。ううん、とりあえず家に入って。美味しい料理を用意してあるから」
「ああ」
案内されるままに家に入ると、空気が変わる。ああ、きっと天国と呼ばれるところはこのような大気に包まれているのだろうなとライナスは理解した。
家の中はシンプルな作りではなかった。いや、居住空間だけであればそう珍しいものではない。だが、まるでどこかの店の厨房を切り取ってそのまま持ってきたかのような巨大なキッチンがあまりにも目立っている。
「はい、こちらの席にどうぞ。ああ、私と貴方の二人だから、料理は先に全て並べてしまっても良いわよね? それと、一応言っておくけれど、料理の説明をするから、食べるのはそれからにして」
「もちろんだ。君と顔を突き合わせて食べる食事が、私には何より好ましい」
これから始まる至福の時間を考えるだけで、ライナスは天にも昇る心地だった。
「まずは、変わり種からね」
ルーシアがそう言ってキッチン奥の保冷庫から持ってきたのは、大きな青い皿だった。
「ほう、これは美しい……」
真っ白なものが薄く丸い大きな更に円を描くように、それでいて華のように並べられている。おそらく魚の身なのだろうが、あまりに薄く切られているため、皿の色が透けてみえるのがなんとも綺麗だ。
ルーシアは箸と一緒に小さな皿をライナスの前に配膳し、そこに柑橘類の香りがする深い茶色の液体を入れる。
「あらっ? 気味悪く思われるかもって心配したけれど、もしかして生魚も平気なの?」
「ああ。東方の料理も一通りは食べたことがある。我が家は食道楽の家系でもあるからね。もちろん、箸の扱いも問題ない」
そう答えたものの、ライナスは今目の前に置かれている白い身がなんの魚なのか分からない。それなりに刺し身も味わって来たのだが、こんなに薄い切り方をしなければいけない魚とはなんだろうかと不思議に思う。
「そういえばそう言っていたわね。でも、この刺し身は今まで食べたことがないと思うわよ」
「やはり珍しい魚のようだね」
ライナスがそう言うと、ルーシアは向かいの席に座って微笑んだ。いや、笑った。ライナスが今まで一度も見たことがない満面の笑みを見せて。
しかし、ライナスはその笑みを見て緊張を張り詰める。
明らかにその笑みが、不自然なものに思えたから。彼を魅了してやまないいつもの彼女の笑みとは明らかに違っていたから。
「ええ。珍しいわよ。だって、この魚はフグだもの」
ルーシアは笑みを浮かべたままそう口にした。
フグ。
その名前は海のあるこの街以外でも有名だ。その特徴である、食べてしまったら死んでしまうほどの猛毒を持つ魚として。
「今日は貴方のために、フグのフルコースを作ってみたの。焼きフグはもちろん、揚げたフグや煮て楽しむフグ料理もあるわ。どれも、腕によりをかけたんだから、一緒に食べましょう」
ルーシアは笑みを崩さない。
壊れたように笑顔しかしないのだ。
それを見て、ライナスはルーシアをじっと見つめる。
「ルーシア。料理の説明は以上かな?」
「ああ、それと、食べるときはその小皿に入れたポン酢というものに浸して食べてね」
「そうか」
ライナスはそう言うと、不意に破顔した。ニッコリと微笑んだのだ。その笑顔とは反対に、ルーシアの顔から笑顔が消える。
「では、先に頂こう」
ライナスはそう言って、微塵も躊躇せずに、箸で刺し身を数枚掴むと、それをポン酢に浸して口に運んだ。
「……うん。これは素晴らしいな。魚を軽く扱ったことはないつもりだったが、これほど濃厚な旨味を持つ魚がいるとは」
ライナスは笑みを浮かべたまま感想を述べる。
「……どうして……。どうして、そんな風になんの疑いもなく食べられるのよ……」
ルーシアは絞り出すような声で、涙ながらにそう呟いた。
「ルーシア……」
「馬鹿! 本当にこの料理はフグなのよ! 変な部分を食べてしまったら、死んでしまうのよ! 食べ慣れた人だって、勇気を持って食べるくらいなのに、どうして!」
ルーシアは今度は涙を流しながら怒り出す。
自分が作って食べるように言った料理を食べたら怒り出す。それだけ考えると意味がわからない。けれど、ライナスは痛いほどルーシアの気持ちが分かっていた。
「ルーシア」
ライナスは泣きじゃくるルーシアの元に歩み寄り、椅子の横から彼女を抱きしめた。
「ルーシア。すまなかった。君をここまで追い込んでしまったのは、ただただ私の失態だ。……不安にさせてしまったんだな。怖い気持ちにさせてしまったのだな……」
ライナスは愛しいぬくもりを感じながら、自らの罪を悔やむ。
そして、改めて思い出した。
やはり自分はこの女性を心から愛しているのだと。
何者にも代えがたい存在なのだと。
そう、初めて出会ったあの時から……。




