エピローグ
「なにぃ。何もなかったじゃと!」
天井を突き抜けるような甲高い声が響いた。
「久下心霊調査事務所」の室内。
矢上統馬が天界から戻ってきた翌日。時刻は昼前といったところである。
ソファに向き合っているのは、統馬と、霊剣・草薙。文字どおり、地獄の釜の中までともに歩んだ戦友同士だ。
事務所の中は、彼らふたりきりだった。
久下も詩乃も、夜叉を追う仕事の依頼で出かけてしまったし、孝子も龍二もそれぞれの職場や大学に戻っていった。
統馬は、髭をあたって髪をすいたせいか、それともシャツとジーンズという現代の服装に着替えたせいか、昨日までの落ち武者のような風貌は影をひそめ、多少は見られる格好になっている……などと、いつもの草薙なら開口一番にからかうところだが、今朝はそれどころではないらしい。
「三年間ぶりに詩乃どのと再会し、さぞやしっぽりと濃密な夜を過ごしていたかと思えば、何もなかったじゃと? 本当に? 大の男が? あの美しい娘と褥をともにして、何もしなかったと?」
ことさら念入りに強調する白狐に、統馬はいつもの仏頂面をさらに石のように固めてしまう。
「いったい、何があったのじゃ」
「だから、何もなかったと申しておろう」
「そうではなくて、詩乃どののご機嫌をそこねるような何ごとを、おまえはいったいしでかしたんじゃ」
統馬はかたくなに答えることを拒否していたが、それでは相談にならぬと気がつき、しぶしぶと口を開く。
「痛いと言われた……」
草薙は息をのみ、ウウとうなり声をあげた。
「馬鹿もんが。女は誰でも最初は痛いもんじゃわい。バツイチのくせにそんなことも知らんのか。だーかーらー、男たるもの、がっつかずに時間をかけて、ゆーっくりと丁寧にほぐしてやって、だな」
統馬は無言でひょいと草薙の首筋をつまみあげると、台所に歩いていって、蓋つきのゴミ箱の中にぽいと放り込む。
「ひゃああっ。茶殻が! コーヒー殻が!」
「何を誤解している!」
ゴミまみれの白狐を再び拾いあげて、怒鳴りつける。
「痛いと言われたのは、……俺の髭だ」
「ヒゲ?」
「口吸いを……しようとした。すると、俺の髭が頬に当たって痛いと言って、笑いころげるのだ。
からだに触れようとするたびに、くすぐったいと言ってまた笑いころげる」
統馬は耳たぶまで真っ赤になって、説明する。ちなみに「口吸い」とはいわゆるキスのことである。
「俺は信野しか知らんが、今の女子というのは最初の床では、あのように振舞うものなのか?」
「それで、結局どうなったのじゃ」
「だから、あきらめて何もしなかった。朝が明けるまで、ただあれこれと話していただけだ」
「ふうむ」
草薙は汚れた毛をつくろいながら、考え込む。
「いやいや、それも必要なことじゃて。三年間も究極の遠距離恋愛をしておったからのう。まずは互いのことを報告し、わかり合うことが大切なのじゃ」
「そんなものなのか」
「そんなものなのじゃ。だいたいおまえは言葉が足りなすぎる。きのうのあれは何たるザマか。矢上家の再興うんぬんとは。あれでは詩乃どのは、子作りの道具扱いではないか。おまえとて、昔はそのことで傷ついたこともあったろう」
「それとこれとは話が違う」
「同じことじゃ。言葉を尽くさねば、人の気持ちはついて来ぬ。詩乃どのが素直にその気になれないのも、無理からぬことじゃ」
統馬は真剣に頭をかかえてしまった。
「まあ、ここはわたしが模範というものを見せてやろう」
おほんと咳払いして、草薙は『新婚夫婦想定会話集』を演じ始める。
「『長いあいだ、さびしくさせたな』
『いいえ、きっと帰ってきてくれると信じていたわ』
『これからは、その何倍も幸せにする。おまえを愛してる。結婚してくれ』
『うれしい、私も愛しているわ』」
統馬は顔をひきつらせて、憮然として見ている。
「……とまあ、こんな感じで進めればよいのじゃ」
「『愛』などということば、口が裂けても言えん」
「かーっ。おまえは戦国時代に生きておるのではないぞ。21世紀に生きておるのじゃぞ。現代流の睦言のひとつやふたつ言えんで、女子と心を通い合わせられるか」
「そんなことを話さねば通じぬものなら、通じずともよい!」
統馬はついに短気を起こして、ソファに寝転がった。
「相変わらずのへそ曲がりのトーヘンボクめ」
そのままふたりは顔をそむけて口もきかなかったが、そのうちに統馬はぐっすりと眠ってしまった。昼間に寝て夜に起きるという夜叉の頃の習慣は、人間に戻ってからもなかなか抜けないものと見える。
「ふむ」
そんな主の横顔を見つめながら、草薙はなにごとか思案を始めた。
「ふうむ」
「まさかとは思いましたが、そういうことだったんですか」
昼過ぎに事務所に戻ってきた久下は、草薙の話を聞き終えたところだ。
寝ている統馬をソファに残し、ひとりと一匹はデスクで顔を寄せ合って、ひそひそと話していた。
「今朝、詩乃さんの顔をちらっと見て、そうじゃないかと思ったんです」
「プリプリ怒っとったかの?」
「いいえ、全然。いつもどおり明るく、きびきび動いてましたよ。それが余計におかしい。恋人との一夜を過ごしたあとの女性というものは、もっと退廃的というか、匂いたつような色気を漂わせているものでしょう」
さすがに久下尚人、伊達に5度の人生を送ってはいない。
「統馬の奴め、ことを急ぎすぎるのじゃ。優しいことばのひとつでも詩乃どのにかけてやればよいものを」
「それもそうですが、僕は詩乃さんの反応のほうも気になるのです」
「どういう意味じゃ?」
「詩乃さんは、一度レイプされています。もちろん、龍二くんとの日ごろのやりとりを見ていると、そのことはすっかり解決できているようには見えるのです。でも、心というのは、複雑なもの。……詩乃さんは無意識のうちに、男性との体の交わりを怖がっているのではないでしょうか。それで、髭が痛いだの、くすぐったいだのと理由をつけて」
「なるほど、そのことまでは思い及ばんかった」
草薙は耳をぴくぴくと動かすと、
「だが、考えてみれば、統馬にも同じことが言えるかもしれん」
「それは?」
「信野との初夜の記憶じゃよ。彼奴にとっては初めての閨で、相手から手ひどい裏切りを受けた。統馬にとっても、女性との交わりは、大きなシマウマなのかもしれぬのう」
「それを言うなら、トラウマでしょう」
「ははは。一度使ってみたかったギャグなのじゃ」
「どうして草薙と僕が、ここで漫才やらなきゃいけないんです」
ふたりは同時に、大きな吐息をついた。
「むずかしいのう」
「むずかしいですね」
そのとき、事務所のドアが勢いよく開いた。
「ただいまぁ」
ひっつめた髪に、皮ジャンとジーンズというワーキングスタイルの詩乃が入ってきた。
「あら、久下さんも早かったんですね」
「はい。詩乃さんもお疲れ様。首尾はどうでした?」
「ばっちりでしたよ」
「それはよかった」
詩乃は応接スペースのソファで足を止めると、眠っている統馬を愛しげに見下ろした。
「統馬くん」
膝をついてにじり寄ると、久下と草薙が仰天して見ている中、彼の額にそっと唇を押し当てた。
仰天したのは、キスで起こされた統馬も同じである。
「し、詩乃……」
「目は覚めた? どうせ、まだ昼ごはんも食べずに寝ていたんでしょ。近くに、おいしい讃岐うどんのチェーン店が新しくできたの。いっしょに行かない?」
ようやく上半身を起こした統馬は、まだぼんやりと目の前の詩乃を見つめている。
「それに、食後の散歩がてら、着替えの服も買いに行ったほうがいいと思うの。昔着てた服は、もう全然小さいし」
「……そんな金は持ってないぞ」
「だいじょうぶ、事務所のお給料の前払いということにしといてあげる。そのかわり明日から、うんと働いてね」
詩乃が統馬の手を引っ張り、ふたりは昨日と同様、またたくまにドアから消えた。
久下と草薙は、ひとこともなく見送っていた。
「……どうやら心配することなど、ちっともないみたいですね」
「ああ、本当じゃ」
「三年も離れ離れでいたんです。気持ちのズレがあって当然。一日や二日のためらいは仕方ないですよ」
「それにしても、詩乃どのは強くなったのう。統馬のやつ、完全に尻に敷かれとるじゃないか」
「統馬みたいな男には、そのほうがうまく行くような気がしますよ」
久下はくすくすと笑いながら腰を下ろしたが、ふと目の前の電話を見て、目を光らせた。
「そうだ。大事なことを忘れていました」
「何?」
「統馬の戸籍ですよ。四百年前に生まれた統馬には、戸籍も住民票もありません。このままでは婚姻届が出せないじゃないですか」
「あ、……なるほど」
「矢上の姓そのものが、この世から消えてしまっているのです。これでは家の再興もあったものじゃありません。なんとかしなければ」
と言いながら、久下は受話器を取った。水を得た魚のようにきびきび動き始める。
「むずかしいのか」
「夜逃げやドメスティックバイオレンスからの避難、などの理由で、このところ戸籍のない未就籍児が増えていると聞きます。きっと救済措置があるはずですから、その手を使いましょう。いざとなったら、孝子さんの助けを借ります」
「なんとかなるといいのう。詩乃どのの幸せのためにも」
「それがうまく行けば、今度は」
久下は、意味ありげにウィンクした。
「ふふ、いそがしくなりますよ」
事務所の上階にあるワンルームの明かりを点ける。
買ったばかりのたくさんの品をテーブルに並べ、手際よく片づけ始めた詩乃を、統馬は部屋の片隅からぼんやり見ている。
早い夕食を取り、買い物をして、喫茶店に入ってお茶を飲んで帰ってきた。
現代の恋人たちが過ごすようなデートコースを、詩乃の提案するままになぞった。だが、統馬にはそれを楽しむ余裕はない。すべてが頭の上を、巻物のようにくるくると通り過ぎていくだけ。
地上で久しぶりに味わう、平和な一日。
自分はまだ、平和に慣れていないのだと統馬は思う。人間であることにも、ひとりの女を恋うる男であることにも、慣れていない。それらは四百年前にすべて捨て去ったものだったからだ。
取り戻すには、きっと時が必要なのだろう。
「統馬くん」
気がつくと、テーブルが脇にどけられて、ふたり分の布団がやや間を空けて延べてある。
「疲れた? 地上に戻ってきたばかりなのに、連れ回してごめんね。お風呂に入って、今日は早く寝ましょう」
詩乃がそう言って、やさしく微笑む。
その微笑に、思わず見惚れた。三年ぶりに会った彼女は美しく、自信にあふれ、輝いていた。
だがその一方で、統馬と話すときの詩乃の表情には、まだ微かに他人行儀な、ぎこちなさがあるようにも思える。
「詩乃」
腕を伸ばすと、彼女はそれに引き寄せられるように近づいてきた。
「……髭は剃ったぞ」
「うん」
胸に抱かれながら、詩乃はくすりと笑った。それでも、その身体は近くにいるのに遠い。まるで、薄くてやわらかい膜に、彼女はすっぽりと被われているかのようだ。
見えない膜の中から詩乃を出すには、どうすればいい。草薙の言うように、「愛している」とことばで告げねば、心は開かないのだろうか。
それとも俺は、相手の心を閉じさせたまま情を交わすことしかできないのだろうか。信野のときのように。
――そんな過ちだけは、二度とおかしたくない。
「詩乃」
「はい」
「もっと力を抜け」
「え……?」
統馬は、彼女の身体を手前にぐいと倒して、抱きとめた。
「なぜそんな風にひとりで立とうとする。俺は、おまえを支えきれないような男なのか。俺が信じられないのか?」
詩乃は驚いたように、統馬の顔を見上げた。
「ううん」
「力を抜いて、俺に身体を預けろ。これではちゃんと抱けない」
「……そうか。私、いつのまにか力を入れてたんだね」
詩乃は、呆然とした声でつぶやいた。
「三年間、ずっとそうやってきたから……ちょっとでも力を抜いちゃダメだって」
自分の内側をおずおずとのぞきこむときの、ぼんやりとした眼差しになっている。
「がんばらなきゃ、みんなに心配かけないようにしなきゃって、……ずっと気を張りつめて生きてきたから」
「もう、そんな必要はない。俺は帰ってきた。おまえのそばにいる」
「ほんとに、……そうなんだ」
詩乃の目頭に、みるみる涙が浮かんだ。
「帰ってきてくれたと喜んでも、目が覚めたらいなくなっちゃう……ずっとそうだったの。でも、夢じゃない……もう、いなくなることはないのね」
「ああ」
「私、もうがんばらなくていいんだね」
愛する者にそう訴えかける彼女の頬に、ひとすじ、またひとすじと光る線が伝う。
「ああ、がんばらなくていい」
「私、本当は強くなんかないの。情けないほどダメで意気地なしで、誰かに守ってもらわないと生きていくことすらできないの。……それでもいいのね?」
「それでいい。俺がいる。俺が守ってやるから」
「統……馬くん」
次々とあふれでる雫に、詩乃をおおっていた膜が溶かされていく。そして、その雫は同時に、統馬自身の膜をも溶かしていくのがわかった。
「ひとりにさせてすまない。詩乃、俺はおまえを……あい」
統馬は大きく息を吸い込み、吐き出した。
「逢いたかった。気が狂いそうなほどに、逢いたかった」
妨げるものは、もう何もなかった。
ふたりは心のままに体を重ね、相手を焼きつくさんほどの熱情をもって奪い合い、与え合った。
翌日、事務所に入ってきた久下は、掃除している詩乃を見て、少し目を見張った。
「おはようございます」
詩乃は掃除機を止め、いつもどおりに元気に挨拶した。
「あ、お、おはようございます」
「お茶いれてきますね。今朝は玄米茶にしましょうか」
掃除機を壁にたてかけ、くるりと振り向いたとたんに、彼女は一瞬立ち止まった。
「ふわあ……」とあくびをかみ殺す気配がしてくる。
「く、草薙」
久下はあわてて草薙のもとに駆け寄る。草薙は事務所のデスクの上にふかふかのクッションを常備して、その上で寝泊りしているのだ。
「おお、久下か。おはよう」
「見ましたか、詩乃さんを」
「見た、見たぞい。おもいきり退廃的じゃ」
「色気がむんむんと、匂いたってますよ」
「こりゃあ、ゆうべはうまく行ったかのう」
そのとき、統馬が事務所のドアをくぐってきた。「何がうまく行ったんだ?」
ぼさぼさの髪に手をつっこみながら、大儀そうにソファに背を預ける。こちらのほうは、喉の奥まで見える大あくびを隠す気配もない。
「あの様子じゃあ」
「……昨夜一晩で、三回はヤッておるのう」
ひとりと一匹は顔をつき寄せながら、笑いをこらえるのに、もだえ苦しんでいた。
「じゃ、統馬。行きますよ」
なにやら仰々しく真っ黒な礼服を着込んだ久下が、宣言した。
「どこへだ」
「結婚式ですよ」
「結婚式?」
「昔で言うところの、祝言じゃな」
草薙も、目の色に合わせた黄金色の蝶ネクタイをしているのが、いかにもお洒落だ。
「誰の祝言だ」
「もちろん、あなたと詩乃さんのですよ。10時の予定ですから、急いでください」
「なぜ、今日になってそんなことを!」
「でも前もって言っておいたら、逃げ出したでしょう?」
久下と草薙は、おそろいの意地悪気な微笑みを見せた。
「心配せずとも、現代の祝言は二日も三日もかからぬ。一時間ちょいで終わるわい」
無理やり袖をつかまれ、統馬は事務所から引っ張りだされた。
新緑の季節。
街では、街路樹や舗道の植え込みが、瑞々しい色に沸き立つようだ。
「詩乃さんは、もう先に行って支度にかかっていますよ。孝子さんや龍二くんも、現地で準備を手伝ってくれてるはずです」
先頭を切る久下が、背中越しに説明する。
「詩乃さんのご両親も、2年D組のみなさんも全員出席してくださる予定ですからね。今さら嫌だなんて言わないでくださいよ」
「だいたい、そんなこと誰が頼んだ」
統馬はしぶしぶ後に従って歩きながらも、まだ釈然としない様子。
「……詩乃か?」
「詩乃さんは、自分から言い出すような子じゃありませんよ」
非難めいた冷たい目で、久下が振り返った。
「こういうことは、男から気づいて言い出すものでしょう。それなのにあなたがいつまで経っても何も言わないから。こちらで勝手に手配させていただきました」
ポケットの中から草薙も言う。
「結婚とは、家族と家族の結びつきでもあるのじゃ。離婚によって両親を失った詩乃どのにとって、式は両親とふたたび会える数少ない大切なチャンス。おまえはそれさえも、ないがしろにしてしまうところだったのじゃぞ」
ふたりの叱責に統馬はうなだれ、唇を引き結んだ。
「わかった。……すまない」
「わかればいいんです。さあ、着きましたよ」
彼らが立ち止まったのは、高い尖塔のある洋風の建物だった。
「伴天連の御堂ではないか」
塔のてっぺんの十字架を、呆気に取られて統馬が見上げた。
「詩乃さんには絶対に、角隠しよりもウェディングドレスが似合うと思うんです」
あくまでも平然と、久下が答える。
「心配しなくても、統馬の着る真っ白なタキシードも、ちゃんとここに用意してありますから」
「……」
蒼白になって逃げ出そうとする統馬の頭にすばやく草薙が噛みつき、久下が背中から羽交い絞めにした。
「往生際が悪いですよ」
「ほれほれ、早く行かんと、まばゆいばかりのウェディング姿の詩乃どのが男どもの目にさらされてしまうぞ。龍二がさらっていってしまうやもしれんのう」
「だいたいなぜ夜叉追いが、伴天連の教会などで祝言を挙げるんだ!」
抗議もむなしく、統馬は否応なしに詩乃の待つチャペルへと引きずられていく。
「だってほら、キリスト教の結婚式では誓いのことばというものがあって、『これを愛し、これをいたわり……』という一節がちゃんとあるのですよ。統馬に「愛」ということばを言わせるためなら、多少の宗旨の違いには目をつぶりましょう。
――そういうことならば、御仏もきっと赦してくださいますよ」
本サイトでは、アンケートのお礼ページとして置いてあったものです。




