知略 マッギニスの話
マッギニス侯爵家といえば代々近衛の将軍、副将軍を輩出した名家として知られている。 正嫡子であり、次男である私も当然近衛に入隊すると思われていたし、自分でもそのつもりだった。 北の猛虎の咆哮を聞くまでは。
北軍に入隊すると言った時の父の激怒。 そして兄の猛反対。 現近衛副将軍である叔父からは入隊と同時に小隊長に昇進させてやるという勧誘。 生まれて初めて目にした母の泣き落とし。 戦術の師、剣の師、及び学友総出の説得。 婚約者からは婚約解消の脅迫。
そのいずれも私の決意を動かすには至らず、強引に北軍へ入隊した。
父の意向を完全に無視した以上、勘当は当然と思っている。 執事経由で目立たぬ程度の援助はあったが、それは父には父の思惑があり、又、マッギニス家正嫡子が野垂れ死にしては外聞が悪いと思ったからでもある。 勘当は世間に公表され、父を始め家族や親戚とは入隊以来音信不通。 婚約は解消された。
生半可な気持ちでの決断ではない。 とは言え、入隊後すぐ、この選択は我が人生最初の誤りであったと深く後悔する事になった。
侯爵家正嫡子とは言っても肝心の実家の後ろ盾がないのだ。 単なる新兵として入隊するしかない。 だがマッギニス侯爵家の名は北軍でさえ知られており、それは良くも悪くも私を一層孤立させた。
平民兵士からは一線を引かれ、私が勘当同然である事を聞き知った貴族の子弟からは敬遠され。 しかも私は兵士として全くの役立たず。 それが状況を更に悪化させた。
冬の厳しさは話に聞いていたが、実際に経験した事がない私にとって想像を絶する寒さ。 それに慣れるだけでも苦労した。 加えて新兵としてやらねばならない仕事のほとんどは肉体労働。 薪を割る、火を起こす、洗濯、掃除。 それらは全て奉公人がやっていた。 私が自分でした事は一度もない。
もし近衛軍に入隊していたら少なくとも十数名の従者を引き連れていたであろう。 肉体労働は全て従者に任せられる。 新兵であってもしなくて済んだはずだが、父が情けで付けて下された従者はただ一人。 その者には別の重要な仕事をさせる必要があったので私の代理をさせる訳にはいかない。
ここに来て初めて私は誰かに出遅れるという経験をする事になった。 生まれて初めて薪を割る私がどんなにがんばった所で子供の頃から毎日薪を割っている者より遅いのは当然の事なのだが。
私は主の必要を読み、その望みを叶える事に長けた優秀な奉公人に囲まれていた。 だから手助けを頼まねばならない時でもその頼み方を知らない。 助けが欲しいなら口に出して頼むしかないという事を学ぶのにさえかなりの時間を要した。
それでなくとも北軍で侯爵家子弟は大変珍しい。 北の猛虎に憧れて入隊した貴族の子弟は私だけではないが、平民にとって侯爵家以上は雲の上の存在も同然。 遠巻きにして誰も近寄ってこない。
軍で孤立していようと北の猛虎と共に稽古が出来たなら私は充分幸せだっただろう。 だが稽古をつけてやれ、と上官から命令された時のタケオ小隊長のうんざりとした顔は忘れられるものではない。 この忙しいのに子守りをしろってか、と言わんばかり。
忙しい事は言われるまでもなく見れば分かる。 近衛がでっちあげたルールのせいで軍対抗戦に出場出来なくなった彼は自らの稽古に加え、他の出場者を徹底的に鍛え始めた。 今までは近衛の大将を試合に引っ張りだす前に勝敗が決まっていたが、タケオ小隊長が指導して以来、毎年大将戦を戦い、後少しという所まで追いついているのだ。
残念ながら私の剣は大した事はない。 新人戦にさえ出場出来るレベルではないのだから百剣に入るのは夢のまた夢。 私は側で稽古を見学する事も遠慮するしかなかった。
戦略家としての知識ならある。 将来近衛将軍を拝命する事を視野に入れた、大軍の指揮管理と戦略を中心にした教育なら充分なくらい受けた。 しかし戦のない日常。 しかも僻地の新兵にとって、そんなものが役立つ場面などそうあるものではない。 このまま行けば私が北軍将軍に昇進する可能性はゼロと言ってよい。
武器に関する知識なら誰にも負けないぐらいある。 ただ実戦はいつも誰かにやらせていたから武器を操るのに長けている訳ではない。 将軍なら武芸に秀でているに越した事はないが、千や万の兵を動かして勝つために必要なのは戦略であり、剣で負かす事ではないのだから。
とは言え、北軍初年兵では軍略の知識など無用の長物。 仕方なく北の寒さを武器として利用する術を研究し始めた。 最初は小型で大した効果はなかったが、改良して相手に冷気を感じさせる事に成功し、氷のマッギニスとして恐れられるようになった。
こんな田舎で恐れられた所で何になる。 そんな失意の日々を過ごしていた私の前に稀代の弓の名手として六頭殺しの若が現れた。 入隊以来、初めて戴いた父上からの手紙には、是非サダ・ヴィジャヤンと近しくなるように、と書いてあった。
何よりあの貴族嫌いで知られるタケオ小隊長がヴィジャヤンと時々一緒に食事を取っている。 同じ剣士という訳でも、それどころか同じ部隊の所属でさえないというのに。
その六頭殺しが饅頭売り? 怒りで目が眩みそうだ。
怒り? いや、これは嫉妬だ。 私に限らず、北の猛虎に特別待遇されている兵士は他に一人もいない。 なぜこの馬鹿丸出しの新兵なら側に寄る事が許されるのか?
そしてこの絶大なる若人気。 将軍から一兵卒にいたるまで北軍全員に好かれている事は疑いもない。 しかも父上からの手紙によると、この人気は北軍だけに留まらない。 全軍の将軍より知遇を得たのは甲冑を献呈した事も理由の一つだろうが、献呈前から六頭殺しの若はどの将軍からも入隊を熱望されていたらしい。 それに以前は上級将校から一兵卒に至るまで名が知られていた訳ではない。 今や軍は言うに及ばず、貴族から平民に至るまで、この若き英雄の噂でもちきりなのだとか。 なのになぜ饅頭などを売っている?
勿論これが単なる言いがかりという事ぐらい承知している。 六頭殺しが饅頭を売り歩いていようと本気で北軍の名折れになると思う者などおるまい。 分かってはいたが言わずにいられなかった。 才能、名声、若さと金。 何より私の最も欲している北の猛虎の知遇。 全てを持っているくせに、と思うから。
それが、饅頭を売って何が悪いと言い返された。 六頭殺しの若なんて、その内忘れられる。 美味しい饅頭の方が忘れられない、と。
その真実を突いた一言に驚かされた。 一見何も考えていないように見えるが、ヴィジャヤンは知略の根幹、つまり己を知っている。
自分がもてはやされている最中に、それが長続きしないものである事を知っている者は中々いるものではない。 いつかはなくなると思ってはいても実際なくなった後で初めて失ったものの大きさに気付くものなのだ。
今、六頭殺しの若の名声は鰻上り。 どこにも下降の気配は見えない。 それにも拘らず、そんな覚めた分析を己に下せるとは。
知略に関しては誰にも負けないと密かに自負していたが。 所詮は机上の理論を学んだに過ぎないという事か。
負けたな。 ふっ。 まあ、よい。 元々北の猛虎と同じ駐屯地で知遇を得たと言いたいがために北軍に来た。 これに六頭殺しの若まで付いてくるとは望外と言ってよい。
稀代の英雄二人と同じ時代に生きる事が許されたのだ。 今更地位も名誉も望むまい。
追記
オキ・マッギニス
第三十六代北軍将軍。 マッギニス侯爵家、第二正嫡男子。 第三十四代将軍暗殺事件の解決に活躍した「北軍十剣」の一人。 第三十五代将軍リイ・タケオ(北の猛虎)在職中、副将軍を務め、タケオ将軍退官後、北軍将軍を拝命す。 北出身ではない最初の北軍将軍として著名。
(「北軍将軍年代記」より抜粋)




