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弓と剣  作者: 淳A
遠雷
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正妻  ニーナの話

「ダンホフ公爵夫人から奥様へ贈り物が届いております」

 ダンホフ公爵夫人? 思わず聞き返しそうになったけれど、思い直した。 優秀な執事であるナーザランが贈り主の名前を間違えるはずはない。 いくらダンホフ公爵夫人から贈り物を受け取るのはこれが初めてと言っても。


 実は私からダンホフ公爵夫人へ何かを贈る事も旦那様から禁じられており、世間で言う所の疎遠な関係となっている。 ただ旦那様によると、そういう関係であるのは何も私に限った事ではないようで。 本邸に住んでいる庶子や庶子の配偶者も公爵夫人とは年に一度新年会で挨拶を交わすだけ。 会話らしい会話を交わす事はないのだとか。 しかも会話がないのは公爵夫人に限った事でもないらしく。

「ダンホフを名乗る者の中に無駄話をする者など一人もいない。 いたらその無駄話が終わる前に殺されている。 時は金なり。 時間を無駄使いした者は金の無駄使いしたも同然。 ダンホフを名乗るに値しない」

 冗談でおっしゃっているようには見えなかった。


 とは言え、親戚付き合いが全くないという訳では勿論ない。 半年前リジューラが生まれて以来、ダンホフ公爵家からは様々な贈り物を頂戴している。 但し、全てダンホフ公爵から旦那様宛だ。 贈り主が公爵夫人だった事はないし、贈り物が私宛だった事もない。 戴いた物にしても産着や玩具等、世間でよく選ばれる物が多く、孫の誕生を喜んだダンホフ公爵が自ら選んだ物のようには見えなかった。 貴族は親の顔を碌に見ないで育つし、親子の情などある方が珍しいから当然なのだけれど。

 それにダンホフ公爵には庶子の子、孫が既に二十人近くいる。 正嫡子の子という意味ではリジューラが初孫になるけれど、ダンホフではなぜか庶子の地位の方が正嫡子より高いのだとか。 ましてやダンホフ公爵夫人は後妻。 先妻の子に息子が生まれた所で興味などなくても不思議はない。


 ただ公爵夫人は無関心でも、対人関係を管理している秘書が何人もいるはず。 公爵夫人ともなると親族だけで数百人いるのだから。 旦那様にとっては愛人に過ぎない私にさえ専任秘書が一人いる。 私が気付かなくても秘書が気付かないという事はあり得ない。

 第一正嫡男子の第一子誕生に出産祝いを何も贈らないのは穏当を欠くし、親族の誰からも一つもないのだ。 これはいかに疎遠な関係だろうとおかしい。 公爵夫人より何も贈るなという指示があったからとしか思えない。 或いは、如何致しましょうと秘書に訊ねられた時、無言を通したか。

 無視はそれ自体一つのメッセージ。 秘書のユーストはその辺りの機微に聡いので、公爵夫妻の誕生日や公爵家のお祝い事に私の名前で贈り物をした事はない。 旦那様から公爵夫人に贈り物をしているのかは知らないけれど、旦那様の秘書から聞いた所によると、旦那様でさえ公爵夫人から何かを頂戴した事はないのだとか。 だからその愛人に贈り物がない事を不思議に思った事はなかった。


 偶々その日は旦那様も御在宅だったので、この珍しい贈り物について聞いてみた。

「旦那様は理由を御存知ですか?」

 微かに頷かれる。

「サプライズ、と言うか」

 サプライズ? では私を喜ばす為の贈り物?

 でも旦那様からならともかく、公爵夫人からのサプライズとは。 どうしても信じられない。 私に何か慶び事があった訳でもないし。 あちらで慶び事があったのかもしれないけれど、慶びのお裾分けなど今まで一度もされた事がないのに。

 もっともダンホフ公爵家の第一正嫡男子が代々庶子に殺されている事は有名だ。 旦那様が今生きているという事だけで充分祝うに値すると言えない事もないのだけれど。

 昨秋ナジューラ様が次代となられ、旦那様は分家を許された。 もし旦那様がお亡くなりになったら全財産はリジューラが相続する。 旦那様を殺すつもりなら分家は本家にとって大変な不利益。 リジューラも殺せば資産は本家に戻るとは言え、そもそも分家を許すか許さないかは本家次第なのだから最初から許可しなければいいだけの話。 分家を許可するとは即ち、次代様に旦那様を殺すおつもりはないと世間に公表したようなもの。


 すると次に来るのは当然旦那様の御結婚。 殺される予定はなくなり、一家の主となったのだから妻がいないのは体裁が悪い。 今の所私をお側に置いて下さっているけれど、子爵家庶子は正妻として相応しくない。 戸籍上は無爵だから、それだけ見れば子爵家庶子が正妻でもそう不釣り合いではないけれど、ダンホフ公爵分家は普通の家とは格が違う。 最低でも伯爵令嬢以上でなければ釣り合わない。 殺される運命という噂が完全に消えるには時間がかかるとしても、ハンサムで資産家の旦那様の正妻になりたい女性はいくらでもいるはずだ。


 深い森のような旦那様の瞳に隠し切れない感情の揺れが浮かぶ。

 照れ? 気まずさ? 迷い? それとも?

 もしかしたら旦那様の正妻がとうとう決まったのだろうか。 私はお払い箱。 それで手切れ金代わりの贈り物を、私に? それならサプライズと言える。 旦那様にとっては慶事。 ならば私にとっても喜ぶべき事。

 いずれこの日が来る事は覚悟していたし、すぐ旅立てるよう、旅行鞄も詰めてある。 但し、その用意は私が追い出される時の為にしたのではない。 リジューラを抱いてブルセルに逃げる為だ。 成功するかどうかは分からないけれど。


 そのような無茶をしてもよいのか迷わなかった訳ではない。 けれどダンホフ公爵から戴いた産着や玩具には全てダンホフ公爵家の家紋が入っていた。 ダンホフでは子に産着を用意するのは父の役目。 祖父が贈る事はしない。 贈るにしてもリジューラ誕生と同時に分家が決まり、新しい家紋を頂戴したのだから公爵家の家紋は入れられないはず。 公爵家の家紋が付いているとは、この子を将来ダンホフ公爵家に養子として迎えるという意味になる。

 次代様に正嫡男子はまだいらっしゃらない。 たとえ御結婚後すぐお子様が授かったとしてもリジューラより年下となる。 しかも今度お迎えになる正妻は、子が授からなかったという理由でデンタガーナ王太子殿下に離縁されたミサ・リューネハラ様。 もし正嫡子が生まれなかったら、或いは生まれても女の子だけだったら、リジューラがダンホフ公爵家の第一正嫡男子となってしまう。

 もしや庶子に殺される正嫡子が必要だからリジューラを養子に望んでいる? そんな疑いがどうしても消せない。 そもそもなぜ第一正嫡男子を殺さなければならないの? 理不尽な、と思うけれど、しがらみで身動きの取れない貴族の世界では理不尽がまかり通る。 理由にもならないような理由で殺される子など数え切れない。 リジューラがその一人と決まった訳ではなくとも決まってからでは遅過ぎる。 その前に逃げなくては。


 逃げ切れるだろうか? これは押し寄せる大波を女手一つで止めるようなものではないの? だからと言ってやる前に諦める事は出来ない。 どれ程成功の望みが薄かろうと。 母である私が守る事を諦めたら他の誰がリジューラを守ってくれると言うのだろう。

 旦那様は出来るだけの事をして下さると思うけれど、リジューラの為に全てを捨てて下さいとは頼めない。 でも私なら自分の命だろうとあの子の為に捨てられる。

 ただ国内ではどこに逃げようとすぐに捕まってしまう。 ブルセルなら安全とは言えないけれど、国内よりはまし。 幸い私の母はブルセル出身で、私もブルセル語が話せる。

 そんな事を考えているだなんて旦那様にも言えない。 人の気持ちを読むのに長けていらっしゃる御方だから、私が何も言わなくともお見通しなのかもしれないが。 それなら尚の事、我が子を生かす為の無謀を見逃して下さるのではないだろうか。

 でももし今日、贈り物を持って出て行けと言われたら? リジューラを連れて逃げる機会が再びあるかどうか分からない。 明日旦那様がお仕事にお出掛けになるのを最後に見送りたい、と言う? それなら一晩くらいお許し戴けるだろう。 夜より昼に逃げ出した方が追手に気付かれずに遠くへ行ける。


 明日の段取りを忙しく考えている私は上の空で、応接間に運び込まれる二つの大きな箱を眺めた。 美しい木彫りに覆われ、蓋に旦那様の家紋が入っている。

「開けてごらん」

 旦那様がそうおっしゃるので最初の箱を開けると見事な式服が現れた。 家紋が沢山刺繍されている。 どう見ても正妻の正装だ。

 もう一つはため息が出るような煌びやかな舞踏会服。 これにも家紋が沢山刺繍されている。 愛人でも正装に婚家の家紋を付ける事は許される。 一つだけなら。 他に付けるとしたら実家の家紋でなければならない。 私の父はベネッシュ子爵だけれど、私は庶子だからベネッシュ子爵家の家紋でさえ一つしか入れられない。 私の母は平民で家紋は持っていないから。


 儀礼服の刺繍の数を間違える人はいないと思うけれど、もしいたらその服を燃やされるだけでは済まない。 なぜこれが私宛?

 まさか私が正妻として認められた? 一体、いつ? ここで喜んでいいのか、ためらわれた。

「あの、これは」

 なんと言葉を続けてよいものやら途方に暮れ、旦那様を見つめた。 旦那様は服の上に置いてあったメッセージカードを開け、お読みになった後で私に差し出された。


「我が娘へ

 次代様の結婚式に出席する為の服を贈ります。 直しが必要なら同行のお針子に申し付けるように。

 母より」


 貴族の正妻は継子の妻であろうと我が娘と呼ぶ。 けれど、それは正嫡子に限る。 庶子の妻を我が娘と呼んだりしない。 養女にしたのでもない限り。 ダンホフ公爵夫人にはユレイア様の他に正嫡子の娘はいないし、彼女はヴィジャヤン夫人となったから、他家の家紋だらけの服は着れない。

 他にダンホフ公爵夫人の「我が娘」がいるとしたら正嫡子の妻、ミサ様だ。 でもそれなら分家の家紋を使うのはおかしいし、リューネハラの家紋が入っていない。 それによく見ると服の左肩に付いているのはベネッシュの家紋だ。


「着てみなさい。 直しが必要なら早い方がいい」

 勧められるまま試着すると、私の身長と現在の体重に合わせて作ったかのようで内心驚いた。 出産以来体重はかなり減ったものの産前の体重には程遠いのに。

「お直しは要らないようです」

「まあ、念のためだ」

 旦那様は服を持って来たお針子を応接間に招き入れた。 彼女は私を上から下まで注意深く観察し、メモを取り始める。

「奥様。 申し訳ございませんが、こちらの椅子にお座りになってみて下さい」

 それ以外にも腕を上げたり曲げたり、ダンスでする動きをさせられた。

「お疲れ様でした。 お直しには二週間程頂戴致します。 髪飾りと小物ですが、昼用と舞踏会用、夫々いくつか大奥様よりお預かりして参りましたので御覧下さい」

 そう言って、持って来た宝石箱を開け、中身を全て取り出した。 髪飾りは手の込んだデザインで、ロックがあしらわれているから最近作らせた物に違いない。 首飾り、耳飾り、指輪は勿論、ハンカチや扇子でさえ一目で高価な物だと分かる。

 高い物を頂戴しては申し訳ない。 でもどれなら安いのか? 宝石類はいつも旦那様がプレゼントして下さる。 自分で買った事がない私には全然見当が付けられなかった。

 旦那様にしても値段を御存知かどうか。 出入りの商人が持って来る品に値札が付いていた事はないし、旦那様が値段をお聞きになった事もない。 品選びをするのは私の服飾担当の侍女で、旦那様は首を横に振るか頷くだけだ。

 ハンカチが無難だと思うけれど、以前友達に一枚十万ルークのハンカチを見せてもらった事がある。 私の目の前のハンカチはそのハンカチよりずっと高額に見えた。

 かと言って、この扇子なら更に高額だろう。 ブルセル産の最高級香木を使っている。

 では、指輪? シンプルで、お値段は張らないかもしれない。 でも結婚指輪にしか見えない。


「こちらもお試し下さい」

 お針子はそう言って、美しい手提げ袋から箱を三つ取り出し、家紋刺繍入りの靴を差し出した。 儀礼服と舞踏会用、そして室内履き。 どれも私のサイズに合わせて作ったかのようにぴったりだ。

 それを確認すると、お針子は靴箱をナレイザに手渡した。 靴は遠慮しなかった。 家紋が入っている上に、私のサイズは女性にしては大きい。 遠慮した所で私以外に履ける人はいないだろう。

 誰が私のサイズを公爵夫人に教えたのか? 執事? 侍女?

 私の奉公人に聞かなくともダンホフ公爵夫人なら私の靴職人が誰か、調べられるような気もする。 ただなぜそんな手間をかけてまで? もっとも儀礼服と舞踏会服を用意する費用と手間を考えたら靴などついでなのかも。


 私がどのアクセサリーにも手をのばさないからか、お針子が遠慮がちに訊ねる。

「お気に入った物がございましたでしょうか?」

「全て気に入った」

 旦那様が即座におっしゃる。

「何よりでございます。 ではこれにて失礼させて戴きます」

 帰りそうになるお針子を慌てて止め、旦那様に申し上げた。

「儀礼服と舞踏会用ドレスだけでも大変申し訳ないのに、これ程沢山の贈り物を頂戴するのは心苦しうございます。 お気持ちだけ頂戴するという訳には参りませんの?」

「母上からそなたへの贈り物はこれが初めてではないか。 全部受け取った方が母上もお喜びになる」

 旦那様がダンホフ公爵夫人を母上とお呼びした事に驚いた。 旦那様が母上とお呼びする時は亡くなった実母を指しており、公爵夫人を母上とお呼びになったのは今日が初めてでいらっしゃる。 勿論、公式の場では母上とお呼びしていると思うけれど、この家ではたとえお客様が同席していようと、ダンホフ公爵夫人とお呼びになっていらしたのに。

「いずれも大奥様、御自らお選びになったと伺っております」

「そうであろう。 母上に、よしなに伝えてほしい」

「畏まりました。 旦那様、奥様の末長きお幸せを心よりお祈り申し上げます。 又、此の度奥様のお召し物を本家縫製部へお任せ下さいました事、その尊き御信頼に深く感謝致します。 これからも何卒お気軽に御用命下さいませ」

 旦那様はナーザランに目顔で心付けを持たせるよう指示なさった。 いくら包まれているのか、かなりの厚みがある。 お針子は深々と礼をして受け取り、帰った。


「旦那様。 これは一体、」

「今日から晴れてそなたを妻と呼べる」

「つ、妻? そ、その前に、当代様、次代様、両方から結婚のお許しを頂戴しなくてはならないはず」

「ナジューラ様はとうに私の気持ちを御存知だ。 それに父上のお許しなく正妻儀礼服が縫われる訳がないだろう?」

 旦那様がダンホフ公爵を父上とお呼びになった事もなかった。 いつもダンホフ公爵とお呼びになっていらしたから。 リジューラが生まれてからは、ブルセル語で私の魔法使いという意味のノーナム・シューマとお呼びになる事もあるけれど。

 なぜ急に父上母上となったのか。 それも気にはなったが、それより先にお訊ねせねばならない。

「服は調いましたが、次代様の結婚式という晴れがましいお席に私が正妻として参列するだなんて。 本当によろしいのでしょうか?」

「門前払いを心配しているのか?」

「そういう訳では。 ただ入籍前に服を頂戴する事になるとは予想しておりませんでした」

「周囲に口止めしていたが。 リジューラの出生届けを出す時、婚姻届も出していた」

「えっ?!」

「ダンホフにおいてジューラは正嫡子にしか付けられない名。 そなたが愛人であればリジューラとは名付けられない」

「なぜそれを教えて下さらなかったのですか?」

「ダンホフ正嫡子の妻の噂を聞いた事はないかい?」

「夫と共に妻も殺されるという噂ですか? 単なる噂では?」

「残念ながらそれは長い間事実でね。 代替わりの時には正嫡子だけでなく、その妻子と生母も殺されていたのだ。 殺されない第一正嫡男子は私が初めて、とは言わないまでも、数百年ぶりという有様で。

 そなたが噂に怯えて逃げるような女性ではないと知ってはいたが。 出会いの時、私がダンホフ正嫡子である事は隠していたし、万が一逃げられたら後が面倒。 それで家内に箝口令を出すよう、父上にお願いした。 どうか臆病者の夫を許して欲しい」

「まあ。 それでは分家が決まった時に結婚のお許しも頂戴していたのですか?」

「同時ではあるが、分家は次代様から。 正妻の件は父上からだ。 それを伝え聞いた母上が服や装飾品の手配をしてくれた。 すぐに作り始めないと次代様の結婚式に間に合わないという事で」

 その手配に感謝して、公爵夫人を母上とお呼びするようになったのかしら? それとも公爵夫人が私を正妻に推してくれた? まさか。


「旦那様はなぜ私が正妻として認められたのか御存知ですか? 特に何かした覚えはないのですが」

「ブルセルへ子連れ逃避行を企てるのは何かした内に入らないか」

 ぎょっとしたけれど、旦那様の瞳には笑いが浮かんでいる。

「ダンホフに歯向かう事を恐れぬとは。 我が息子に相応しき女丈夫、とお褒めのお言葉を頂戴した」

「そのような事までダンホフ公爵にお話になったのですか」

「ああ。 そうお褒めになったのは母上だが」

 公爵夫人と会話らしい会話を交わした事はなかったのでは、と言いそうになったが堪えた。 ダンホフ公爵に話した時、側にいた公爵夫人にも聞かれたのなら嘘にはならない。 普段はそのような詭弁を弄する御方ではないけれど。

 それにしても我が息子、とは。 私を我が娘とお呼びになったのだから旦那様の事を我が息子とお呼びになるのは当然にしても。 冷えきった過去の関係を知る私にとって戸惑うばかり。


「これからは公爵、公爵夫人ではなく、お父様、お母様と呼ぶように」

「はい。 次代様の奥様は、若奥様ですか?」

「いや。 庶子の兄弟姉妹はそう呼ぶだろうが、そなたはミサ様でよい。 庶子の兄弟姉妹とその配偶者の名前には何も付けない事。 伯父伯母は爵位か、無爵ならさん付けで。 詳しくはユーストに聞きなさい」

「分かりました。 それと、お父様お母様に今までの不調法と不義理をお詫びしたいのですが。 いつがよろしいでしょう? 式当日はもちろん、式前後もしばらくお忙しいでしょうし」 

「その不義理は私のせいであり、詳しい事情は父上母上だけでなく親族一同皆知っている。 そなたが謝る必要はない」

「けれど逃避行を企てたから正妻のお許しを戴けた訳ではございませんでしょう? お詫びは必要なくとも私を正妻として認めて下さったどなたかにお礼を申し上げなくては」

「そなたが正妻として認められたのは準大公のおかげ、と私は推測している。 但し、御本人が、ああ言った、これをした、という訳ではない。 私達からお礼を言われても、何の事やら、となるだろう」

「では、なぜ準大公のおかげと思われたのですか?」

「実際何があったのか、私も詳しくは知らないのだが。 父上からダンホフ家内全員に公式通知が出された。 準大公に大恩あり、と」

「まあ。 大恩」

 大恩の公式通知だなんて。 公爵家がそういう通知を出すとは余程の恩義を受けたのだろう。

「ダンホフは劇的に変わった。 父上、母上、次代様。 更に言えば邸内の誰もかも。 建物さえ。 以前は巨大な墓のようで、とても長居する気にはなれなかったが。 今なら安心してそなたとリジューラを連れて行ける」

「けれど親族の皆様の中には私が次代様の式に参列する事をよしとしない方もいらっしゃるのでは?」

「いたとしても気にしないように。 そなたは当代と次代が認めた私の正妻。 嫌がらせでもあればすぐに私か、私が不在ならナーザラン、ユースト、家内の誰でもよいから伝えなさい。 そういう事の対処に慣れている者達だから。

 考えてもごらん。 準大公夫人は平民出身。 準大公の義父母が平民の時代に、妻の身分が高いの低いのと御託を並べていては世間の物笑いの種であろう」


 旦那様の微笑みを見てさえ不安が消えたとは言えない。 嫉妬されるだろうし、誰に恨まれて殺されないものでも。 それより心配なのは私が旦那様やリジューラの重荷になる事だ。 そうなる可能性の方が、そうならない可能性よりずっと高いような気がする。

 でも今更離婚は難しいだろう。 結婚よりも。 結婚だって許されるとは思えなかったのに許されたけれど、ダンホフは殺された人はいても離婚した人はいない家なのだから。

 ならば私は旦那様とリジューラの為に出来るだけの努力をするしかない。 旦那様が私とリジューラの為に努力して下さったように。

「そう致しますと、当日私も親族として準大公に紹介されるのですね。 失礼がないようにするにはどう振る舞えばよいのでしょう?」

「私もまだお会いした事はないが、大変親しみやすい御方と聞いている。 奉公人や部下にも平民が多い。 子爵家の庶子である事を卑屈に思う必要はない。 謙譲も過ぎれば準大公夫人の出自を貶したと取られる恐れがある。 ありのままの其方でよい」


 こうして私は次代様の結婚式に参列し、準大公にお目通りする機会を与えられた。 旦那様がおっしゃったようにとても気さくな御方で。 私が緊張で倒れそうになっている事にお気付きになられたのだろう。

「握手すると元気になるんですよ」

 そうおっしゃり、私の手をやさしく握って下さった。 すると本当に気分が軽くなり、元気になった。 まるで活力が風となり、体中を駆け巡ったかのよう。 私の気持ちの中に根強くあった、劣等感と言うか、卑屈な気持ちまで跡形もなく吹き飛ばされたような気がする。

 噂通りどころか噂以上の不思議な御方でいらした。 準大公は私がロジューラ・ダンホフの正妻だから握手なさったのではない。 その証拠に親族どころか奉公人の中にさえ握手を頂戴した者が沢山いた。

 なんと温かいお人柄。 もう一度お会い出来たら、と願わずにはいられない。

 ただ準大公のヒャラは後々物議を醸すような? そんな気がしないでもなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 『準大公のヒャラは後々物議を醸すような?』 くぅー! いつの日か! この目で見てみたいものです!
[良い点]  独自の文化を持つ世界、その残酷な側面が垣間見えた。 [一言]  若が宝珠を解呪するエピソードが既に語られていましたが、ダンホフ家の閉塞感と絶望、それからの開放が詳らかにされ、その残酷さに…
[一言] >ただ準大公のヒャラは後々物議を醸すような? そんな気がしないでもなかった。 若!この前ヒャラがウケたって言ってましたよね? 第三者視点では「後々物議を醸すような…」って感想ですよ! 若に…
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