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弓と剣  作者: 淳A
天駆
428/490

即答

「この、大バカやろうっ!!」


 ええ、ええ、どうせバカですよ。 だから何?

 なーんてさ、言う訳ないだろ。 カンカンに怒っている師範に向かって。

 はああ。 怒鳴られ、責められ、締め上げられ。

 なんなの。 最近、こんなのばっか。 俺のせいでもないのにさ。


 はい? 嘘をつくな?

 ちょっとー。 いつ俺が嘘をついたって?

 ちゃんと俺の目を見てくれよ。 きらっきらだろ。 この目が嘘をついてるように見える?

 あ、何、その疑いの眼差し。


 男なら嘘の一つや二つ、つくもんだよな、だと?

 むうっ。 いつも自分が嘘ついてるからって他人も同じだと思わないでくれる?


 え? 俺は嘘をついた事なんてない?

 ほらほらほら。 早速そんな嘘ついちゃって。 それくらい、ケルパじゃなくても分かるから。


 ま、ぽろっと本当じゃない事を言っちゃった、なんて誰にでもある事だよな。 それに自慢じゃないけど、俺が嘘をつかないのは正直だからと言うより、周りにいるのが俺の嘘を見破る為に生まれて来たみたいな人ばかりで。 どうがんばったって嘘をつかせてもらえないと言うか。 ついた所ですぐ見破られると言うか。

 なんでみんなあんなに賢いの? 賢くなっちゃいけませんとは言わないけど。 賢い部下を持つと楽になるばかりでもないのが悲しい。


 ともかく、中身はどうあれ一応上官なんだ。 さぼりたいならさぼりたい。 疲れた時は疲れた。 嫌なら嫌と正直に言えばいい。 嘘をつく必要なんかない。 よっぽど切羽詰まっているんでもない限り。

 もっとも正直に言ったからって、はい、そうですか、とさぼらせてもらえる程世の中は甘くないが。 アラウジョ、バートネイア、メイレ辺りなら、たまーに見逃してくれる事もある。

 残念ながらこの三人はいつもすごく忙しい。 側近のアラウジョでさえ俺の側にいる事の方が珍しいから、結局俺は毎日真面目に一生懸命仕事をしている。 嘘もさぼりもやっていません。 俺みたいな地道な正直者を怒鳴ったり責めたりするだなんて。 人として間違ってるんじゃないの?


 え? 嘘やさぼりじゃないなら思い違いか物忘れをやらかしたんだろ、て?

 ちがーう! そりゃ思い違いや物忘れならしょっちゅうやってるけど、今怒られているのはそれじゃない。 本当に俺のせいじゃない事で怒鳴られているんだ。 要するに、俺がうんと言ったから。

 やっぱり自分が悪いんじゃないか、と言われればそうかもしれないが、普通誰だってうんと言うだろ。 義兄の結婚式に招待されたら。 いずれ結婚式がある事は予想していたので、レイ義兄上と会って結婚式に招待された時、はい、喜んで、と深く考えずに答えたんだ。


 ただ世間の皆さんは新年の舞踏会でレイ義兄上とプラドナ公爵令嬢の婚約発表があった時、あっと驚いていた。 上級貴族になればなる程、婚約は何年もかけてようやく纏まるものだから無理もない。 まず仲人との行き来があり、条件や候補が絞り込まれ、何々家の令嬢になるという噂が世間に広まり、それから婚約発表、となるのが普通の流れだ。

 公爵家ともなれば誰と結婚するかは資産や持参金の額とか、姻戚となったら融通きかせてもらえる事があるとかの損得勘定が働いて決まったりする。 利害関係が絡むだけに世間の関心は高い。 レイ義兄上のような次代様なら花嫁候補が数人に絞られたというだけですごい噂になっただろう。


 ところが噂のうの字もない。 で、いきなり婚約発表。 父上が仲人だから詳しい話を聞こうとしたら、父上が両家を行き来して話を纏めてあげた訳じゃないんだって。 結婚式の体裁を保つ為の頼まれ仲人だと言っていた。

 これってつまり、レイ義兄上がキャシロさんに一目惚れした、て事? あのレイ義兄上が? 惚れっぽい人には見えないんだけどな。

 それに恋愛なら二人で立ち話していたとか、手紙のやり取りとか、それっぽい行き来があるはずだろ。 でなければレイ義兄上がプラドナ公爵邸を訪問した、舞踏会で二人が踊った、親が交流し始めたとか。

 なのに今まで交流らしい交流は一回もなかった。 それはフロロバのような社交界の噂にとても詳しい人が言ってたんだから間違いない。


 噂なんて俺は一々本気にしていないが、火のない所に煙が立つのが上流社会だ。 婚約という立派な火種がありながら発表まで煙が立たなかったなんて前代未聞と言っていい。 カイザー公爵令嬢アンが生まれてすぐ俺の甥であるサム・ヴィジャヤンと婚約した時のように親同士がさっと決めた話でさえ、婚約前からいろんな噂が飛び交っていたんだから。

 サムは瑞兆の血縁の従兄弟だ。 それは大きなプラスだけど、カイザー公爵家が焦って婚約しようとする程大きいのか。 何か裏があるのでは。 もしかしたらこれはヴィジャヤン準公爵が次の宰相になる前触れ、とかさ。 果てはカイザーが準公爵に大恩があったのなかったの。 いかにもありそうな作り話がいくつも流れたらしい。


 上流貴族の場合庶子だろうと噂の的になる。 まず持参金や式の規模、どちらのしきたりを優先するのしないので揉めるから、話が簡単に纏まる事の方が少ない。 収まりがつかなくなって血を見る騒動になる事もあるくらいだ。

 正嫡子だともう大変。 ライ義姉上の時だって俺が知らなかっただけで社交界の話題を集めたらしい。 こんな格下婚を認めるのは子供が出来たからだ、とかさ。 そこまで行ったら噂と言うより中傷だろ。 言いたい人には言わせておくわ、ときれいにスルーしたライ義姉上はすごいよ。 俺だったら家名に傷が付いたとか、親の顔色を窺ってくよくよ気に病んだかも。

 なにせ噂されたのは自分だけじゃない。 結婚に反対しなかったという理由で、ヘルセス公爵まで超が付く変人と陰口を叩かれた。 ところが今では瑞兆の姻戚。 なんと先見の明がある人だ、と今度はすごく尊敬されるようになったんだって。 ヘルセス公爵御自身は御縁に恵まれたのは単なる幸運と謙遜なさっているらしいが。 ほんと、世間って勝手だよな。


 サジ兄上の時はダンホフ側が熱心で、とんとん拍子に決まったが、それでもぶっ飛んだ噂が沢山流れた。 例えばサジ兄上がダンホフ公爵を虜にした、とか。

 何、それ、て感じ。 老若男女に人気があるサジ兄上だ。 ダンホフ公爵に好かれたって何も不思議はない。 ただこの「虜」には、その、単なる好き以上の意味が込められていたみたい。 どうやらダンホフ公爵が病気になった時、サジ兄上を本邸に何度も呼んだ事が噂を煽ったようで。 サジ兄上が到着してみれば病気は治っている。 あれは仮病だの、いや、恋煩いだの。

 ユレイアさんがサジ兄上に会いたくて、父親に助っ人を頼んだ、と考えるのが普通だろ。 だけどそれじゃまとも過ぎて面白みに欠けるよな。 ま、噂なんてそんなもんさ。


 だからレイ義兄上の婚約については何もなかったのが不思議なんだ。 聞きたくなくても耳に入って来るのが噂なのに。

 まあ、考えてみればマッギニス補佐の時だって婚約の噂なんか少しもなかった。 上官である俺が知らなかったのは勿論、求婚相手の父であるジンドラ子爵もびっくりしていた。

 師範もヨネ義姉上に一目惚れしたっぽい。 照れ屋の師範がそれを認める事は一生ないと思うが。 あの時も皇都での出来事だったからか、あまりに沢山の女性と引き合わされたからか、噂なんて何もなかった。 俺は偶々近くで二人の視線のバチバチを目撃していたから、早晩纏まるな、と分かっていたけど。 そうじゃなかったら世間と同じく突然の婚約発表に驚いただろう。


 一目惚れと言えば、父上も母上に一目で運命を感じたんだって。 サガ兄上もライ義姉上とそんな感じだし。 サジ兄上は見合いだけど、ユレイア義姉上と初めて会ってから二ヶ月やそこらでラブラブなんだ。 一目惚れも同然だろ。 みんな普段の性格だけ見たら一目惚れするような人には見えないのに。

 一目惚れするような性格ってどんな性格、と聞かれてもうまく説明出来ないが。 一目惚れって俺が思うよりよくある事なのかも。

 ともかく、そっち関係にてんで疎い俺が滅多に会わないレイ義兄上の一目惚れを知らなくても当たり前だ。 知ってたとしても俺じゃどうプラドナ公爵令嬢との間を取り持ってあげたらいいのか分かんないし。 レイ義兄上はそんな迂闊な頼み事をするような人でもない。


 ただこの婚約に関しては去年の秋、もう予想していた。 先代陛下お見送りの際、二人を遠くから見たロイーガがトビに囁いていたから。

「御婚約発表間近かと」

 手回しのよいトビは公爵令嬢への婚約祝いは何が喜ばれるか、エナに聞いていた。

「金をかけたお祝いを贈る余裕はない。 現在の爵位は下で義弟だから気を張る必要はないと言えばないのだが、婚約祝いが何であったかは口の端に上るもの。 世間から準大公扱いされているのに余りに祖末な品では外聞が悪い。 良い宣伝になるから出来れば領地から取れる名産品にしたいのだが。 塩では婚約祝いになるまい」

「それでしたらラベンダーの香りのバスソルトを作っては如何でございましょう? ラベンダーも安価で手に入りますし、奥様の輝くようなお肌は社交界の羨望を集めております。 ラベルに北方伯夫人御愛用と書いただけで飛ぶように売れるのではないでしょうか」

 という訳で、リスメイヤーにラベンダーの香り付きバスソルトを作ってもらった。 商品として売り出すにはまだ色々準備しなきゃいけない事があるが、お祝い用は香りが飛ばないようにガラスの瓶に入れ、北方伯家の家紋入り化粧箱に収めた。 箱の蓋の裏にはサリの手形スタンプを付けてある。 有り難みが増すように。


 ところで先代陛下お見送りの際、ロイーガはナジューラ義兄上とリューネハラ公爵の妹君の婚約も予想していた。 縁結びの神様と呼ばれているロイーガの予想だ。 二人の間に何かあるとは思っていたが、だからと言ってこの結婚が実現するとは思わなかった。

「ナジューラ義兄上とミサ様? そんな訳ないだろ。

 トビ。 ナジューラ義兄上って、確か、もう婚約してたよな?

 誰だっけ、うーんと、でるびー、じゃなくて。 でびらー、でもないな。 あの、ほら、サジ兄上の結婚式に参列していた、」

「ナジューラ様の現在の婚約者はセライカ公国ディルビガー公爵令嬢です」

「そうそう、ディルビガー。 まさかそっちが本妻で、こっちは愛人? そんな事ってあり得るの? どっちも公爵令嬢だろ」

「正確にはミサ様は先代リューネハラ公爵令嬢、当代リューネハラ公爵の妹君でいらっしゃいます。 いずれに致しましても、どちら様も愛人となる事はないでしょう。 ミサ様は離縁されたとは言え、元デンタガーナ国王太子妃殿下。 王太子殿下から生涯年金を戴いていらっしゃるとか。 ですから離縁は円満なものであったと考えられます。 皇王族ならともかく、公爵の愛人にならねばならない理由はございません。

 ディルビガー公爵は相当なやり手という噂ですが、セライカはデンタガーナと隣接しております。 隣国の元王太子妃殿下を差し置いて娘を正妻の座に据えては波風が立ちましょう。 かと言って、正嫡子で初婚の娘を愛人にと望まれても承諾なさるとは思えません。 ナジューラ様がミサ様との御結婚をお考えだとしたら、まずディルビガー公爵令嬢との婚約を破棄なさるのではないでしょうか」


 トビの予想通り、年末に婚約解消が発表され、新年の舞踏会ではレイ義兄上の婚約発表とナジューラ義兄上の婚約破棄の噂でもちきりだった。 その時ナジューラ義兄上から、近々ミサ・リューネハラ様との婚約を発表するという事を聞いた。 結婚式には是非参列して戴きたいと言われたから、はい、喜んで、と答えた。 ナジューラ義兄上には猫又の件で散々お世話になったし。 結婚式に参列したくらいじゃその恩を返した事にはならないと思うけど。

 結婚相手も公爵令嬢だからこの機会に仲良くなっておきたい。 その内助けてもらえるかもしれないだろ。 リネがいじめられたら味方になってもらいたいし。 俺としても上級貴族の味方は多ければ多い程いい。

 実は、陛下へのお目通りが終わった後で、これからは登城したら必ず真っ先に陛下の御機嫌を伺うように、とテイソーザ皇王庁長官から言われたんだ。

 どうやら直々のお目通りが叶うのは今年だけじゃないらしい。 それはとても名誉な事だけど、お目通りの機会が増えれば増える程、俺が儀礼上の間違いをする機会も増える。 そんな時庇ってくれるのはレイ義兄上やナジューラ義兄上のような上級貴族だ。 結婚式に招待されたのに欠席したら、後々助けてもらう時に気まずい。


 どちらの婚約も急に決まったし、公爵家の結婚式なら一年とか二年先になる事もある。 その時自分の予定がどうなっているかなんて聞かれたって分からない。 だから式の日程とか、詳細は後で連絡すると言われても変とは思わなかった。

 北に戻って間もなく、手紙が届いた。 挙式は今年の七月を考えておりますが、御都合の良い日をお知らせ下さい、と。 どちらからも。 それでなんと返事したらいいか師範に相談しに行ったんだ。 そしたらこの、大バカやろう、になった訳。


「全くお前って奴は。 なんでそうほいほい、うんと言うんだ? 招待されたり頼まれ事をしたら何であろうと断る。 それが基本だ。 何と言って断ったらいいか分からなかったら即答を避けろ。 後でなんとでも誤摩化せる。 その場でうんと言ってもいいのは陛下、将軍、祭祀長だけだ。 皇太子殿下の直命に突っ走って散々面倒を起こしておきながら、何も学んでいないのか? 親に泣いて縋られたってうんと言うな!

 その招待に関してはまだ半年ある。 今からでも遅くはない。 欠席すると言え」

「義兄の結婚式なのに?」

「兄だろうと弟だろうと関係あるか! お前は自分に何人義兄弟がいると思っている?」

「はい? あ、えーと、」

「正嫡子だけに限ってもヨネの弟とナジューラの兄がまだ結婚していないんだぞ。 おまけにこの結婚でレイの妻、ナジューラの妻の兄弟姉妹とも姻戚になる。 未婚の正嫡子がいたらどうする? 今は既婚だって離婚して再婚しないとは限らない。 レイとナジューラ、どちらの結婚式にも参列したら義兄弟の結婚式に参列するという前例を作っちまう。

 俺のは北軍主催の軍式、サジ殿のは実兄だから参列したが、他は誰の結婚式であろうと参列しない、としておけば面倒がなかったんだっ。 こっちは出るが、あっちは欠席としたら、その度になんでそうなったのか、もっともらしい理由を考えないと。 お前にそれを考え出す頭があるってか?」


 確かに貴族の場合、一口に兄弟と言っても沢山の異父母兄弟がいる。 生まれてから一度も会った事がない兄弟もいる位だ。 兄弟の結婚式だから必ず参列するとは限らない。 義兄弟なら尚更。

「で、でも。 レイ義兄上やナジューラ義兄上には色々助けられていますし。 猫又の時だって」

「準大公と呼ばれている自分の立場を何だと思っている? 公爵が準大公を助けるのは当たり前だ。 それがなくたってお前は大隊長なんだぞ。 なのに一人で参列する気か? サリはどうする。 連れて行くのか?」

「あ。 う。 えーと、サリも参列します」

「するとリネも参列する訳だな?」

 七月だとリネは八ヶ月。 結婚式が七月末なら臨月に入ってる。

「そ、それは、その、」

「サリを連れて行くなら護衛が最低でも一個中隊必要だ。 その人数で東まで旅をしたらどんなに急いでも戻るまで一ヶ月はかかるだろう。 リネが出先や旅の途中で産気付いたらどうする気だ? 次代の結婚式なら本邸でやるんだろ。 ダンホフ領とヘルセス領はどちらも東とは言え、お隣さんじゃないぞ。 どれだけ離れているんだか俺は知らんが、お前は知ってて言ってるのか? 旅先のどこかで産気づいたら、リネはそこに置いてお前だけ式に参列する訳か?」

「いえ、その。 リネは家で留守番、とか」

「ほう。 でもサリは連れて行くのか? ならサリの面倒はエナ一人で見る訳だな?」


 エナは一生懸命やってくれてる。 サリを抱っこする手つきも危なげないし、離乳も済んでいるから出来ないとは言わない。 だけどエナにとってかなりなプレッシャーになるだろう。

 毎日サリの御飯やお風呂の世話をしているのはリネだ。 リネが剣道の稽古をする時とか舞踏会に参列する時にはエナが子守りをしているが、せいぜい二、三時間程度で、何日中ずっと一人でサリの面倒を見た事はない。

 リネやカナなら赤ん坊慣れしているから、サリが少々熱を出してぐずっても自然に治るのを待ちましょう、て感じで余裕だが、エナは几帳面だ。 完璧にやろうと頑張り過ぎて途中で倒れるんじゃないか?


「いや、それは、うーん、」

「それに姻戚の結婚式なら旅費や護衛経費だって自腹だぞ。 お前に出せるのか? それとも手弁当でいいと言う奴を募るのか? みんな手を上げるかもな。 それよりダンホフとヘルセスに出させるか? 金なら捨てる程あるだろうし。 どこからどこまでどっちが出す? 俺に聞くなよ。 迷惑だ」

「あの、リネとサリ、どちらも留守番させます」

「その留守を守るのは誰だ? 俺か? じゃ、お前は一人で参列する訳だな? お前の護衛をするのは誰だ? それともサリは将軍が護衛して、お前の護衛は俺がするのか? まさかそれをただやらせようって言うんじゃないよな?」

「え、あの、いくら出せばいいでしょう?」


 ただじゃ嫌だと言うから聞いたのに。 何が気に入らないんだか、師範は荒々しく椅子から立ち上がると執務室の隅にぶら下がっているサンドバッグを思いっきり蹴った。

 どかっ、と腹に響く鈍い音がして、サンドバッグが天井に当たりそうなくらい揺れた。 因みにこのサンドバッグはポクソン補佐が考案した特注で、重さが百二十キロある。 冬場は師範の機嫌が悪くてさ。 道場で結構な数の剣士をぶちのめしているんだけど、それでも足りないらしくて。

 あんなに強く蹴ったら後で足が痛くならない? 俺も試しに蹴らせてもらった事があるが、ぱんと皮を叩いた音しか出なかったし、ちょっとしか揺れなかった。


「大隊長、お呼びになりましたか?」

 サンドバッグの音でやばい事になっていると気付いたらしく、ポクソン補佐が執務室に顔を出してくれた。

「ポクソン補佐。 北からダンホフ本邸とヘルセス本邸に行ったら戻るまで何日かかる?」

「交通手段、出発時期、随行人数について、おおよその所はお分かりですか?」

「一個中隊。 サリとリネも行くとしたら馬車になる。 季節は夏だ」

「どの道を通るかにもよりますが。 いずれにしても馬車でしたら険しい道は使えません。 北からヘルセス本邸へ三週間、そこからダンホフ本邸へ二週間という所でしょうか」

「で、ダンホフから北へ戻るのに二週間か?」

「本邸からですと、どんなに急いでも三週間はかかるかと存じます」

「馬車なしだったらその半分で戻れるか?」

「付近の地理に明るい者一人か二人で毎日替え馬をし、最短距離を走るのでしたら可能かもしれませんが。 一個中隊では道なき道を通る訳には参りませんし、替え馬を百頭、毎日用意するのは無理ではないでしょうか。 ヘルセス領内なら何とかなるとしても、元々馬の数が多い訳でもないダンホフ領内では金を積んでも難しいかと存じます。 馬を休ませながらの旅ですと、短縮出来たとしても二、三日位が限度です。

 それに東の夏は台風の季節でもあります。 私の親戚が東に住んでおりまして。 台風で離れの屋根が丸ごと吹き飛ばされた事がありました。 離れと言っても粗末な小屋ではなく、普通の二階建てです。

 それ程の強風は珍しいようですが、大木がなぎ倒され、その木に家が押し潰されたとか、豪雨で川が氾濫した等、毎年必ず何らかの被害が出る季節。 約二ヶ月間、毎日が好天とは考えられません。 天候に恵まれず道が塞がれたら予定の倍の時間がかかる事も」


 どかっ、どかっ、どかっ。

 ポクソン補佐が言い終わる前に師範がサンドバッグを蹴り始めた。 天井の金具がギイギイ苦しそうな悲鳴を上げる。

 ひー。 金具が吹っ飛ぶんじゃない? こ、怖いよっ!

 ううう。 ダンホフ本邸とヘルセス本邸がどんなに遠くたって俺のせいじゃないのに。 だろ?

 はい、喜んで、と即答しちゃった事はまずかったと思うけど。


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