不気味
はあ、癒される。
すやすや眠るサリの横に寝そべって、ぷにゅぷにゅのほっぺをそっと撫でながらため息をついた。
いくら寒くたって我が家が一番さ。 娘の寝顔をじっと見つめていようと誰にも文句を言われない。 サイコー。
その点、神域はどこへ行こうと人目があった。 許可がなければ入れない場所だし、広いけど、神官だけで千人以上。 その他に文官、警備兵、下働き、訪問客、そのお付きの人達もいるから毎日結構な人数が出入りしている。
そんな所に寝泊まりするだけで気疲れするのに、頼んでもいない「サリ様のお守役」を名乗る人達が次々と現れてさ。 ケルパが唸ってくれたおかげでサリの部屋の中までは踏み込んで来なかったが、同じ建物の中や近くの建物の中に陣取って我が家のやり方に一々文句を付けた。
やれ寄るな触るな。 しきたりではどうの、前例がこうの。 俺が寝顔を見に行っただけで何しに来たと言わんばかり。 いつまでこちらにいらっしゃるのでしょう、準大公はお仕事がおありでは、とか。 それはサリ様のお昼寝のお邪魔になります、これは適切ではございません。 もう、なんでもかんでも杓子定規。 うざいったらない。
そりゃ皇都にはスティバル祭祀長の警備と領主としての仕事で行ったんだ。 遊びじゃないから子供を連れて行けない行事の方が多い。 貴族院会合や懇親会にも呼ばれていたし、軍対抗戦や舞踏会もある。 でも事情聴取のように向こうから会いに来てくれた事も結構あった。 面会と面会の合間にちょっと娘の顔を覗いたっていいだろ。
お守りなら充分間に合ってます、と言って追い返したかったが、皇王族の女性にお仕え申し上げるのは古来より女官と決まっております、と言われちゃって。 我が家の奉公人はほとんど男性だ。 リネとカナが出掛けたら女性は乳母のエナ一人。 正確に言うと乳母は女官じゃないんだって。 女官が一人もいないのでは心許ないと言われ、追い返せなかったんだよな。
それでベイダー侯爵令嬢ソニに家庭教師も兼任してくれるよう頼んだ。 家庭教師は女官だから。
ベイダー先生は去年の秋、我が家の法律顧問となってくれた。 すぐ北へ来てくれるはずだったが、先代陛下お見送りの時に俺が色々やらかしたものだから、大審院召喚とならないよう皇都で根回しに奔走していたんだ。
法律顧問としての仕事もあるし、ただでさえ忙しいのに形だけでも子守りをやらせるのは気が引けたが、放って置くと怖いおばさん達が大挙して北の自宅まで押し掛けて来そうで。 サリの専属が一人から二人に増えたくらいじゃお守役を神域から追い出す事は出来なかったけど、ベイダー先生がとても優秀である事はよく知られていたらしく、滞在中、無理難題を吹っかけられずに済んだ。
とにかくようやく家に帰れた。 サリと一緒に。 今回の上京は今生の別れとなるかもしれなかっただけに、こうして親子三人一つの部屋で寛げるのがとても嬉しい。
「子供の寝顔って、ほんと、かわいいよね」
そう言いながらリネを見上げたら顔色が悪い。
「リネ、気分が悪いの? つわり?」
「いえ、大丈夫です。 ただ、その、本当によかったんでしょうか?」
「何が?」
「あんなに沢山の偉い方から引き止められたのに、全部お断りして」
心配する気持ちは分かる。 何しろ皇都じゃ会う人会う人、みんなに春になるまで出発を遅らせるように勧められた。 北は寒いの、帰る途中で吹雪になったらどうするの。
それでも親戚から言われたのならまだいい。 サリの安全を心配して言ってると分かる。 それと近衛将軍、東西南軍の将軍。 どなたとも職務上の繋がりがあるし、個人的にも知り合いだ。 それに皇王庁や大審院、宰相や宮廷のお偉方辺りまでなら、あれこれ言うのが仕事なんだろう。
でも外国の王侯貴族とか、一体何の関係があって口出ししてくるの? 皇王妃陛下や皇太子妃殿下の御親戚を門前払いには出来ないけど、先代皇王妃陛下の従兄弟の妻の弟の何とかです、と言われたって一々身元を確認している暇なんかないんですが。
それとネイゲフラン中央祭祀長。 勿論国内の人だが、この御方の引き止め方はすごく強引で怖かった。 中央祭祀長なんて神様も同然の御方だから、こっちは元々びびっている。 俺に決める権限はないんです、と言ったが、内心びびっている事を見透かされたみたいで。 二度、三度と押された。 幸いスティバル祭祀長から、全て予定通りに、とのお言葉があり、それ以上サリを連れて帰る事にいちゃもんを付けられずに済んだけど。
とにかくそんな感じで出発当日まで、サリだけでもいいから置いて行け、といろんな人から言われた。 言っている方は初めてでも言われているこっちは何十回目か数え切れない。 さすがに気が滅入る。 密かに鈍感の鈍ちゃんとあだ名される俺でさえ参ったんだ。 気にしいのリネが参らないはずがない。 でもここは踏ん張らないと。 うんうん頷いていたら娘を取られちゃう。
「うーん。 ま、いいんじゃない? いくら偉いと言っても俺の上官は一人もいなかったし。 雪なんて北のデフォルトだ。 雪を心配して出発を遅らせていたら帰るのは五月になっちゃう。 毎年十二月末には皇都に戻らなきゃいけないのに。 それってつまり半年間皇都で暮らす、て事だろ。 傍からは遊んでいるようにしか見えなくたって俺の本業は兵士で領主なんだぜ。 指揮する部隊も領地も第一駐屯地より北にある。 なのに半年皇都で暮らしていたら、さぼってると思われたって仕方ない。 それでなくても一生懸命弓の稽古している俺を掴まえて、さぼってばかりいやがって、と悪態吐く人がいるんだから」
師範とか、と言いそうになったが、それは止めておいた。 リネのせいじゃないのに、兄の性格が悪いのは私のせいです、みたいに謝ったり気に病んだりするからな。
「でも、またすぐ呼び戻されたりしませんか? 船の乗り換えやダンホフの皆さんを助けた事は、その、うやむやになったみたいですけど。 海坊主の事とか」
「ああ、大波でいろんな人に迷惑掛けちゃったのはまずかったよなあ。 まさかあそこまで育っているとは思わなくて。 だけどあいつを動かせ、て皇太子殿下の直命なんだぜ。 直命に逆らったら首が飛ぶ。 なのに命令通りにしたら牢屋にぶち込まれた、じゃ理不尽だろ」
「ただ、その、ノノミーアは実は飼っちゃいけない猫だったんですよね?」
「う。 それは、そうだけど。 結局殺せとは言われなかったし、大審院からの呼び出しもなくて済んだろ。 そんなに心配しなくても大丈夫だよ。 結局肝心なのは陛下とスティバル祭祀長、宰相、皇王庁長官、大審院最高審問官がどう思うか、で。 その人達には俺の握手がすごく効いたみたいだから」
「握手で病気を吹き飛ばしただなんて、すごいですねえ。 さすがは旦那様。 お咎めがなかったのもきっと旦那様の不思議な力のおかげですね」
「えへへ。 まあ、な」
部屋にはリネしかいなかったから自分の手柄みたいな顔をして笑ったが、あの力は青い御方からもらったんだし、お咎めがなかったのはスティバル祭祀長の鶴の一声と、ベイダー先生が根回ししてくれたおかげだ。 特に大審院から前例のないお許しをもらうのは簡単じゃない。 ベイダー先生が有能でなければ実現は不可能だったろう。 それでなくてもお見送りの騒ぎが収まらない内に猫又だ。 皇都に着いたらノノミーアを殺せと命じられる事を覚悟していた。
法律に詳しい人が奉公してくれたおかげでとても心強い。 皇都でベイダー先生からその報告を受けた時、改めて労った。
「先生のおかげでノノミーアを殺さずに済みました。 実は諦めていたんです。 どんな魔法を使って大審院を説得したんですか?」
「何の魔法も使ってはおりません。 猫又が家猫として飼われた前例はなく、ならば猫又を飼ったという理由で罰せられた前例もない訳です。 猫又自体あまりに昔の話で、ほとんどが口伝。 どのような害があったのか、実例を記録した文書はどの法律図書館にも残されておりませんでした。
ですからこの件に関しましては、尻尾は二つあるものの、サリ様に無害である事は証明済み。 奥様のお側から片時も離れない猫であり、この猫が伝説の猫又と同種である事を証明するものは現時点で発見されてはいない、という事実を列挙し、皇王庁へ提出致しました。
皇王庁が貴族の愛玩動物を殺処分する場合、命令書に理由を明記せねばなりません。 サリ様に無害で奥様のお側から離れないなら他の皇王族の皆様の御迷惑となる可能性はなく、理由がなければ殺処分もありません。
処分なしとは黙認したという事。 黙認は承認と同じ扱いとなります。 処分なしを関係各省庁へ通達した結果、大審院の審議開始を防ぐ事が出来ました」
「はあ。 ベイダー先生って、ほんと、すごいねえ」
「お褒めに与り恐縮でございます。 ですが似たような事例は過去にあり、私が考えついた対策ではございません。 仮に審議開始となったとしても旦那様が皇寵をお使いになれば、処分なしが得られた事でしょう」
「いや、そこじゃなくて。 前例を全部調べたんじゃなきゃ、どこにもなかった、て分からないでしょ。 前例って、いっぱいあるんじゃないんですか?」
「皇王族に害をなした前例は僅か千七百五十三例しかございません」
優秀な人って案外自分ではそう思っていないものなのかもな。 自分に厳しい、と言うか。 ただ優秀なだけに優秀じゃない俺に対して容赦がないのには参った。 トビより厳しいとは言わないが、かなり近い。
昨日もサリのほっぺにちゅっちゅっとしただけで、びしっと注意された。
「御尊父であってもサリ様に口づけする事は許されておりません。 それを目撃され、皇王庁に報告された場合、物議を醸す事になります。 日常の生活態度は癖となり易く、他人の目がある時にその癖が出ないとも限りません。 それでなくとも旦那様の振る舞いは注目の的なのです。 自宅であろうと法律上禁じられている事をなさるのはお止め下さい。
過去、数多くの物議を醸しながら未だに投獄されていないのは単なる幸運。 これからも同じ幸運に恵まれると思わない方がよろしいかと存じます」
「えー。 親が自分の子供にちゅっちゅっするくらい、見逃してもらえない?」
「養育権剥奪の命が下されても構わないとおっしゃるのでしたら」
家の中でやる分には誰もちくったりしないだろ、と思わないでもなかったが。 忠告は素直に聞いておかないとな。 だからちゅっちゅっは毎朝奉公人が起きる前にこっそりやる事にした。 こそこそやっていたら悪い事してるみたいだけど。
何しろ無事に帰れはしたが、今回は、という但し書きが付いている。 親戚から責められずに済んだのだってタイマーザ先生が活躍してくれたおかげだ。
ベイダー先生には早くのんびりした北の水に馴染んで欲しいけど、のんびりするどころかこれから増々忙しくなりそうだし。 誰のせいとは言わないけどさ。 つい、ネイゲフラン祭祀長の顔が思い浮かんじゃった。
俺の被害妄想だ? そんな事あるもんか。
はい? 稽古をさぼってヒャラ踊りしてた所を見られたんだろ、て?
ちょっとー。 その、まず人を疑う所から始める、ての止めない? 世間によくいるタイプだけどさ。 そもそもあの不気味な中央祭祀長の前でヒャラを踊れる人がいたら見てみたい。 祭祀長という職業柄、近寄り難いという雰囲気が必要なのかもしれないが、スティバル祭祀長や東西南の祭祀長のどなたを見ても不気味と感じた事はない。 神々しくて近寄り難いけど、不気味とは違う。
スティバル祭祀長ならお会いした後、気持ちが明るくなる。 それがネイゲフラン祭祀長だと暗くなるんだ。 怖い人や変人になら沢山会っている俺だが、あんな風に人の気持ちを暗くしてしまう人には会った事がない。 今まで会う機会がなかったのは嬉しい。 残念な事に、皇都に到着した翌日、もうお目に掛かってしまった。
因みに予定されていた公式の面会じゃない。 俺がアラウジョを連れて朝稽古に出掛けた時、ネイゲフラン祭祀長が森の中から突然現れたんだ。
いや、驚いたのなんの。 出会った場所も不気味だったからかな。 そこに着いた時からどうも嫌な感じがして、アラウジョに場所を変えようと言ったばかりだったから。
「大隊長、どうかなさいましたか?」
「ここ、気味が悪い」
アラウジョがキョロキョロ辺りを見回しながら言った。
「何が、でしょう?」
「すっごく静かだろ」
「……神域ですし」
「整地された庭園で木が一本もない所なら分かるけど。 こんなに深い森で、近くには川も流れている。 雪は降ってないし、降ったとしても次の日には解ける暖かさだ。 木の実だって落ちている。 なのにウサギやリスとかの小動物が一匹もいない、て変だろ。 お天気だっていいのに。 リスどころか鳥や虫の鳴き声一つ聞こえない。 大峡谷のような一見水のない荒れ地にだって毒虫もいれば猛獣もいる。 こんなに静かだなんて極寒の北の朝みたいじゃないか」
「もしかしたら小動物が森林を荒らさないよう罠を仕掛け、目立たなくなるまで数を減らしているのでは?」
「鳥やリスなら罠って事もあるだろうけど、虫まで皆殺しにするのはすごい手間だろ。 それに第一駐屯地内にある神域には鳥もリスも虫もいたぜ。 ここよりもっと整地されていて植えられている木もまばらで森どころか林とさえ言えないのに」
「しかし虫まで皆殺しとは。 なぜそんな事をするのでしょう?」
「それは俺にも分からないけど。 ともかく場所を移そう」
「承知しました」
で、引き返そうとしていた所に突然ネイゲフラン祭祀長が現れたんだ。
ネイゲフラン祭祀長にお目に掛かった事は一度もなかったが、お召し物で祭祀長だと分かった。 普段着でも豪華だし、皇王陛下の家紋の刺繍付きだ。 それを身に付ける事が許されているのは皇王妃陛下と両陛下のお子様、祭祀長だけだから間違いない。
慌てて跪き、祭祀長に対する礼をした。 神官二十名を引き連れていらっしゃる。 全員上級神官だ。 警備兵も三十人位いる。 どちらに向かわれているのか知らないが、御一行が通り過ぎるまでこの姿勢を崩せない。 どうか俺を道端の石と思って通り過ぎて下さいますように、と心の中で祈っていると、お言葉を頂戴した。
「北の寒さはさぞかしであろうな」
そりゃ寒いよ。 がんがんに冷える。 だからってお墓の中にいるみたいな静けさの中で幽霊みたいに突然現れた人と、お天気の話を始める気になれるか? この姿勢をキープするのだけでもきついのに。
とは言え、上級神官と警備兵がずらっと並んで俺達の会話を聞いている。 ただ黙っている訳にはいかない。
「はい。 ……とても、寒いです」
はいだけじゃいくら何でも短いと思って、そう続けた。 他にましな返事はないのかよ、とは自分でも思ったが。 辺りの空気がちょっと重くなったような? 気のせいだと思いたい。
ネイゲフラン祭祀長は俺のお粗末な返事にお気を悪くされた様でもなく、おっしゃった。
「そうであろう。 では寒さが緩むまで神域に留まるとよい。 空き部屋はいくらでもある。 遠慮は無用ぞ」
「え? いえ、あの、お心遣いは大変有り難いのですが、お役目を頂戴しておりますので予定通りに出発する事になるかと存じます」
顔は伏せていたんだが、ぐさぐさ突き刺さるような視線を頭のてっぺんに感じた。
い、痛い。 禿げるかも。 そんなにまずい事言った?
だって俺にスティバル祭祀長の御予定を変える権限はない。 変えたいならネイゲフラン祭祀長から直接スティバル祭祀長に伝えて戴かないと。 俺の任務を変更したいならモンドー将軍に言ってくれ。 いくら中央祭祀長のお言葉があろうと上官の承諾なしに皇都に居残るなんて許されない。
ここで、はい、そうします、と安請け合いしたら後で困るのは分かり切っている。 その場でなぜ断らない、と師範に怒鳴られるだろう。 比べてもしょうがないが、師範を怒らせたら「禿げるかも」では済まない。 禿げる。
すると不思議な音が聞こえた。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
方向からすると音を出しているのはネイゲフラン祭祀長だ。
笑い声? だと思うけど、予定通りに出発する事のどこがおかしい訳?
それとも笑い声のように聞こえるだけで実は怒っていらっしゃる? あ、もしかしたらただの咳払い?
お顔を見て確かめたいが、面を上げよと言われてないのに見上げたりは出来ないし。
どうしよう? どうしよう? どうしよう?
冷や汗で背中が冷たい。
しばらくすると衣擦れの音が聞こえ、御一行が進む気配がした。
辺りに静けさが戻り、恐る恐る面を上げる。 皆様森の奥へと向かわれたようで、辺りには誰もいない。 ほっと深呼吸して地面に崩れ落ちた。
「ひー。 危なかった」
アラウジョも額に脂汗を浮かべている。 それでも日頃師範に鍛えられているだけあるよな。 きちんと正座していた。 俺みたいに地面に寝そべったりしていない。
「大隊長。 これで終わった、と安心してもよろしいのでしょうか?」
「何かまずかった? どこが?」
「それは分かりませんが。 何となくこのままでは済まないような」
俺もそんな気がして来たので急いで帰り、トビに一部始終を話した。
「ね、どう思う? 何が悪かったのか分からないけど、取りあえずお詫びしておいた方がいい?」
「お待ち下さい。 あちらの方から次の動きがあるのではないかと推察致します」
その予想通り、翌日祭祀庁から知らせを受け取った。 新年の言祝ぎに出席せよ、は出発前から予定に入っていたが、なんと五人の祭祀長、全員が御臨席なさるんだって。 思わず仰け反り、トビに聞いた。
「ええっ?! 祭祀長全員? それって戴冠式とか、皇太子殿下立太子式や御成婚式みたいな国をあげてのお祝いの時に限られているんじゃなかったっけ?」
「その通りでございます」
「皇寵の時も何も知らずにもらって、後ですごく大変な意味がある事を知らされたけど。 五人の祭祀長から言祝ぎを頂戴するだなんて、遠慮した方がいいんじゃ?」
「言祝ぎを遠慮する? 何をおっしゃいます。 祭祀長お一人からの言祝ぎでさえ大変な名誉であり、子々孫々へと伝えるべきもの。 偶々北に領地がある伯爵は旦那様お一人。 その為スティバル祭祀長の言祝ぎをお一人で頂戴する予定でしたが、東西南に領地がある伯爵は夫々百人以上いる他の伯爵と一緒に頂戴しているのです。
旦那様も御存知のように祭祀長へのお目通りにはしきたりに従った複雑な手順を踏まねばなりません。 皇寵は皇王族の皆様や貴族になら効力がございますが、祭祀長に対する効力はありませんので。 しかし全祭祀長から言祝ぎを頂戴したとなれば、その手順を踏まずにいつでもお目通りを願い出る事が許されます。 これは領地が二倍、三倍に増えた以上の価値がある御褒美と申せましょう」
「はあ。 そうなんだ。 俺としては向こうからのお呼び出しがない限り、お目通りを願うつもりなんてないんだけどなあ」
「先々何が起こるか分からぬものでございます。 瑞兆の認定は祭祀長のお役目なのだとか。 それでしたらその取り消しもお出来になるのではございませんか? 実際問題として一度認定されたものが取り消されるとは思いませんが、祭祀長はサリ様の人生を左右しようと思えばお出来になる御方。
例えば後宮に上がる前に神域で巫女として何年か修行するように、と命じられたらこちらに抗う術はございません。 スティバル祭祀長は大変心強いお味方でいらっしゃいますが、いずれは退職なさいます。 お次が同じくお味方になって下さるかどうか分かりません。 またスティバル祭祀長が在職中であろうと、四人の祭祀長が同意している事なら押し切られないものでもないでしょう。 この御褒美を使わないで済むならそれに越した事はございませんが。 あるに越した事はない御褒美かと存じます」
罰当たりと言われるかもしれないが、俺にしてみればこれは有り難迷惑な御褒美だ。 御臨席下さるのがスティバル祭祀長だけだったら、雲の上の御方とは言え温かいお人柄だし、俺がおっちょこちょいなのはとっくに御存知だ。 多少の間違いは大目に見て下さるような気がする。
甘える気満々な訳でもないけど、言祝ぎ自体はとても短い。 終わったら「有り難き幸せ」と申し上げて言祝ぎ用のお辞儀をするだけだから、あまり心配(練習)していなかった。 なのにいきなり五人だ。
「はああ。 こんな事、本番の一日前に言われたってさ。 スティバル祭祀長にするお辞儀を四回繰り返せばいいだけなら何とかなると思うけど」
「スティバル祭祀長が最初である事に変更はございません。 言祝ぎに対してお礼を申し上げ、お辞儀する所までは同じです。 それが終わったら次に中央祭祀長にお辞儀し、続いて東西南の順に各祭祀長へお辞儀なさって下さい。 一巡した後、中央祭祀長から言祝ぎを頂戴致します。 中央祭祀長にお礼とお辞儀をなさり、北東西南の順にお辞儀なさって下さい。
次は東軍祭祀長。 言祝ぎを頂戴し、お礼とお辞儀をしたら、北中央西南の順にお辞儀。 西軍祭祀長も同じで、お辞儀の順番は北中央東南。 最後の南軍祭祀長は北中央東西の順となります」
「俺に覚えられると思う?」
トビはエナを呼び、小さいメモ用紙をリネのドレスに縫い付けるように言い付けた。
スティバル祭祀長が常に一番なのは覚えやすい。 それにメモもある。 大丈夫、と何度も自分に言い聞かせた。 そうでもしないと不安に押し潰されそうで。 練習した時は間違えずにやれたが、本番になったらどこかで間違えるんじゃないかという不安は最後まで消せなかった。
そして本番。 まず南軍祭祀長が南軍将軍を従えて入場なさり、玉座に向かって左の一番端に置いてあったお席に着かれた。 次が西軍祭祀長と西軍将軍。 右の一番端に置いてあったお席。 その次が東軍祭祀長と東軍副将軍で左。 続いて中央祭祀長と近衛将軍で右。 最後に陛下がスティバル祭祀長とモンドー将軍を従えて入場なさり、スティバル祭祀長は陛下の右隣に着席なさった。
んもー。 席順が挨拶する順番と一緒だったら間違えないのに。
ただスティバル祭祀長の事はよく知っているし、祭祀長が変わる事は滅多にないおかげで東西南の祭祀長のお顔も知っている。 昨日会った人がネイゲフラン中央祭祀長だ。
俺がおっちょこちょいだという噂は皆様御存知だと思う。 間違う事を期待されているような気さえする。 考えないようにしているが、お辞儀の順番を間違えただけで牢屋入りにする事が出来るんだ。 俺から養育権を取り上げたいならこれって絶好の機会だよな。
間違いを罰するか許すかは陛下の御気分次第。 急に自分の服がみすぼらしい事が気になった。 陛下を始めとして、皆様家紋と宝石をこれでもかとあしらった派手派手の正装だ。 それに比べたら伯爵の礼服はかなり質素で、宝石箱の中に紛れ込んだ石ころみたい。 お前はサリの親として相応しくない、と言われているような気がした。
新年の挨拶を奏上するため陛下に平伏する時、俺の後ろに着いて来た師範をちらっと見た。 俺よりずっと質素な北軍大隊長礼服なのに気迫に満ちている。 さすがは北の猛虎。 これぞ皇国を背負い立つ英雄、て感じ。
ふう。 気合いだ、気合い。 あれを見習わなきゃ。
「皇国皇王陛下に新年のお慶びを申し上げる機会を頂戴し、臣民サダ・ヴィジャヤン、恐悦至極に存じます」
何とか練習した通りに奏上し、続いて各祭祀長から言祝ぎを頂戴した。 陛下が御退席なさり、スティバル祭祀長が続く。 一刻も早く皆様の御退席を見送り、今日の行事を終わらせたい。 そう願っていたら、ネイゲフラン祭祀長が御退席なさる時、俺に向かっておっしゃった。
「準大公は寒がりと聞いたが」
突然何の話? こんな所で世間話をするって、あり? まごついたが、俺が寒がりなのは事実だ。
「はい、そうです」
「寒い所で娘を育てるのは偲びなかろうて」
な、なんて答えたらいいの? はい、偲びないです? それだとサリを北に連れて帰れないんじゃ?
だからって、いいえ、偲べます、じゃサリが寒かろうと知ったこっちゃないと言ってるみたい。 どうにもうまい返事が浮かんで来ない。 もう破れかぶれだ。
「サリ様は大変寒さにお強いです」
それだけだとまた何か言われそうな気がしたので、一言付け加えておいた。
「妻が暑がりだからかもしれません」
ふと気が付くと皆様御退席になっていて、リネと師範しか残っていない。 リネが気遣わし気に俺の顔を窺っていた。
「終わったんだ」
俺がそう呟くと、リネに聞こえないように師範が俺の耳元で囁いた。
「さすがの不気味もバカには勝てなかったようだな」
何、それ。 俺の事、バカって言いたいの? むっとしたが、つまり師範もネイゲフラン祭祀長を不気味と思っていた、て事だよな。
「あの御方、不気味ですよね。 どこがどう不気味なんだか言えないけど」
そう言った途端、思い出した。
「あっ。 ネイゲフラン祭祀長て、以前俺達が神域で刺客に襲われた時の人形にそっくりだ!」
「ふうん」
「師範はそう思わないんですか?」
「人形の顔までは覚えてないな。 刺客の顔なら覚えているが。 お前、わざわざ人形に付いていた面まで取って見たのか?」
「駆けつけた兵士が外していたでしょ」
「そう言えばそうだったか。 ま、似ていようといまいと俺にとってはどうでもいい」
「うーん。 でもそれってあの襲撃に関係しているからのような気がしません?」
「他人のそら似だってある。 人形とのそら似で疑われたら、あっちもたまったもんじゃないだろ」
「だって額の皺の数まで同じでしたよ」
「お前の数え間違いなんじゃないのか?」
いくら数字に弱いからって四本を数え間違えたりしないよ。 と言っても手元にあの人形がある訳じゃないから間違いなんかじゃないと証明する術はない。 北に帰ったってまだあるかどうか。 精巧な造りだったから物好きな誰かが捨てずに保管しているかもしれないが。 もし本当にネイゲフラン祭祀長が関係しているのだとしたら、その証拠となりそうな人形は燃やされたか隠されて見つけられないような気がする。
正直な所、あんな気味が悪い物、二度と見たくないという気持ちの方が強い。 それ程言うなら証明しろと言われたら嫌だから黙っていると、師範が呟いた。
「確かに不気味は不気味だが。 不気味が罪ならバカはもっと罪だ」
ふん。 罪深くて悪うござんしたね。 バカが罪ならいじめはもっと罪ですよ、と言い返してやりたかったが、妻の前で拳骨を食らいたくはないから我慢した。
「誰がいじめたって?」
師範が怖い顔で睨む。
「な、何も言ってないじゃないですか」
なんで俺の考えている事が分かったんだろ?
「顔に書いてあるぜ」
「えっ。 どこっ?」
慌ててハンカチを取り出し、顔を擦ろうとしたらガツンとやられた。 いでで。
うう。 もしかしたら師範て、人の心が読めるの? 不気味かもっ。
あれ? て事は、俺って師範に勝ってる? バカなおかげで勝ったって自慢出来ないけど。
実は今までだって結構勝っていたのに気付いていなかった、とか?
ないない。 それはないな。




