小隊長辞令
高貴な御方の影武者を務めている最中に殺されそうになったけど、まあ、これも任務だ。 危ない目にあうのは兵士の宿命だよな。 無事生きて帰れた事を喜んで終わり。
それにしても俺って、ほんと、毎回危ないところを師範に助けられてばっかりだよなー。 そのお礼としてはあまりに慎ましいとは思ったが、師範に六頭殺しの若饅頭を持って行った。
北は、もうそろそろ夏。 北の冬が厳しい事は誰でも知っている。 でも春から初夏にかけて眩しいほどの美しい季節があっという間に過ぎた後、やって来る夏の厳しさは意外と知られていない。
暑い。 いや、もう、西の実家でもこれほど暑かったっけ、と言いたくなるほどの猛烈な暑さだ。 幸い、からっとした暑さだから何とか凌いでいるが。
北の家はどれも長くて厳しい冬の寒さに耐えられるように作られている。 じゃあ夏の暑さはどうするの? 窓を開ける? そんな事をしたら蚊の餌食だ。
あ、今、蚊に食われるくらい大した事ないだろ、とか思ったろ。 まーったく、北の蚊の恐ろしさを知らない奴はこれだから困る。 と言っても俺も入隊前はそんな事全然知らなかったんだけどさ。
ここに来て初めて蚊が「北の鳥」と呼ばれている事を知った。 それくらいでかい。 そしてわんさかいる。 これだけ蚊に苦しめられると知っていたら北の猛虎にどれほど憧れていたって北軍入隊を諦めていたのに。
まあ、もう入隊しちゃったんだからしょうがない。 蚊燻しとか、食われたらまず水で洗い流し、その後薄荷入りの軟膏をつけるとか、教えられた事は全部やった。 でも夜の寝苦しさはどうにもならない。
蚊帳がなくちゃ蚊に食われて眠れない。 だけど蚊帳をつけたら風が遮られて寝苦しい。 どっちにしても痒いし寝苦しいんだ。
早春の頃は結構な数の兵士が半袖を着ていた。 ところが夏になった途端、みんな長袖になる。 素肌だと蚊に食われるから。
おまけに危うく殺される目にあって以来、俺はよく悪夢に魘されるようになった。 毎朝どよーんとした感じで起き上がる。 食欲もない。
ちびちび食堂で食事していたら、猛虎が、という囁きが聞こえてきた。
「おい、聞いたか? 猛虎が中隊長だと」
「おお。 とうとう」
「待ってました! てやつ」
「おせえぐれえだぜ」
師範って、とっくに中隊長に昇進していいくらいの功をあげているんじゃね? という俺の思いに応えるかのように。 ちょっと耳を澄ますと、かなりの兵士がそちこちで師範の噂をしている。 あっという間に隊内を駆け巡ったのかもしれないが。 遅いよ、俺。
もし本当なら史上最年少の中隊長の誕生だ(二十五歳)。 しかも平民出身。 平民出身の中隊長は、平民だらけの北軍でさえ珍しい。 これはひょっとしたら、いつか皇国史上初の平民出身大隊長が生まれるかも?
嬉しい! 居ても立ってもいられないくらい。 俺は師範の所へ飛んで行った。
「中隊長昇進、おめでとうございますっ!」
師範が、ふっと笑って答える。
「随分気が早いな。 まだ公式発表されていないのに。 誰に聞いた?」
「何をおっしゃる。 もうみんな知っていますよ? 俺だって食堂でみんなが噂しているのを聞いたんですから」
「そうか。 じゃあ、お前にも言っておくか。 おめでとう」
「は?」
「お。 自分の昇進の事は知らなかったのか? そっちの方はしっかり秘密が守られているようだな」
「えっとー、俺の昇進って?」
「それを俺が今ばらしたらまずいだろ。 知っているのに、小隊長昇進なんて初めて聞きました、と驚く振りをする芸当、将軍の前でやれるのか?」
そう言って師範がにやっと笑う。
「ええっ?」
俺が小隊長? とても信じられなかったが、師範が言った事は本当だった。
「サダ・ヴィジャヤンを第一駐屯地第八十八小隊隊長に任ずる」
将軍執務室に呼ばれ、将軍から任命された。 冗談や間違いじゃない。
「謹んでお受けします」
とは答えたが、受けた後でつい、将軍に聞いてしまった。
「あのう、なぜですか?」
「なぜ、はないだろう。 皇太子殿下暗殺を未然に防いだ大功だ。 皇太子殿下直々の感状もここに戴いてある」
「でもそれは自分が襲われたから応戦しただけで。 皇太子殿下が襲われた訳ではありません」
「お前は皇太子殿下だと思われて襲撃された、そうだな?」
「はい」
「ならば皇太子殿下に害為す者を成敗したという事実に変わりはない」
ま、そう言われれば、そうかも?
そこでカルア将軍補佐からお祝いのお言葉を戴いた。
「おめでとう、ヴィジャヤン小隊長。 取りあえず今は弓の稽古の邪魔にならない程度の職務になるよう直属の部下は五名に限定した。 追々増えると思うが、増やす前に打診する。 その点に関して心配する必要はない。
とは言え、小隊長としての通常任務が全くない訳ではないのでソノマ小隊長を指導係にした。 オンスラッド中隊長に着任の挨拶をしに行く時の詳細は彼に聞いておくように。
小隊長に補佐はいないが、直属部下であるリッテル軍曹が補佐役を務める。 ぼうっとした外見に似ず、有能な男だ。 日常業務は彼に任せておけばよい」
そして小隊長証書と小隊長徽章を俺に手渡して下さった。
「小隊長軍服はモンドー将軍からの昇進祝いだ。 今ヴィジャヤン伯爵家の家紋を刺繍させている。 出来上がり次第、連絡が行くようにしておいた。 それと小隊長用の部屋へ移るように。 場所は中隊長補佐に聞くとよい。 引っ越しの人手を都合してくれるだろう。 こちらは給金の明細書だ。 何か質問があればシュエリ会計官に聞きなさい」
「な、何から何まで。 どうもありがとうございますっ!」
それでも昇進の実感なんて湧いてこない。 ちょっと浮ついた気分にはなったが。 将校の軍服って、かっこいいんだよな。
俺は部屋に戻ってトビに伝えた。
「小隊長に昇進しちゃった」
「おめでとうございます」
トビの瞳が喜びでかすかに潤んでいる。
え、涙? 確かに涙だ。
ひえーっ。 トビの涙なんて生まれて初めて見たかも。 昇進って、もしかしたらそれほどすごい事だったりする? ま、俺にとってはすごいよな。 昇進なんかしない、と言うか、出来ないと思っていたんだから。
トビが喜ぶくらいなら母上も喜んで下さるんじゃない? もしかしたら父上も。 ひょっとしたら兄上達も。
そこで初めて心の底から嬉しさが湧き上がって来るのを感じた。




