⑪ 第十一話
「ルーシア。君は長期の休みを取る必要がある」
久しぶりに夕食でもとライナスに誘われたルーシアは、案内されたレストランで席につくなり、彼から思いもよらなかった言葉を告げられた。
「なっ、何よ、突然……。休みならきちんと取っているわ」
ルーシアは驚き、言い返す。
「いいや、君のこの数ヶ月の出勤記録を確認している。それによると、君は誰よりも早くに仕事に出て、誰よりも遅くに帰宅しているのはもちろん、休みの日も他の若手料理人の指導を行ったり、新作メニューの開発に時間を掛け、睡眠時間を削っていることが明らかだ」
ライナスの指摘に、ルーシアは図星を突かれて言葉に詰まる。
「私は、君の卓越した料理技術と気配りの素晴らしさを理解しているつもりだ。だが、このままでは、君の健康に差し障りが出てきてしまう。明日からとは言わないが、遅くとも今月末からニ週間の休みを取って欲しい」
ライナスはいつもの仏頂面ながらも、その言葉は明らかにルーシアを心配してのものだった。それはルーシアにも分かったが、彼女もそれをすぐに受け入れることはできない。
「……駄目よ。料理長が不在な今こそ、厨房から、今までの退廃的な空気を一層できるチャンスなのよ。この機を逃したら、また料理長が戻ってきてしまったら、元の木阿弥になってしまう。それだけは避けないといけないわ」
ルーシアはそう良い、食前酒に口をつける。
「それに、いくら貴方があの店のオーナーだからといって、厨房の業務に口出しをする権限はないはずよ。料理長が居ない今は、私が全てを決める。それにはもちろん、私の休暇も含まれているわ」
「オーナーとして言っているのではない。私は君の婚約者として言っているんだ」
ライナスの言葉に、ルーシアは珍しく左手の薬指にはめてきた指輪を見て言葉に詰まる。
「今、社交界でも<銀の旋律>の話題が上がっている。料理長が不在となってからの方が料理の味が上がったと。そして、その理由は若き女性料理人のおかげだとね。だからこそ、貴族の予約も多く入るようになっているはずだ」
「……確かに、ここのところ貴族のお客様のご予約が増えているわ。でも、だからこそ、私が頑張らないと。貴族の方々も唸らせる料理を作らないといけないのよ!」
ルーシアは心からそう思う。だから、今は休んでいる暇などないと。
「ルーシア。君はカリスマ性がある。そして、他者を指導して人を育てる力も持っている。それは、数ヶ月前まで見習いに過ぎなかった料理人達が、君の指導で頭角を表すようになったことからも明らかだ。そして、君は新人を贔屓するのではなく、既存の料理人たちにも指導をしているのだろう? 叱責をするだけでなく、必ず改善点を口にしていると支配人から報告を受けているから間違いない」
そこまで言うと、ライナスも食前酒に口をつける。
「だが、君は他人に任せるということを嫌っている節があるのではないだろうか? 卓越した指導能力を持ちながらも、育てた人間を信用しきれていない様に思えるのだ」
「……私は副料理長よ。料理長が居ない間は私が厨房を守る必要があるわ。そして、私が一番腕があるのだもの。いついかなる時でも私がいないと、いざというときに対応ができないでしょう?」
反論しながらも、ルーシアはライナスの指摘の正しさを理解していた。
自分は他人を信じきれない。
生来の性格もあるが、幼い頃から競争相手と共に競い合っていた弊害。まだ親の愛情を受けて心を育むべき時期から、ただ料理に邁進しすぎていた反動。
ルーシアは自分さえ知らないうちに、他人に頼るということに恐怖を抱えてしまっていた。
怖いのだ。この上なく恐ろしい。
他人を頼りにして、それを裏切られるのが怖い。
誰もが持つ感情ではあるが、ルーシアのそれは、ずっと隠し続けていた心の弱さは、他者のものより一層過敏で、繊細なのだ。
だから、ルーシアは自分で物事を解決しようとしてしまう。
なまじ料理技術が群を抜いているがために、自分と同等以上の腕を持つ人間以外は信じきれないのだ。
「君の言うことも一理はある。だが、いずれ君は間違いなく料理長を務めることとなるだろう。その際には、自らが育てた料理人達を信じ、彼らを上手く使っていかなければならない。今回の長期休暇は、その予行練習だと考えて欲しい。
飽くまでも私の判断だが、君がいなくても、店の料理の味が多少落ちても、以前の水準に戻ってしまうことはないと考えている。そして、君の力は今後にこそ必要になってくるのは間違いない。だから、休暇を取って欲しい」
ライナスは真摯にルーシアに訴えかけてくる。だからこそ、ルーシアもそれ以上の反論はできなかった。
そして、心のわだかまりはなくなったわけではないが、それからの食事をルーシアは楽しむことができた。
今まで一人で懸命に頑張ってきた自分を心配し、きちんとしたアドバイスをしてくれる存在があることに正直ほっとした。この上なく嬉しいとも思った。
知らず知らずのうちに、ルーシアはライナスを自らのパートナーとして認めつつあったのだ。
それから、ルーシアは支配人からの命令という形で、月末からニ週間の休暇を取ることを店の皆に伝えた。
そして、その休暇まではルーシアは他の料理人達に熱意を持って指導を行った。
不測の事態を考慮した上で、店を任せるために伝えて置かなければいけない事柄があったからだ。
それもなんとか順調に終わり、ルーシアはようやく休みをこれから取るのだという気持ちになれた。
だが、休暇に入る数日前に、店を訪れてくださった貴族のお客様の噂話をきっかけに、ルーシアは不安に胸を痛めることになってしまう。
その噂とは、かのライナス=シュハイゼン氏と、デルネス公爵家の三女で<白の淑女>と呼ばれるリーナス=デルネス嬢の熱愛の噂。
これでまだすぐにライナスがルーシアの元を訪れ、その疑惑を否定したのであれば、話は違ったのだろう。
……けれど、ライナスはそれからしばらくルーシアの前に現れることはなかったのだった。




