教育方針
「サリ様に関する準大公の教育方針を伺わせて戴きたいと存じます」
ここはどこ。 あなたは誰。 そんな?だらけの顔になったとしても俺のせいじゃない。 質問が悪いんだ。
いや、勿論、質問した人に文句を言ったりしませんよ。 俺の前に座っているのはエリュ・オベルテ皇王庁外戚部執務官。 泣く子も黙る皇王庁。 その中でも俺の人生を難しくしようと思えば簡単に出来ちゃう外戚部。 そこの部長に昇進するのは確実と噂されている御方だ。 将来、皇王庁長官になる可能性も高いらしい。 オベルテ侯爵家へ養子に出された、テイソーザ皇王庁長官の実子なんだと。
今日、俺はこの人に会う前からびびっていた。 正直に言うと皇王陛下に会う時よりも。 ぽん、と軽く投げられた玉でも緊張のあまり落としちゃうくらい。 なのにこんなすごい速さの変化球を投げて寄越すだなんて。 ありなの? なしでしょ。 絶対ルール違反ですっ!
え? そんなルールはない?
まっ、そのー。 この際ルールがあるかないかはどうでもいい。 少なくとも俺はスローな直球一本で生きてきた。 地道一筋。 それはオベルテ執務官だって知っている。 俺が今朝、ヨーグルトを食べた事まで知っている人なんだから。
念のため言っておくけど、これは嘘や冗談や物のたとえじゃないからね。 オスティガード殿下からサリへの贈り物に対する拝受御礼が無事に終わり、お茶を出す時お茶請けのお菓子は何がお好みか聞いたんだ。 そしたら何て答えたと思う?
「今朝準大公が召し上がったヨーグルトのお零れにあずかってもよろしいでしょうか」
ヨーグルトと牛乳は毎日配達してもらっている。 今朝も配達された事は執務官でなくたって知っているだろうさ。 でもヨーグルトを食べた事はどうして分かったの? 牛乳は毎日飲んでいるけど、ヨーグルトは気が向いた時にしか食べていないのに。
嘘発見人と嘘発見犬がいると知っている我が家の奉公人が、俺の日常を執務官へちくったりする訳がない。 それに今日はオベルテ執務官到着と同時に家族で神域へ出掛け、スティバル祭祀長からサリの二歳の言祝ぎを頂戴している。 家に帰って拝受の儀が終わるまで俺はオベルテ執務官の隣に立っていた。 奉公人へ質問していたらすぐに気が付く。
どうして知ったのかは分からないけど、これって要するに下手な隠し立てをしようとお前の事はついさっき何を食べたかまで知っているんだぜ、と脅しているんだろ。 ええ、ええ、しーっかり脅されましたとも。 だからちょっとは手加減してくれ。
はい? 自分だって変化球の魔術師と呼ばれているくせに?
何言ってるのっ! それは俺をふざけたあだ名で呼ぶ人の方が悪いんでしょ。 ほんと、世間の皆さんたら誤解の塊なんだからっ。
ちゃんと俺を見て。 変化球を投げる人に見える? あれって簡単そうに見えてすごく難しいんだぜ。
ま、なんで難しいと知っているのかはともかく。 ここで声を大にして言いたいのは、ヒャラを上品にする為必死に練習した俺の努力をどうしてくれる、て事だ。
今年の誕生日の贈り物を持って来るのは皇王庁執務官で、おそらく外戚部のオベルテ執務官という予想はトビから聞いていた。 オベルテ執務官と会うのは今回が初めてじゃない。 俺が叙爵された時、これからお世話になる皇王庁外戚部の人達を紹介されたから。
言いたくないけど、初対面の時からもう俺は好かれていなかった。 いくらにぶにぶの俺にだって分かるくらい、人をじろじろ疑り深い目で見ていてさ。 その目付きがテイソーザ長官にそっくり。
ただテイソーザ長官は最初はそんな感じだったけど、今ではとてもフレンドリーだ。 握手効果? そんなものがいつまで続くか内心不安だったが、ナジューラ義兄上の結婚式でも温かい瞳のままだったからほっとした。
温かい瞳って人に好かれるよな。 息子さんもお父さんの美点を見習って好かれる人になってほしい。 まあ、この人がみんなに好かれる人になっても俺のやる事なす事全て気に入らない事に変わりはないと思うけど。 俺を知らないで嫌っているならともかく、よーく知っていて嫌いなんだから。
テイソーザ長官の場合好かれていない時はあったが嫌われてはいなかった。 先代陛下お見送りの時にやったあれこれを不問にしてくれた事を見ても分かる。 オベルテ執務官が長官になったらそうはいかないだろう。 見逃すどころか、即サリの養育権を取り上げていると思う。
今だって取り上げたくてうずうず。 何かやらかしてくれ、そしたら問答無用で取り上げられるから、と待ち構えている感じ。 それは俺の被害妄想だとしても、サリの親として相応しいか疑いの目で見られているのは被害妄想なんかじゃない。 オベルテ執務官自身、そう公言して憚らないから皇王庁内で知らない人はいないんだ。
上品下品、世間にどう思われようと構わないが、この人に皇王庁のクレームをわざと無視したと思われたくない。 その一心でヒャラを上品に踊れるよう一生懸命練習したのに。 師範にケツを蹴られたせいもないとは言わないけど。
正装軍服の下にゆるゆるの下着を着たのだって贈り物を受け取ったら、いの一番に踊ってみせろと言われると思ったからだ。 この人ならきっと俺が今着ている下着の色さえ知っている。 なのに教育方針? 俺が答えられないと知って聞いているんだろ。
あ。 もしかしたらわざとヒャラの件をはぐらかしている? 俺が皇王庁のクレームをどれだけ真剣に受け止めたかを知りたくて、とか? その一縷の望みに縋って聞いてみた。
「あの、私のヒャラの踊り方に問題があると聞いて直したのですが。 それをまず御覧になりませんか?」
「教育方針の方が余程大切です。 準大公はそう思われないのでしょうか」
そこでようやく、昨日トビが警告したのはこの事だ、と気付いた。
「旦那様。 明日、不測の事態が起こるかもしれません」
「不測の事態? 使者が来ないかも、て事?」
「いえ、使者の御到着は予定通りかと存じます。 ですが外戚部執務官には外戚の皆様に抜き打ち検査をする事が許されておりまして。 お健やかなサリ様を拝見すれば重箱の隅を突く事なくお帰りになるかもしれませんが。 皇王庁内では準大公に任せておけば大丈夫という所までは行っていない様子。 オベルテ執務官はその懐疑派の中心人物なのです。
旦那様に対する陛下の御信頼が厚い事は大変心強い事。 皇王庁長官も以前とは違うと傍目にも分かる程態度が軟化しております。 ですが、お忙しい陛下、皇王庁長官に細かい所をお決めになるお時間はございません。 それをするのが外戚部執務官の職務」
「じゃ、なんで今まで何も口出ししてこなかったの?」
「それは瑞兆が前例なき存在であった為、サリ様にとって何が最善か、皇王庁内での合意が得られなかったからでしょう。 現時点でさえ合意に達したとは聞いておりません。 だからと言って当家の流儀でよいとなった訳でもなく。 全部とは言わないまでもいくらかは皇王家のしきたりに従うよう要求されると思われます」
そう警告はされたけど、では何を要求されるのか。 それはトビにも予想出来なかった。 教育方針を質問されるなんて思ってもいなかったから正解なんて分からない。 オベルテ執務官が正解を教えてくれないかな。
言っておくけど、思っただけだから。 いくら俺だってほんとに聞いたりしませんよ。 そこまでヒャラってないし。 聞いた所で俺を嫌っている人が教えてくれる訳がない。
こんな時、隣にトビがいてくれたら。 だけど皇王族からの贈り物を受け取れるのは本人か本人の両親だけ。 それ以外の人は同席する事さえ許されていないんだ。
それにトビがいたとしても教育方針を聞く事は出来ない。 そんな事をしたらトビの教育方針でサリを育てている事になっちゃう。 さすがにそれはまずいだろ。
リネはお腹が大きくて贈り物を受け取る時に腰を九十度に曲げて屈むのはきついから今回は失礼させて戴いている。 もっとも教育方針なんてリネだって答えられなかったと思うが。 そういう事は私よりもっと賢い方に聞いて下さい、とか言いそう。 それって俺が採点する人だったら百点満点あげるけど、オベルテ執務官にそう答えたら養育権を取り上げられるような気がする。
どうしよう? 分からないから取りあえず黙った。 答えない。 何を聞かれても。
これって中々上級テクなんだぜ。 簡単そうに見えて簡単じゃない。 何も考えずに話せたらそっちの方がよっぽど楽だ。 答えたくない質問をするような人は大体、俺が聞いているのに無視しようってのか、お前も偉くなったもんだな、と圧をかけて来るような人だから。 そこを踏ん張る。 夜明けがいつか来ると信じて。
実は、夜明けが来なかった時もある。 きちんと数えれば来なかった時の方が多いかも?
ま、そういう細かい事を数えていたら何も出来ない。 幸か不幸か、俺の部下は平気で上官に圧をかけて来るような人ばかり。 散々鍛えられたおかげで結構長時間我慢出来る。
ところがオベルテ執務官は俺より一枚上手だった。 だんまりがどうしたと言わんばかり。 静かに、師範と競る圧で言った。
「どうぞごゆっくりお考え下さい。 お答え下さるまで待ちます。 何日、いえ、何ヶ月。 何年であろうと」
し、師範と競る圧? 自分で言っておいてなんだが、怖いよっ!
オベルテ執務官、恐るべし。 未来の皇王庁長官とお声がかかるだけある。
どんなに強烈な圧だろうと、トビならお帰りはあちらとあしらえると思うが。 執務官を追い出すなんて執事の独断ではやれない。 主が命じないと。 でもそんな命令を出したらせっかく温まってきた皇王庁との関係が二月の気温並に下がるだろう。
かと言って、この人に居座られたらもっと困る。 きっと俺のやる事なす事に一々文句を言う。
なら穏便にお引き取り戴けるよう、テイソーザ長官に泣きを入れるか? それで当座は凌げたとしてもテイソーザ長官が退官なさってこの人が長官になったら? あの時はよくも上司にちくってくれたな、となるんじゃない? 文官の退官年齢は軍人の退役年齢程かっちりしたものじゃないらしいが、テイソーザ長官は来年退官なさるお年だ。
じゃ、最後の切り札、陛下にお縋りする? それだけはやりたくない。 それでなくてもエナの件で皇寵を使い、やりたい放題と世間の皆さんから思われているのに。 やりたい放題なんてしていません、と胸を張って言えなくなるだろ。
やっぱりだんまりでオベルテ執務官に対抗するのは無理か。
ごくんとつばを飲み込む。 教育方針を考えた事はない。 でも新しく来た奉公人に必ず言っている事ならある。 遊ばせてあげて、と。
「教育方針と言えるかどうかは分かりませんが、サリ様が毎日楽しくお遊び戴けるよう心がけております」
「具体的にどのようなお遊びをなさっていらっしゃるのか伺わせて下さい」
「季節によって違いますが、秋はりんご狩り。 冬は雪でかまくらを作ったり、雪滑りをしたり。 春はお花を摘んだり、夏でしたら湖で水遊びをなさいます。 この夏は泳ぎ方の練習を始めようかと」
「大変危険な遊びばかりさせていらっしゃる」
「は? 危険、ですか?」
「第一に、りんご狩りですが。 それ自体に危険はなくとも非常に手薄な警備でお出掛けになり、しかもそこで猫又を拾われました。
第二に、雪が降っている日でさえ外へお連れになった。 北の冬は外で遊べるような気温ではないはず。
第三に、皇王族は原則として土に触れる事はありません。 御幼少の頃は汚れた手であっても構わずお口に入れたりなさるので。 お花摘みはその禁忌に触れております。
第四の水遊びに至っては言語道断。 万が一サリ様が溺れたらどうなさるおつもりですか」
俺だって言い返そうと思えば言い返せる。 手薄な警備だからぱっと出掛けて、さっと帰れたんだ。 それに猫又を拾ったのは一度きりだし、そもそもその件は不問とされたじゃないか。 今更蒸し返す気、とか。
北の子供達なら冬でも元気一杯、外で遊ぶ。 軽くて暖かい防寒着を着せているし、吹雪の日に外へ連れ出したりはしていない。 サリが外で遊ぶ時はいつもエナが水と手布巾を持ち歩き、手が汚れたらすぐに拭いてあげている。 水遊びだって何人もの大人が片時も目を離さないのに溺れたりするもんか。
と口答えしたらオベルテ執務官のただでさえぎらついた瞳がもっとやばい事になりそう。 で、黙っていたら、かえって癇に障ったみたい。
「要約すれば、サリ様に危険な遊びを教える事が準大公の教育方針なのでしょうか」
ひっ。 な、何? 頬がびしばし叩かれたみたいに痛いっ。 オベルテ執務官スペシャル?
助けてっ。 サジ兄上っ!
つい、苦しい時の兄頼みをしてしまった。 サリの教育方針となるとサジ兄上にだって聞けないが、俺がどうしたらいいか分からない時、よしよし、分からなくても大丈夫だよ、きっと何とかなるから、と慰めてくれるんだ。 この場合、分からなくてもいいとは言わないかもしれないけど。
はああ。 いっそオベルテ執務官に正しい教育方針を教えて下さいと頼んじゃう? そうしたらもう責められずに済む。 ただ俺は楽になるけど、サリが遊ぶ事は許されなくなるだろう。 と言うのも以前エナに聞いた事があるんだ。
「皇王族の皆様は普段どんな遊びをなさるの?」
「どんなとおっしゃられましても。 皇王族の皆様に遊ぶ時間はございません」
「え? そりゃ大人になればお忙しいと思うけど、子供は遊ぶだろ?」
「いえ、それは逆です。 成人となられましたら趣味の時間をお取りになるのに皇王庁の許可は必要ありませんが、成人前の皆様の日程表は皇王庁によって決められ、御自分で勝手に変更する事は出来ません。 行事とお勉強で詰められておりますので遊ぶ時間はないかと存じます」
そう言われて思い出したが、レイ義兄上の日程表に遊びの時間はなかった。 訓練中の休憩や移動時間ならあったけど。 あれは大人だからと思っていたら、子供もあんな感じで毎日勉強させられるの? うげーっ。
「お勉強ばっかりしていたら運動不足になるよ。 サリのかけっこの勢いだってお天気のいい日に外に出たら違うし」
「後宮は広うございます。 樹木、湖、公園もあり、徒歩でしたら大人でも一日では周り切れない程。 御寝所があるのは内宮。 そこからどこへ移動なさるとしても片道二キロ、往復四キロを移動なさいます。 終日一カ所に滞在なさる事は稀で、十キロを越える距離をお歩きになる事も珍しくはございません。 運動不足の御心配はなさらなくとも大丈夫かと存じます」
「でもエナはここに来るまでかけっこ、て何だか知らなかったよな?」
「走るのは淑女のする事ではないと言われておりましたので」
かけっこが出来なきゃ死ぬ、て訳でもないけどさ。 広い場所があろうと走っちゃだめ、遊んじゃだめ、と言われたら何も出来ない。 好きで勉強しているなら止めないけど、好きか嫌いか分かる前に勉強ばかり詰め込まれたらかわいそうだろ。
オベルテ執務官に逆らいたくはないが、ここで引き下がったらサリの毎日は勉強一色だ。 必死に頭を絞り、以前スティバル祭祀長がおっしゃったお言葉を使った。
「雪に触らず雪の冷たさを知る事は出来ません」
これを聞いた時、さすがは祭祀長。 いいお言葉をおっしゃるなあと感動した。 オベルテ執務官も感動して引き下がってくれ。
「それは凍傷になる危険を冒してまで知るべき事ですか」
感動してくれなかったみたいだな。 言った人が俺だったのが敗因?
「う。 そ、そうならない為にどうしたらいいか、学んでおいた方がいいでしょう?」
「雪が降らない皇都でお暮らしになる皇王妃陛下が学ばねばならぬ事とも思えませんが」
「し、しかし、あれはするな、これもするなでは、やる前に諦める癖がつくと言うか」
「尊き瑞兆といえども全てが許されている訳ではございません。 それどころか諦めねばならぬ事が多々あるお立場」
「だからこそ、今は。 今だけは。 自由に遊んで戴きたいのです。 諦める日が来る前に」
「毎日学べばそれが日常となり、遊びを知らなければ遊びたいとは思わぬもの。 遊び癖がついてから止めさせる事こそ惨い仕打ちでは」
「遊べないだなんて。 それじゃ面白くないです」
「面白い必要がございますか。 上に立つ者は規範として生きる運命。 忝くも陛下は日々実践していらっしゃる。 規範である御方を支えるのも重責。 皇王妃陛下としての規範を学ぶ事こそ最重要学習項目であり、サリ様の御為になるかと存じます」
きはん、て何ですか、と聞いていい相手じゃない。
「あの、少々、お待ちを」
俺は小走りにならないよう注意しながらドアを開け、廊下で待機していたトビに命じた。
「オベルテ執務官にお茶のおかわりを」
「畏まりました」
そう答えるトビの耳元に小声で聞いた。
「きはん、て何?」
「お手本。 行動や判断のお手本となるものです」
まあ、意味は分かったけど。 自分は人のお手本になっていないのに娘には人のお手本になれって言う訳? 言えないなら言えないで、だからお前はサリの親として相応しくないんだと言われそう。
じゃ、お手本になっている人に親になってもらう? それって皇王陛下と皇王妃陛下? 無理なんじゃないの?
新年に会った時、サジ兄上が教えてくれた。
「今までは両陛下が普段お子様と交流なさる事はございませんでした。 遊ぶだけではなく、御一緒に御飯を召し上がる事も。 御一緒に何かをなさるのは行事がある時のみで」
「でも年中何かしら行事があるんですよね?」
「行事に参加出来るのは満五歳になってからです。 それまでは年に一回、新年の時に御面会なさるだけでした。 陛下は私の進言をお聞き入れ下さり、今ではオスティガード皇王子殿下と御一緒にお過ごしになっていらっしゃいますが。 毎日は御都合がつかない為、御面会は週に一度です」
御実子でそれならサリの顔を見る機会だって週一がせいぜいだろ。 そんなの親として育てたと言える? 両陛下はお忙しくても後宮にはきはんとなれる方が他に沢山いらっしゃるとは思うけど。 サリに皇王妃としてのきはんを教える人は一度も皇王妃になった事がない人、て事になるよな。
自分で経験していないから教えられないとは言わないさ。 でも家を建てる勉強はしたけど実際家を建てた事は一度もない人に自分の家を建ててもらう気にはなれない。 それをオベルテ執務官に言ったって蹴散らされるだけだと思うが。 今サリを育てているリネだって皇王妃になった事はないんだから。
もうこうなったらやぶれかぶれ。
「きはんは大切だと思いますが、楽しくなければ子供は元気になれません。 毎日を楽しく過ごす為には遊びも大切です。 皇王族のお子様が行事に御参加なさるのは満五歳からだとか。 きはんを学び始めるのはそれからでも遅くないのではありませんか?」
今度はあちらが黙った。 俺のだんまりの百倍の迫力で。 口答えする気か。 言う事を聞かなかったら、お前が聞きたくない事を聞く事になるぜ、と脅すかのように。
思わず、悪うございましたっ、私の考え違いをお許し下さいっ! と謝りたくなったが、ぐっとこらえる。 ここで謝るか謝らないか。 俺にとって大した違いはなくてもサリにとっては大違いだ。
オベルテ執務官が何かを言おうとした時、二階で遊んでいるサリの甲高い笑い声が客間に響いた。 なんて間が悪い。 すやすや眠るサリは天使じゃないかと思うくらいかわいいが、起きているサリは悪魔の生まれ変わりじゃないかと思うくらいいたずらっ子だ。 誰もそんないたずらを教えていないのに。 サリに比べたら俺が今までやった事なんてかわいいもんさ。
それでも言葉が話せない頃はまだよかった。 両陛下とオスティガード殿下へ新年の御挨拶をした時いきなり、さぼらせてー、だぜ。 あれには参った。 御挨拶と言ってもサリに挨拶しろとは言ってない。 いきなり叫んで床を転がり始めたんだ。
幸い両陛下はさぼらせてという言葉を御存知なかったらしく、オスティガード殿下と一緒に転がるサリをにこやかに御覧になっていらしたが。 寿命が五年は縮んだね。 あの場にいたテイソーザ長官始め、侍従、女官、文官、警備兵は皆さん目を細めて嬉しそうだったが、オベルテ執務官の渋い顔ったらなかった。 もっともあの怒りはサリに向けたんじゃなく、無作法を平気でする子に育てた親に怒っていたんだろう。
どうすれば正解だったのか今思い返しても分からない。 後でいろんな人に意見を聞いたが、満場一致でこれが正解みたいなものはなかった。 俺の真似なんかしないで、と言ったのはまずかったという点では一致していたけど。
リネの手拍子が聞こえて来た。 サリがぱちぱちしてー、と強請ったんだろう。 それに合わせて踊るのが大好きだから。
結構いい運動になっていると思うんだが、顔を真っ赤にしてうんちをがんばっているように見えるんだよな。 オベルテ執務官が見たら、なぜトイレに連れて行かないのか、と怒りそう。 エナによると皇王族の皆様には専用のおトイレ部屋があり、幼児の時からそこ以外で用を足す事はないようにしつけられるんだって。
でも踊りの邪魔をしたら、リネでもここまでは出せないと思うような大声で泣き出す。 皇王族を泣かせるのは重大な罪で、泣かせた人は罰せられる。 お子様が五歳以下なら罰せられないが、二歳以上なら始末書を書かされるらしい。
ただ夢中になって踊っていると、その最中にうんちしちゃう時もあるからさ。 踊っていらっしゃいますと説明した途端、誤摩化しようのない臭いが漂ってきたりして。 そんな時どう言い訳したらいいの?
その答えが見つかる前にオベルテ執務官が言った。
「遅いか遅くないか、サリ様にお目通りしてから判断させて戴きます」
ううう。 どっちにしても皇王庁から家庭教師が千人くらい送られてきそう。 かと言ってここで座り続けても何の解決にもならない。 俺は出来るだけゆっくり時間をかけて立ち上がった。
「ではサリ様の遊び部屋へお越し下さい」
サリが突然お行儀よくなって、これなら教育方針など必要ないとオベルテ執務官が思ってくれないかな。
……くれないだろうな。




